白秋ながや文庫

日々の徒然。

Tについて~2(引用記事について}

2008年03月31日 | インポート

チベット 参考資料記事掲載について(・・・関係各社さまへのご理解ご容赦感謝いたします)筆者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

チベット
チベット語表記 ????
チベット語ラテン文字表記 bod
国際音声記号表記 [p?ø?]
上記の片仮名転写 プー、またはポェ
サンスクリット語ヒンディー語ネパール語ラテン文字表記 Bhota
満洲語表記(メルレンドルフ式ラテン文字表記) Tubet
モンゴル語表記 Tübet
中国語表記(ピンイン 土伯特(Tŭbótè)
英語表記 Tibet
上記の片仮名転写 チベット
チベット民族が分布する諸国 ブータンインドネパール中華人民共和国

チベットチベット文字:????; ワイリー方式Bod)は、古代から独立国家であったが、による支配を受け、清の滅亡後、再び独立国家となるが1950年中国人民解放軍による侵略を受け、チベットは軍事制圧された。その際中国人民解放軍は、夥しい規模の破壊とともに、チベット族の大量虐殺を行った。その後チベット自治区が設置された。

1955年 - 1959年に「中華人民共和国政府による併合」に抗議するチベット動乱が勃発し、武力弾圧の結果、十数万人のチベット難民が発生した。チベット亡命政府のもと、異議申し立てが行われている。

目次

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概要

名称

チベットを示す漢字表記として名高い西蔵は、中国大陸では、1725年ごろから現在にいたるまで中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用され、アムドカムを含むチベット全域の総称としては使用されていない。日本では明治期から昭和中期にかけて、中華民国や中国国外の華僑等の間では近年、Tibetの訳語として「西蔵」を用いる例がある(→西蔵西蔵地方参照)。チベット全域をさす漢字表記による総称としては、主として清代に通用した土伯特唐古特等がある。

 

Tについて~1(引用記事について}

2008年03月31日 | インポート

タバコ (Nicotiana tabacum L.) とその近縁種(「引用参考記事掲載について・・・関係各社様のご理解、ご容赦の程を。かんしゃいたします。)筆者


タバコとの付き合いは、喫煙するためのタバコではなく、実験材料としてのタバコである。私は、ウイルスの感染・増殖の機構に関する研究にタバコの葉から分離したプロトプラストを用いた。また、タバコモザイクウイルス(TMV)やトマトモザイクウイルス(ToMV)の感染性の検定、純化・精製、突然変異体の分離にも不可欠の材料であった。さらに、感染によって引き起こされる宿主の病徴によるウイルス系統や突然変異体の特性の解析にもタバコを利用した。このように、タバコを用いることによってウイルスの研究を進展させることができた。

植物ウイルス研究に限らず、タバコは、基礎植物学の発展に大きく寄与した。とくに、サイトカイニンやオーキシンなどの植物ホルモンに関する研究、細胞小器官の構造や機能に関する研究、細胞からの組織・器官の分化に関する研究、細胞融合や遺伝子組換えなどバイオテクノロジーの開発にはとりわけ重要な実験材料であった。喫煙の健康にもたらす弊害から、近年はタバコのイメージがわるくなってきているが、タバコが喫煙とは関係のない植物学やバイオテクノロジーの発展に寄与したことは、人類の喫煙の習慣のおかげでこの植物の栽培が国境を越えて普及し、タバコ自体の研究や改良が進んだからである。

タバコ(Nicotiana tabacum L.)は複二倍体であり、染色体数はn=24である。N. tabacumは、二倍性野生種であるN. sylvestrisN. tomentosiformis との雑種に由来し、これら2種の野生種の自生地の境界にあたる、ボリビアとアルゼンチンの国境近くのアンデスの高地が栽培種の発祥地と推定されている。野生のN. tabacumは発見されていないが、その原種は野生種として存在し、原住民がそれを栽培したのであろう。喫煙がいつ始まったかは不明であるが、コロンブスが新大陸を発見したころ(1492)には、すでにインディオの間に喫煙の習慣があった。コロンブスがタバコの種をスペインに持ち帰ったという証拠はないようであるが、その後の新旧大陸間の交流でタバコは16世紀中頃にスペインに導入され、急速に旧大陸に広がっていったと考えられている。日本には1600年頃にポルトガル人によってもたらされたようである。

