(ウィキペディア記事資料引用より)
当初両姉妹船の重量は同じになる筈であったが、客室の数が増えた為に最終的にタイタニックの重量はオリンピックの45,324tよりも1,004t重い46,328tになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、当時世界最大の客船であったというのは間違いでは無いであろう。しかし陰に隠れたタイタニックの知名度が上がるのは、皮肉な事に沈没事故の後で悪い意味によるものだった。
遭難
航行
タイタニックと接触して沈没の原因となったと考えられている氷山。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。氷山の規模は写真からは分からない
船体(hull)と氷山(iceberg)の衝突状況
1912年4月10日、イギリスのサウサンプトン港からタイタニックは処女航海に出航した。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウンに寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
ただし出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が退船してしまったため、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなった。そのため、双眼鏡を使わずに肉眼で見るしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となる。
同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは4月14日に6通の警告通信を受理している。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニックの通信士たちは旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。ただし前述の通り、双眼鏡は使えなかったので、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。
回避行動
タイタニックは22ノット(約40.7km/h)という高速で航行中だった。氷山の発見後、同船は回避行動をとりまず左へと舵を切ったが、衝突までには40秒とかからなかった。
このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切る。ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。「速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果論であり、衝突時にはかなりの速力が出ていたことが予測され、舵効きには影響はなかったようである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。
衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m?程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。
だが、右舷船首のおよそ90メートルにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。もしタイタニックが氷山に正面から衝突していた場合、浸水した防水区画は一部の狭い範囲にとどまる(タイタニックは船体を区画分けして、その4区画までの浸水では沈没しない設計になっていた)ことになり、沈没を免れた可能性もある(結果的には衝突を回避しようと舵を切り中途半端に方向を変えたことが仇になった)。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか20kmほどの距離に停泊中の貨物船・カリフォルニアンがあったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。およそ90km離れたところにいた客船・カルパチアが応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった(もし、スミス船長が機関停止せずにカルパチアに向けて航行する決断をしていれば、実は沈没前に両船は会合することが可能だった[要出典])。
ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。
脱出・救命
沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多く(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが推進もバランスも不安定というデマが乗員の間に流れていた)、中には定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
結局、多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側しがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かう為、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、彼が準備を整えて救助に向かった時は既に遅かった。結果、海に投げ出された人々は気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
影響
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると1,513人の多きに達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。
また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
なお、この沈没事件にはさまざまな謎や説があり、特にホワイト・スター・ラインとの関係や「運んでいたミイラによる呪い」という説は有名である。
その他
沈没したタイタニック 2003年6月、ロシアのMir I潜水艇の外部カメラによる画像
- 唯一の日本人乗客
- タイタニックには唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文が乗船していた。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家・細野晴臣の祖父にあたる。有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長い間着せられた。このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にまでも取り上げられたが、細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。
- 死後の1941年になって、本人が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には細野とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、名誉回復されることになった(しかし先の事件が長く喧伝されたのに対して名誉回復が行われてから日が浅いため、いまだにこの件を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する日本人や外国人も少なくない[要出典] )。また、密航の為に救命ボートに最初から乗り込んでいたアジア系の人物を細野と間違った可能性もあるほか、細野が髭を生やしていたため同じ救命ボートで脱出したアルメニア人男性の連れと勘違い(アルメニア人生存者は彼一人である)した証言もあることから、全くの別人の行動と錯誤した可能性もあるという。
- 細野がこの様な不当な批判を受けることになった理由として上述のように日本人に対する偏見もあるが、本人が事件後直ぐ帰国して批判に対する反証の機会を得られなかったこと、そして弁明や言訳をすることを恥とする武士道的な倫理を持っていたからと考えられる。しかしこのような沈黙を美とする考えは欧米人には全く通用しなかったと考えられる。なお細野が救助直後に残した事故の手記はタイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、細野の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
- オルゴール
- タイタニックにはオーケストリオンと呼ばれるオルゴール(複数の楽器の音を出し、オーケストラの様な演奏を行うオルゴール)を積み込み、使用する予定だったが、製作が出航に間に合わなかった(代わりに楽器奏者が乗ることになった)。タイタニックで使用されるはずだったオーケストリオンは現在、オルゴールの森美術館(山梨県富士河口湖町)に展示されている。
沈没後のタイタニック
1985年9月1日、海洋考古学者ロバート・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦の調査が主目的であった。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。
海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。
しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。
客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに崩壊消滅する見込みである。
陰謀説
船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めたとする説がある。
乗組員