前衛派の旗手たち(その六)より
前回(その三)の塚本邦雄のところでは、邦雄の作品については、殆ど触れることが出来なかったので、ここで、そのとき上げた作品の鑑賞などについてより詳しく触れて見たい。
○革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)
これらの句について、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「坂本邦雄の韻律」として、「切分法・初句七音・結句六音」などの指摘をしている。これらのことについて、次のように記述している。
・・・塚本邦雄の韻律といえば、第一に、句またがりの多用によって五・七・五・七・七のリズムを分断し、あるいは句を強引にくっつけることで、それまでなかった新しい抒情を成立させたことがある。短歌における切分法の導入である。
・・・掲出一首目は、意味通りに読むと「革命歌作詞家に・凭りかかられて・すこしづつ・液化してゆく・ピアノ」となり、十・七・五・七・三のリズムとなる。一方で、従来の短歌のリズムで読むと「革命歌・作詞家に凭り・かかられて・すこしづつ液化して・ゆくピアノ」となる。前者のように読むときも、本来の短歌の律は作品の裏側に張り付いてくる。逆に後者のように読んでも、十分に意味はとれる。これは塚本の句またがりが、文節は容赦なく分断しつつも語はめったに分断しない、という自主規制をかけているからである。
・・・「革命歌作詞家」や「皇帝ペンギン飼育係り」への強い皮肉は、短歌の音数律を基盤とするこのリズムをもってはじめて可能となった。
・・・塚本の律を特徴づける第二の点が初句七音の字余りである。(掲出三首・四首は)七音を入れることで頭が重くなるが、初句に二つの文節を入れるのが容易になり、迫力のある歌となる。『感幻楽』以後の塚本に頻出し、古典歌謡への接近とともに、塚本短歌が伝統的なものと一体化することにつながった。大岡信は、塚本の初句七音に対し、「典雅で斬新な歌謡調」と賛辞を送っている。・・・
続いて、次の二首を例示として、「結句六音」の記述をしている。
○ 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが(『閑雅空間』)
○ 秋風に思ひ屈することあれど天なるや若き麒麟の面(つら)(『天使の書』)
・・・結句六音は、塚本流のヒステリックな詠嘆である。掲出の二首はともに中期塚本の傑作だが、結句の字足らずは、塚本個人の詠嘆と現代短歌という文芸そのものの詠嘆が重なりあうような場所で、思い切って放たれているようだ。初句七音は多くの若手の真似するところとなったのに対し、結句六音は塚本以外にはまず使えないものである。・・・
塚本邦雄の「切分法・初句七音・結句六音」について、成程と思うと同時に、俳句の世界においても、芭蕉以前の初期俳諧の時代から、「切字・字余り・字足らず・句またがり」というのは、「本歌・本句取り」の技法と同じく、それぞれの俳人が、それぞれのやり方で、実践・試行をし続けてきたものであった。すなわち、決して目新しいものではないのだ。
それよりも、同時代の、前衛俳人・高柳重信が実践した「多行式俳句」の方が、邦雄の「切分法」よりも、より革新的であろう。今、上記の掲出のものについて、それを応用して見ると次のとおりになるであろう。
○革命歌作詞家に
凭りかかられて
すこしづつ
液化してゆく
ピアノ
○日本脱出したし
皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
○突風に生卵割れ
かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで
人戀はば人あやむるこころ
○夢の沖に鶴立ちまよふ
ことばとはいのちを思ひ出づる
よすが
○秋風(しうふう)に
思ひ屈する
ことあれど
天(あめ)なるや
若き
麒麟の
面(つら)
こうなってくると、前衛詩人の北園克衛の次のような詩と重なってくる。
(死と蝙蝠傘の詩)
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の壁
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
また、高柳重信の次のような彼が試行し続けた俳句らしきものにも接近することになろう。
森
の 夜
更 け の
拝
火 の 彌 撒
に
身 を 焼