タバコ属はキチョウジ属(Cestrum)およびペチュニア属(Petunia)に近く、これらの属と共通の祖先をもつと考えられている。タバコ属には60種が含まれ、主に南米に野生種として存在し、一部はオーストラリアや南太平洋の島々に分布している。しかしタバコ属植物のすべては、南米に起原をもち、そこから伝搬したものと推測されている。

タバコおよびその近縁種の実験材料としての利点について述べる。

タバコ(N. tabacum L.)

ウイルスの研究(タバコモザイクウイルスの研究を例として)

タバコは、かなり多くのウイルスに感染する。中でも、タバコモザイクウイルス(TMV)には容易に感染し、激しいモザイク症状が生じる。TMVをタバコの葉にこすりつけて1週間ほど置くと、その間ウイルスは葉の細胞の中で急激に増殖し、葉1キログラム当り2~5グラムほどのウイルスを回収することができる。これは、TMVが葉の細胞内で激しく増殖し、恐るべき量が蓄積したことを意味する。感染タバコ葉から精製されたTMVは、不純物をほとんど含まないきれいな標品であり、ウイルス粒子の構造や、それを構成する蛋白質および核酸の物理・化学的研究に最適である。

TMVは、1898年、オランダの学者Beijerinckによって発見された。これは、ウイルスというものの初めての発見である。その後、TMVによって、ウイルス学の多くの先駆的な研究が行われた。StanleyはTMVを用いてウイルスの結晶化に初めて成功し、ノーベル賞を受賞した。TMV粒子は蛋白質と核酸(RNA)によって構成されているが、GiererとSchramは、RNAにタバコへの感染性があることを発見し、遺伝子の本体は核酸にあることを証明した。その後もTMVの研究からウイルス学上多くの知見が得られている。これらの業績にタバコは多大の貢献をした。

TMVの輝かしい研究の中にあって、あまり目立たないけれども、特に評価すべきは、F. O. HolmesによるN遺伝子をもつタバコの育種であると思う。N遺伝子はタバコ属野生種N. glutinosaに存在する優性遺伝子で、この植物の葉がTMVに感染すると、ウイルスが侵入した部分の組織が壊死し、小さな褐色の壊死斑を作り、ウイルスの増殖を閉じ込める。壊死斑の周縁にはウイルスが存在するが、それらは組織内を広がって行くことができない。Holmesは、N遺伝子を特別な方法でタバコに導入することに成功し、その成果を1938年に発表している。現在Nをもつタバコ品種にSamsun-NNおよびXanthi-ncがあり、それらの品種を用いてTMVの感染性の定量、TMV系統や突然変異体の分離などに不可欠の材料になっている。

TMVの増殖機構の研究にとくに役立ったのは、タバコの葉の内部の細胞(葉肉細胞)から分離したプロトプラストであった。この手法は、建部到博士と共同研究者達によって開発された。タバコの表皮をはがして(葉の裏の表皮だけでよい)、酵素によって細胞壁を構成するペクチンとセルロースを分解すると、葉肉細胞からプロトプラストが分離してくる。酵素液を特定の塩類を含む高張液に置き換える。このプロトプラストにウイルスを感染させて、様々な方法でウイルスの細胞への侵入過程や増殖過程を分析する。これによって、TMVがどのようにして自己を複製してゆくかが分かったのである。N遺伝子は、トランスポゾンタギングという方法で、タバコから単離され、その構造や機能が調べられた。

