余野公園~奥余野公園滝川沿いの【壬申の乱古戦場跡】など

2020-08-02 11:20:37 | つれづれ思うまま
春のツツジの季節に「余野公園」を訪れました。
その折に、この公園の奥にまだ公園があるらしい、と案内があったので後日調べていたら…
「伊賀の語り部」さんの記事を見つけ、
≪672年壬申の乱で積殖(つみえ・現在の伊賀町柘植)で大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子と合流し
加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入り、その後、関が原で戦い、大津に押し寄せました。
そして落ちてきた大津勢が伊賀で天武天皇勢とぶつかり戦った。
その待ち伏せしたであろう川淵が「壬申の乱古戦場」≫がある、そしてその奥に「奥余野公園」があるとのこと。
 
それが、どうもココらへんらしい……と、下書きを綴ったまま2か月余も過ぎてしまった、その古い記憶を呼び起こし書いています。
(いろんな資料を見ていると、おおよそこんなコースだったのか?と思われます…)
Google mapでは余野公園から先の道は心細い限り、こういう道は大概「林道」ですね
   ←車は止められます

川沿いなのでココも綺麗な渓流で、きっと見た目涼しかろうと思います…

200524 【壬申の乱古戦場址】の清流

足元が不安定だったのでちょっとおどおどしてますけど、そこはご愛敬で(笑)
  古戦場跡らしき…

確か、歴史で習った記憶があるのですが、(日本史は苦手という先入観から)あまり詳しく覚えていない。
「壬申の乱」??と伊賀が関係していたのか??という流れも知らなかったのです。
(たまたま、余野公園の奥にこんなところがあると知ってしまったので、深みにはまってしまった感じ…)

【奥余野公園】

駐車場です、「stay home」真っ最中の時期でしたが、この車でした、ワタシもそのうちの一台
    トイレも完備

  源義経も通っていたのか…

 山登りの案内
ここら辺の山はかなり険しそうです、登山帰りの人にお尋ねすると…
「霊山」は初歩やね、ここらの山はそれなりの覚悟で登った方がいい!と言われました

話は戻りますが、
壬申の乱登場人物として、「中大兄皇子(=天智天皇)」がいて、
その弟が「大海人皇子(=天武天皇)」。

そこに、「大友皇子(=弘文天皇)」の名前が出て来て…
いろいろWeb情報を読んでいると、
天智天皇の采女(うねめ=日本の朝廷で、天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行う女官のこと)。
=「伊賀采女宅子(いがのうねめ やかこ)」であった…
そして、その二人の間にできた子が「大友皇子(=引文天皇)」である…(彼は壬申の乱後25歳で自害)


「伊賀の宅子」、どっかで聞いたことがあるなぁ~~と、
振り返ると(大山田の)【鳴塚古墳】の説明にそんな文言が書いてあったような…
壬申の乱の後、伊賀采女宅子は郷里の大山田へ帰り、
わが子・大友皇子の冥福を祈って鳳凰寺を建立したといわれ、
大友皇子は「植木神社」の祭神でもあるとか…
  

そして、この戦に勝利した「中大兄皇子」は天皇主権のための新しい都・飛鳥に【藤原京】の建設準備を進める…
(なんと、春に「菜の花と桜」を見に行ったところ!)
   
(季節外れになっちゃいましたが、来年のために~~)
今頃なんなんですが、歴史は繋がっていたんだぁ~~という一人感動(笑)。

但しこの時代、誰も生きてませんし、見たこともないことなので、
何が正しくて何が間違いなのかは測り知れません、あしからず、、、
ただわかるのは、伊賀の歴史は古いなということと、
山々に囲まれた秘境の地なので、どこへ行くにも峠越えなくしては…ということでしょうか。

長くなってしまいました…
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