く 彩
蛾
前回(その三)の塚本邦雄のところでは、邦雄の作品については、殆ど触れることが出来なかったので、ここで、そのとき上げた作品の鑑賞などについてより詳しく触れて見たい。
○革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)
これらの句について、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「坂本邦雄の韻律」として、「切分法・初句七音・結句六音」などの指摘をしている。これらのことについて、次のように記述している。
・・・塚本邦雄の韻律といえば、第一に、句またがりの多用によって五・七・五・七・七のリズムを分断し、あるいは句を強引にくっつけることで、それまでなかった新しい抒情を成立させたことがある。短歌における切分法の導入である。
・・・掲出一首目は、意味通りに読むと「革命歌作詞家に・凭りかかられて・すこしづつ・液化してゆく・ピアノ」となり、十・七・五・七・三のリズムとなる。一方で、従来の短歌のリズムで読むと「革命歌・作詞家に凭り・かかられて・すこしづつ液化して・ゆくピアノ」となる。前者のように読むときも、本来の短歌の律は作品の裏側に張り付いてくる。逆に後者のように読んでも、十分に意味はとれる。これは塚本の句またがりが、文節は容赦なく分断しつつも語はめったに分断しない、という自主規制をかけているからである。
・・・「革命歌作詞家」や「皇帝ペンギン飼育係り」への強い皮肉は、短歌の音数律を基盤とするこのリズムをもってはじめて可能となった。
・・・塚本の律を特徴づける第二の点が初句七音の字余りである。(掲出三首・四首は)七音を入れることで頭が重くなるが、初句に二つの文節を入れるのが容易になり、迫力のある歌となる。『感幻楽』以後の塚本に頻出し、古典歌謡への接近とともに、塚本短歌が伝統的なものと一体化することにつながった。大岡信は、塚本の初句七音に対し、「典雅で斬新な歌謡調」と賛辞を送っている。・・・
続いて、次の二首を例示として、「結句六音」の記述をしている。
○ 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが(『閑雅空間』)
○ 秋風に思ひ屈することあれど天なるや若き麒麟の面(つら)(『天使の書』)
・・・結句六音は、塚本流のヒステリックな詠嘆である。掲出の二首はともに中期塚本の傑作だが、結句の字足らずは、塚本個人の詠嘆と現代短歌という文芸そのものの詠嘆が重なりあうような場所で、思い切って放たれているようだ。初句七音は多くの若手の真似するところとなったのに対し、結句六音は塚本以外にはまず使えないものである。・・・
塚本邦雄の「切分法・初句七音・結句六音」について、成程と思うと同時に、俳句の世界においても、芭蕉以前の初期俳諧の時代から、「切字・字余り・字足らず・句またがり」というのは、「本歌・本句取り」の技法と同じく、それぞれの俳人が、それぞれのやり方で、実践・試行をし続けてきたものであった。すなわち、決して目新しいものではないのだ。
それよりも、同時代の、前衛俳人・高柳重信が実践した「多行式俳句」の方が、邦雄の「切分法」よりも、より革新的であろう。今、上記の掲出のものについて、それを応用して見ると次のとおりになるであろう。
○革命歌作詞家に
凭りかかられて
すこしづつ
液化してゆく
ピアノ
○日本脱出したし
皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
○突風に生卵割れ
かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで
人戀はば人あやむるこころ
○夢の沖に鶴立ちまよふ
ことばとはいのちを思ひ出づる
よすが
○秋風(しうふう)に
思ひ屈する
ことあれど
天(あめ)なるや
若き
麒麟の
面(つら)
こうなってくると、前衛詩人の北園克衛の次のような詩と重なってくる。
(死と蝙蝠傘の詩)
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の壁
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
また、高柳重信の次のような彼が試行し続けた俳句らしきものにも接近することになろう。
森
の 夜
更 け の
拝
火 の 彌 撒
に
身 を 焼
く 彩
蛾