タバコは、TMVをはじめとして、トマトモザイクウイルス(ToMV)、キュウリモザイクウイルス(CMV)、ジャガイモXウイルス、ジャガイモYウイルスなど、かなり多くのウイルスに感染してそれぞれのウイルスに特異的な病徴を示すが、タバコに感染しないとされているウイルスも多くある。それらのウイルスの研究はタバコを材料に使うことができないと考えられる。しかし、それらの中には、タバコプロトプラストに感染し増殖するものもある。私自身の研究では、マメ類のウイルスであるカウピー・クロロティック・モットル・ウイルス(CCMV)やピー・エネーション・モザイク・ウイルス(PEMV)およびイネ科植物のウイルスであるブロムグラス・モザイク・ウイルス(BMV)には、タバコは感染しないとされていたが、タバコ・プロトプラストにはよく感染・増殖することが分かり、それらのウイルスの増殖の過程を分析することができた。

細胞の組織・器官への分化に関する研究

タバコの葉を消毒したのち、1平方センチ位の小さな切片を作り、適当な塩類、糖、ビタミン類のほか、サイトカイニンとオーキシン(どちらも植物ホルモン)を適当な濃度比で加えた寒天培養基の上に置き、光を当て、温度を30度前後に保ち、3週間ほどすると、葉の切片の周辺から細胞が分裂し、沢山の芽を生じる。これは、葉切片でなくて、茎の切片でもよい。出て来た芽が伸長したら、切り取って、植物ホルモンを含まない培養基にさしておけば、やがて根がでる。このようにしてできた個体は、クローン個体である。タバコは、このように、組織からの器官分化する能力が極めて高い。このような高い組織分化能力をもつタバコ培養組織を用いて、ウィスコンシン大学のSkoogらは、主要な植物ホルモンの一つ、サイトカイニンを発見したのである。この成果は、1956年に発表され、のちの細胞融合や遺伝子組換えへと続く植物バイオテクノロジー発展への出発点となった。次に特筆すべきは、プロトプラストからの植物個体を再生させたことである(長田・建部)。この研究は、植物の体細胞が完全な植物体を再生させる全能性をもつことをはっきりと証明したものである。タバコは現在も細胞や組織分化の研究のための重要な材料である。

N. glutinosa L.

前述のN遺伝子をもつ野生種で、TMVの研究の初期には、ウイルスの感染性の検定によく使ったものである。タバクム亜属(Subgenus Tabacum)に属する種であるから、タバコに近い。染色体数12対の二倍種である。ペルー、エクアドルに野生している。

N. benthamiana Domin

近年ウイルスの研究や遺伝子サイレンシングのような分子生物学的研究に盛んに用いられるようになった。生長が早く、育てやすい種であること、タバコに感染しにくいようなウイルスでも、よく感染・増殖することなどの理由によると思われるが、とくにBaulcombeらが、ジャガイモXウイルスをベクターとして使う遺伝子サイレンシングの実験系として、N. benthamianaを用いたのをきっかけとして、この野生種は遺伝子の機能を調べるための重要な実験材料になった。ペチュニオイデス亜属(Petunioides)のスアヴェオレンテス節(Suaveolentes)に属する種で、染色体数は19対の二倍種である。スアヴェオレンテスに属する多くの種はオーストラリアに分布し、本種も同様である。

参考文献
宇賀田為吉(1977) 毒と化した薬・タバコ. 「週刊朝日百科 世界の植物」 107: 3267-3269.
大堀和信 (1976) タバコ. 「週刊朝日百科 世界の植物」 13:289-291.
岡田吉美 (2004) タバコモザイクウイルス研究の100年. 東京大学出版会
建部 到 (1979) 高等植物のプロトプラスト. 蛋白質 核酸 酵素 24: 569-579.
田中正武 (1975) 栽培植物の起原. 日本放送出版協会
たばこと塩の博物館 ホームページ 「たばこの歴史と文化」 (http://www.jti.co.jp/Culture/museum/tabako/index.html)
本吉總男 (1988) 植物ウイルス抵抗性発現における遺伝子間相互作用. 細胞工学 7:220-229. 秀潤社
Goodspeed, T.H.(1954) The Genus Nicotiana. The Chronica Botanica Co. Dubin, R.D.(ed.) (1979) Nicotiana. Procedure for Experimantal use. USDA.
Holmes, F.C. (1938) Inheritance of resistance to tobacco-mosaic disease in tobacco. Phytopathology 28:552-561.
Miller, C.O., Skoog, F., Okumura, F.S., von Salza, M.H., Strong, F.M.(1956) Isolation, structure and synthesis of kinetin, a substance promoting cell division. J. Am. Chem. Soc. 78: 1375-1380.
Motoyoshi, F. (1985) Protoplasts in virology. In: "Plant Protoplasts. ( Fowke, L.C. & Constabel, F. ed.)", CRC Press.
Ruiz, M.T., Voinnet, O. and Baulcombe, C. (1998) Initiation and maintenance of verus-induced gene silencing. Plant Cell 10: 937-946.
Whitham, S., Dinish-Kumar, S.p., Choi, D., Hehl, R., Corr, C. and Baker, B. (1994) The product of the tobacco mosaic virus resistance gene N: similarity to Toll and interleukin-I receptor. Cell 78:1101-1115.



