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塚本邦雄の短歌(代表作四首)

2009-02-22 16:47:55 | 塚本邦雄周辺
前衛派の旗手たち(その三)より

 北園克衛、高柳重信と来ると、ここは、寺山修司よりも、年代的にも、ジャンルからいっても、塚本邦雄ということになろう。邦雄は重信よりも三歳年長ということになる。邦雄について、ネット記事(「ウィキペディア」)を次に付記しておきたい。

・・・塚本邦雄(つかもとくにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。作家塚本史は長男。滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業[1]。1941年、呉海軍工廠に徴用されたときに友人の影響で作歌を始める。1943年、「木槿」に入会。1947年、「日本歌人」に入会し前川佐美雄に師事。長らく無所属を貫いていたが、1986年に短歌結社『玲瓏』を創刊、以後主宰をつとめる。戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー。第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。聖書をこよなく愛読したが、無神論者であったという。門下には荻原裕幸、江畑實、林和清、魚村晋太郎、尾崎まゆみ、楠見朋彦など。近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。とりわけ反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性に支えられたその作風によって、『未來』(アララギ系)の岡井隆・『アララギ』の寺山修司等と共に、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与え、その衝撃は穂村弘や荻原裕幸のニューウェーブ短歌にも及んでいる。 よく知られた歌に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)、「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)、「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)など。作品では一貫して旧字旧仮名を用いた。

 このネット記事(「ウィキペディア」)を見ただけで、どうにも、これは、克衛や重信よりも、さらに得体の知れない、いわば「邦雄曼荼羅教」の教祖のようなイメージでなくもない。ここで、上記のネット記事に紹介されている邦雄の「よく知られた歌」とやらを抜き書きしてみたい。

○革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)

○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)

○突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)

○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)

 これらに語釈を付するとすると、「革命歌作詞家」・「液化してゆくピアノ」・「日本脱出」・「皇帝ペンギン」・「兵士の眼」・「冴ゆる」・「あやむる」などであろうか。しかし、これらの措辞などが理解できたとしても、なかなか、これらの作品に託した邦雄の意図らしきものを感知するのは容易ではなかろう。
また、二首目は、「日本脱出したし□皇帝ペンギンも」と、□のところが一字分空白となっている。三首目は、「突風に生卵割れ、」の句読点がある。また、「擊ち」は旧漢字である。四首目も、「戀はば」と旧漢字で、「冱ゆる」・「あやむる」と旧仮名の文語体が目立つ。そして、何よりも、これらの全てが、いわゆる、短歌の「五七五七七」のリズムではなく、ことごとく、破調のリズムの邦雄節ともいえるものであろう。

 ひるがえって、これらの四首を見ていくと、先に、克衛・重信の作品で見てきた、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」(その二で触れた事項)との、この二方向で、邦雄は邦雄のやり方で模索していたということに、気がつくのである。そして、その模索が、克衛や重信と違って、「五七五七七」という伝統的な柵の世界での、ギリギリの挑戦であるところに、何故か、邦雄の歯軋りのようなものも伝わってくるのである。
とまれ、これらの邦雄の作品を鑑賞するのに、克衛・重信の作品と同じように、特に、「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」ということを念頭に置いて、見ていくことが肝要のように思われるのである。
 
 ここで、再び、上記のネット記事(「ウィキペディア」)を見ていくと、「中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー」の、この、殆ど無名に均しかった塚本邦雄を発見して、華々しくデビューさせたところの「中井英夫」という存在も、邦雄の世界を知る上でのキィワードという思いを深くする。
 
 その中井英夫の「沼の底の悲鳴――塚本邦雄・寺山修司の原点――」(「国文学」昭和五一・一)の、その一端について、次に記して置きたい。

・・・歌壇の旧勢力(何といっても敵は、私の畏敬してやまぬ斎藤茂吉、釈迢空の二人を生きながら神社に祭りあげておき、その神主としてもっともらしい神託を下していたのだから、かなうわけがない)にはまだ到底正面から刃向かうことも出来ず、二十六年の十二月号だったか、今年一年のすぐれた歌集を写真入りで二ページ見開きに出すというときにも、なお無名の新人塚本の『水葬物語』を、大それた、そんなところに入れていいものかどうか、おそるおそる社長の木村捨録にお伺いをたてた記憶がある。

・・・塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ、それならばこそ後年、きらびやかな小説や前衛劇に結実したなどとしたり顔にいうことはたやすいだろうが、肝心なのはこの姿勢が初めから共通していること、そしてついに己れの旧作を超えられぬと知ったとき、潔く短歌をやめる決意を持ち続け、一人はすでにそれを実行したこと、これを措いてはあり得ないが、考えて見れば果敢ない話ではないか。

 昭和二十六年当時の邦雄がデビューした当時の歌壇の世界というのは、斎藤茂吉や釈迢空という一大巨峰があり、それらに立ち向かうのに、若干、二十九歳の邦雄(修司に至っては未だ十五歳)をデビューさせたというのは、まさに、破天荒のことであったろう。それよりも、この邦雄らの世界というのは、今なお隠然たる影響を行使し続けている斎藤茂吉や釈迢空の世界とは、別次元のものであり、それらの世界の鑑賞と同じレベルで、上記の邦雄らの短歌の世界を鑑賞しようとしても、それは土台無理ということを、まずもって知るべきであろう。その上で、中井英夫の「塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ」の、この「物語性に富み・色彩感覚に溢れている」という特性を、邦雄の短歌の世界を鑑賞する上では、有効なキィワードになるということを、まずもって承知して置くべきなのであろう。

 ここで、これらのことをまとめて見ると、塚本邦雄の短歌の世界を鑑賞するに当っては、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」に、さらに付け加えて、「物語性」と「華麗な色彩曼荼羅」とにも視点を当てながら、それらの作品に接することこそが、まずもって要請されるものだ、とでもなるであろうか。

 最後に、この塚本邦雄を発見、そして、デビューさせたところの「中井英夫」について、

ネット記事(「ウィキペディア」)を付記して置こう。

・・・中井 英夫(なかい ひでお、1922年9月17日 - 1993年12月10日)は、日本の短歌編集者、小説家、詩人。推理小説、幻想文学作家。本名は同名。別名に塔晶夫、碧川潭(みどりかわ ふかし)、黒鳥館主人、流薔園園丁、月蝕領主。東京市滝野川区田端に生まれ育つ。父は植物学者で国立科学博物館館長、陸軍司政長官・ジャワ・ボゴール植物園園長、小石川植物園園長等を歴任した東京帝国大学名誉教授の中井猛之進。東京高師附属中(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)で嶋中鵬二や椿實らの知遇を得る。一年浪人して旧制府立高等学校(新制東京都立大学の前身、現在の首都大学東京)に進み、戦時中は学徒動員で市谷の陸軍参謀本部に勤務。東京大学文学部言語学科に復学するが、中退して日本短歌社に勤務、その後角川書店に入社、短歌雑誌を編集する。代表作の長編小説『虚無への供物』は、アンチ・ミステリの傑作として高く評価され、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに日本推理小説の三大奇書に数えられる(現在は竹本健治の『匣の中の失楽』も含めて「四大奇書」とも)。その他にも薔薇や黒鳥を基調とした幻想的な作品を数多く発表した。



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