タイタニックと人間の関係~憂と愁

2008年03月31日 | インポート

 内外時事キーワードはアルファベットTの桜花の季節、人名、国名、事象花盛り。憂愁。

 

 前記3回のタイタニック資料引用については、人間関係の人は関係ないでは生きられない。

この言葉に尽きる。日本の国土面積約37万平方に1億数千万人はほぼ等しい国土面積を持つノルウェイーの450万人と比較すれば、多い数字です。終戦後は約8千万人だったらしいが、その前後にも国策での海外移住はあった。・・・今、内なる見えない内戦のように自殺者数3万人以上、それ以外を含めると又急速に人口が減少しつつある。先先日、希望というステーションの中継が放送していたが、胸中はどうだったのだろう?・・・アポロ11号が着陸した37万キロはるか先の月。人類移住は夢の夢。人口増大を短絡的に増えすぎたら減らす。傲慢な愚かな考えである。・・・そうゆう発想は論外である。・・・そう思考が働く方が正常な精神状態だと思いますが?人は得てして傲慢な考えに陥ることは歴史が証明する。所詮、弱い面を持っているのが人間だと思うが、いや、できることなら意志と知恵で克服するべき力あるリーダーは、克己を望みたいものです。動物社会のリーダーはサル山でも猛獣でも力と知恵あるものが、群れに危険が及ぶ時命を張って自己犠牲を持ってむれを守るからこそリーダーのカリスマが証明される。1億数千万人がノアの箱舟じやないけれど貴重な財産と思考があればそれぞれの巷あるいは外因も知恵で乗り切れられると察するが、我先にのタイタニック事例のようにでは結果惨事ではあまりにも悲惨ではなかろうか?

 

 

   


タイタニック~続々(3)

2008年03月29日 | インポート
乗組員                 (ウイキペディア資料より引用記事)

参考文献

  • 『タイタニック号の最期』 ウォルター・ロード佐藤亮一訳 タイタニックに関する決定的なノンフィクションであるとされる。
  • 『タイタニックは沈められた』(ロビン・ガ-ディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット) タイタニックが遭難したのは保険金詐欺を狙いにした陰謀だという説[1]
  • 「なぜタイタニックは沈められたのか」(ロビン・ガーディナー)

関連項目

外部リンク

 

 

   


タイタニック~続(2)

2008年03月29日 | インポート

    (ウィキペディア記事資料引用より)

当初両姉妹船の重量は同じになる筈であったが、客室の数が増えた為に最終的にタイタニックの重量はオリンピックの45,324tよりも1,004t重い46,328tになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、当時世界最大の客船であったというのは間違いでは無いであろう。しかし陰に隠れたタイタニックの知名度が上がるのは、皮肉な事に沈没事故の後で悪い意味によるものだった。

 遭難

 航行

タイタニックの遭難地点 1912年4月15日
タイタニックの遭難地点 1912年4月15日
タイタニックと接触して沈没の原因となったと考えられている氷山。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。氷山の規模は写真からは分からない
タイタニックと接触して沈没の原因となったと考えられている氷山。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。氷山の規模は写真からは分からない
船体(hull)と氷山(iceberg)の衝突状況
船体(hull)と氷山(iceberg)の衝突状況

1912年4月10日イギリスのサウサンプトン港からタイタニックは処女航海に出航した。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスシェルブールアイルランドのクイーンズタウンに寄港し、アメリカニューヨーク港に向かった。

ただし出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が退船してしまったため、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなった。そのため、双眼鏡を使わずに肉眼で見るしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となる。

同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは4月14日に6通の警告通信を受理している。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニックの通信士たちは旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。

4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。ただし前述の通り、双眼鏡は使えなかったので、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。

 回避行動

タイタニックは22ノット(約40.7km/h)という高速で航行中だった。氷山の発見後、同船は回避行動をとりまず左へと舵を切ったが、衝突までには40秒とかからなかった。

このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切る。ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。「速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果論であり、衝突時にはかなりの速力が出ていたことが予測され、舵効きには影響はなかったようである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。

衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m?程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。

だが、右舷船首のおよそ90メートルにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。

沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。もしタイタニックが氷山に正面から衝突していた場合、浸水した防水区画は一部の狭い範囲にとどまる(タイタニックは船体を区画分けして、その4区画までの浸水では沈没しない設計になっていた)ことになり、沈没を免れた可能性もある(結果的には衝突を回避しようと舵を切り中途半端に方向を変えたことが仇になった)。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。

タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか20kmほどの距離に停泊中の貨物船・カリフォルニアンがあったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。およそ90km離れたところにいた客船・カルパチアが応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった(もし、スミス船長が機関停止せずにカルパチアに向けて航行する決断をしていれば、実は沈没前に両船は会合することが可能だった[要出典])。

ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。

脱出・救命

沈没するタイタニック Willy Stöwer画
沈没するタイタニック Willy Stöwer画
カルパチアに近づく救命ボート
カルパチアに近づく救命ボート

沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多く(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが推進もバランスも不安定というデマが乗員の間に流れていた)、中には定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。

結局、多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側しがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かう為、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、彼が準備を整えて救助に向かった時は既に遅かった。結果、海に投げ出された人々は気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。

影響

最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると1,513人の多きに達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。

この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。

また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。

なお、この沈没事件にはさまざまな謎や説があり、特にホワイト・スター・ラインとの関係や「運んでいたミイラによる呪い」という説は有名である。

その他

沈没したタイタニック 2003年6月、ロシアのMir I潜水艇の外部カメラによる画像
沈没したタイタニック 2003年6月、ロシアのMir I潜水艇の外部カメラによる画像
唯一の日本人乗客
タイタニックには唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文が乗船していた。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家・細野晴臣の祖父にあたる。有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長い間着せられた。このことは恥ずべき日本人の行為として日本の小学生向けの教科書にまでも取り上げられたが、細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。
死後の1941年になって、本人が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には細野とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、名誉回復されることになった(しかし先の事件が長く喧伝されたのに対して名誉回復が行われてから日が浅いため、いまだにこの件を持ち出して日本人男性を非紳士的と主張する日本人や外国人も少なくない[要出典] )。また、密航の為に救命ボートに最初から乗り込んでいたアジア系の人物を細野と間違った可能性もあるほか、細野が髭を生やしていたため同じ救命ボートで脱出したアルメニア人男性の連れと勘違い(アルメニア人生存者は彼一人である)した証言もあることから、全くの別人の行動と錯誤した可能性もあるという。
細野がこの様な不当な批判を受けることになった理由として上述のように日本人に対する偏見もあるが、本人が事件後直ぐ帰国して批判に対する反証の機会を得られなかったこと、そして弁明や言訳をすることを恥とする武士道的な倫理を持っていたからと考えられる。しかしこのような沈黙を美とする考えは欧米人には全く通用しなかったと考えられる。なお細野が救助直後に残した事故の手記はタイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、細野の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
オルゴール
タイタニックにはオーケストリオンと呼ばれるオルゴール(複数の楽器の音を出し、オーケストラの様な演奏を行うオルゴール)を積み込み、使用する予定だったが、製作が出航に間に合わなかった(代わりに楽器奏者が乗ることになった)。タイタニックで使用されるはずだったオーケストリオンは現在、オルゴールの森美術館山梨県富士河口湖町)に展示されている。

沈没後のタイタニック

1985年9月1日、海洋考古学者ロバート・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦の調査が主目的であった。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。

海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。

しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。

客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに崩壊消滅する見込みである。

 陰謀説

船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めたとする説がある。

 乗組員

 

 

 

   


タイタニック(1)

2008年03月29日 | インポート

 タイタニックが昨日から今晩まで再放送。1997だったか?ビデオまで手に入れ、何度も観た。

ティターン、タイタンと言えば、ギリシャ神話にでてくる巨神らしいが、浮沈、富と国力、格差の象徴のまさかの大惨事は、ジェームズキャメロンのエンターティメント映画でみごとな作品となった。

今の時代に、あらためて観るとさまざまな想像をします。

参考資料など、ウキィペディアより下記引用しました。さまざまな視点で多くの人たちに中立的に情報を引用したいとの念を持って、ことにおいて、資料寄稿の関係各者様に、ご理解と御礼尊敬申しあげます。  筆者 合掌

・・・以下 (ウィキペディア記事資料引用より)

タイタニック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タイタニック(英語:Titanic)とは、

タイタニック号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

タイタニック号(1912年4月2日)
船歴
船籍 イギリス
所有 ホワイト・スター・ライン
母港 リヴァプール
発注
起工 1909年3月31日
進水 1911年5月31日
命名
処女航海 1912年4月10日
その後 1912年4月14日に沈没
性能諸元
総トン数 46,328トン
排水量
全長 268.8m
全幅 27.7m
全高
吃水
機関 スコッチ式ボイラー24基補助5基、
レシプロ4気筒エンジン2基、
蒸気タービン1基、50,000hp(37 MW)
推進器 混成3軸、3枚羽スクリュー推進、
速力 23ノット(42.6km/h)
定員 船客数:1等329人、2等285人、3等710人
乗組員数:899人
建造中のタイタニック号 船尾スクリュー
建造中のタイタニック号 船尾スクリュー

タイタニック (RMS Titanic) は20世紀初頭に建造された豪華客船である。1912年4月14日の深夜に氷山に接触し翌日未明にかけて沈没。乗員乗客1,513人(1,490人、1,522~23人という説もある)が犠牲となり、当時世界最悪の海難事故となった。

目次

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概要

タイタニックはイギリスホワイト・スター・ライン(White Star Line)が北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運行されたブリタニックがある。トーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ(Harland and Wolff)で建造された、当時世界最大の客船である。タイタニックの正式名称は『R.M.S.(Royal Mail ShipまたはSteamer)Titanic』。

建造

元々の計画の発端は20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長であるピリーが、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのイズメイ社長に3隻の大型客船の造船計画を発案したのが発端である。

ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。船体は喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝されていた。実際、船の構造は現在から見てもかなり安全なものであるともいわれている。しかし完全密閉された区画でなく、上部のメインデッキで区画全てが吹き抜けでつながっていたことにより多量の海水が他の傷ついていない区画を次々と侵し結果的に致命傷になった。

先述したがタイタニックには1年先立って竣工した姉船のオリンピックと自身の沈没により大幅に造船が遅れた妹船のブリタニックが存在した。これは北大西洋を航海する際1隻ではまかないきれない為、最低2隻を常に交代させる必要があった為である。3隻の船の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船のブリタニックの造船が開始された。ブリタニックはタイタニックの沈没により大幅に安全面が見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されるものの無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤め引退する(詳しくはオリンピック (客船)ブリタニック (客船・2代)の章を参照)。

タイタニックはオリンピックとはほぼ同時期に造船が開始された事もあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室サービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。映画「タイタニック」では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。その為、タイタニックの写真としてオリンピックが使われる事が度々行われていた。つまりタイタニックは二番煎じであり、当時はオリンピックの陰に隠れた存在であった。

しかし、先立って運行されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。例えばAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)の窓がオリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは船首前半部がガラスが取り付けられた窓に変更された。これは北大西洋の寒い強風から乗客を守るために変更された為である。結果タイタニックはオリンピック号よりもスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。他にもオリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックの設計図からはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等の客室数がオリンピックよりも比べられない程増え、オリンピックには無い専用のプロムナードデッキがついたスイートルーム(映画「タイタニック」のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計される事になった。

タイタニック(黒地)と他の乗り物との比較


人間の関係~四季姉妹

2008年03月23日 | インポート

 人間の関係の著者、五木寛之氏の四季~シリーズ。ドラマ、映画でリアルタイムでみて、まさに時代がオーバーラップする。四女の妹の繊細さと世の流れが、さまざまな個性を持つ姉達の生き様とは、冬を越える裸樹の生命力のしなやかさを控えめな行間より感情移入してしまう。さながら伊藤美咲かな?現代版のスチエーションより原作の流れ出こそタイムリーであろう。オトロジーの歌声がそこで生きる構成であれば世界の・・・中心で愛を・・・より一世風靡するでしょうね。平井堅もいいけど、やはりオトロジーでマッチングがとれそうですね。                                      


環境問題について?

2008年03月18日 | インポート

 環境問題については輸入依存国のわが国においては、なかなか触れにくいタブーの問題です。産業革命以降、工業化における公害問題、ごみ問題を含む産廃問題は文明社会と自然の折り合い、又は共存はバランス配分が経済と政治との兼ね合いが計り知れない。最近GNPが低空飛行の我国ではエコロジーには微妙な塩梅でメディアも含めて口を開くようになっているようだ。たかだかの時間でパンドラの箱からさまざまなものが開放されて、唖然とするこのごろである。・・・しかし高級車に乗ってエコロジーを語っても説得力はあるんでしょうか?高度成長期には、東京の空は鉛色、又、都会のイメージも東京に咲く、桜の花のように・・・灰色の空気を吸って虹を咲かせると、生き馬の目を・・・の都会での「粘り」を持ってというサクセスとの光と影がレンブラントのマジックのようにあいまいと放射の客観性で評価が存在した。・・・パリの華やかさは農業国の木の根で維持されているが、近代の足跡での、わが国では独創性の模索が必要であるので、一筋縄では難しい問題ですね。古今東西、衣食住から医職銃また位属自由の問題が先決のように思われて仕方がない。(民族、国家、宗教、あらゆる格差違いを含めた寛容の共存の理想は?)

 

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墓場鬼太郎があるようだ。

2008年03月14日 | インポート

 木曜深夜にフジテレビで墓場鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎の原点?)日曜朝のゲゲゲの鬼太郎も面白いが深夜の鬼太郎は少年時代に記憶があった水木しげる氏の鬼太郎の漫画の原点であったように思える。水墨画(語彙が足りずあえてそういいますが・・・)を思えさせる印象があった。個人的には、楳図かずおの漫画は読めば夢にでてくるように恐ろしかったが、水木しげるの漫画はどこかで救いのある漫画だった。 

 

             

  


寝すぎ、寝不足は成人病に良くない?

2008年03月13日 | インポート

 5時間未満も良くないし、10時間以上も良くない?成人病臨床統計は諸説いろいろ出ていますが、適度な運動、ストレスの基が負荷にあるとすれば、何事も程ほどの個人差でコンディションとの兼ね合いかと、思いますが?最近は中央線沿線の神社へのミニ散歩がお気に入りです。・・・某プロダクションの近くにある喫茶店のモーニングもくせになりそうです。(ちなみに店内にブランコがある。花屋にハンバーグのうまい店も近くにある駅近くの喫茶店)・・・神社は、そっから徒歩2~3分です。

 

             

  

 


本日はシャトル打ち上げというが・・・

2008年03月11日 | インポート
 久々のシャトル打ち上げだという。ヒューストンよりの感動はアポロ11号の月面着陸の感動が衝撃的でした。しかし、シャトル打ち上げの日程の前後はなぜか?リングオブファイア(環太平洋造山帯)もしくは北緯35度~プラマイの位置にて天変地異がきになるところです。。