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ずっと昔、伊賀と山城の国境はどこ?論争があった…

2023-08-03 14:41:02 | 「伊賀上野語り部の会」で勉強中
おそらく手書きの地図しかなかった頃の話、
さて、どこまできちんと「国境」を決めていたのでしょう?

今でこそ、マップを見れば境界線はよくわかりますが…
そんな論争のあった頃、やっぱり「川がミソ」だったのね、
そんなお話を少し紐解くための現場検証に行きました。

ことの発端は「幕府が『元禄10年(1697)に『藩域図』を出しなさい」と。
「この川とあの川をお互いに『国境』と主張していた、伊賀国(現・島ヶ原)山城国(現・南山城村大河原)。」
「出された『藩域図』の国境が大幅に違うため、えっ?そんなに違うのかと驚いた江戸幕府」。
「まずは『住民同士で話し合え』」、
というのは簡単ですがそんなもん双方譲りませんって!

なぜならココら辺り、両村の住民、田畑、山林が混在状態。
でも対して問題視もせず、仲良く暮らしていたわけです。
そこでお役人が調整しようとしてもムリ無理…
双方譲らないまま、元禄11年(1698)に幕府の評定所で採決と相成りました。

「検地の現地調査の結果、双方の主張する国境※はどちらも認められず、
検使により妥協点となる場所が国境として提示※されたとな。
元禄12年(1699)裁許絵図が作成され、新たなる「国境」が双方納得の上、
それぞれ木製の「杭」を背中合わせで設置したとか。

現在の『二本杭』になります。


※双方の主張する国境とは…
 ・大河原の主張→「かう谷川限
 ・島ヶ原の主張→「あさこ川限

※参考妥協絵図


※参考現在地図


言葉で書いてもなかなか場所の特定はできなかったので、
それを実際に訪れてみるということは、
「一つ引き出しが増えるな」と思ったので見てきました。
なるほど、これはお互い離れている場所を主張していたんだなと、納得の「国境問題」。
お互い少しでも土地は多い方がいい、しかし二重の境があっても困る(幕府が?)ので、
きちんと整理しましょう、ということだったんですね、
そのおかげで「現在の府県境」があるわけです。

前段が長くなりましたが、
まずは長田川(木津川支流)にある「淀川遡航終点の地」石碑から
 
参考大和街道/木津川の通運

昔、長田川から淀川まで『木津川の水運あった?(過去ログより)

※三重県HP/三重の歴史より「長田川絵図」
長田川重要な役割担う
長田川絵図
※「長田川通船の図」


国道163号線(バイパス道)を東へ進み、
島ヶ原の「かう谷川」、現在の小山川」の流れるところ
ここは「岩谷山麓」で「行者堂」のあるところです。
国道から降ります、「行者堂記」があって


「小山川」の橋を渡ると「行者堂」。
 
「行者堂」説明は ↓ 「ぶんと通信/2021/8月号」。


過去に撮った写真から「小谷川」から「木津川」本流へ
 
この川は「山城国大河原村」が主張する『国境』=かう谷川(当時は神谷川とよばれていた)。

では「あさこ川」って、どこ?
163号線バイパス(京都いずみチャーミングロードと呼ばれる道かな?)を東へ、
南山城道の駅通過、約3キロほど走って
 googleより
実際の景色は ↓

ほんとに小さな川ですが、ここを北へ行けば『三国峠』、
伊賀・滋賀・京都の三つの国の境ですね。
小さな川ですが、「ここはおらが村だぞ」って、しっかり主張していたわけですね。

旧大和街道では、約4.5㎞ほど離れているのですが、
おおよそその中間点が正式な国境になったわけで「一件落着」という江戸時代のお話でした。

あとは、島ヶ原地区を主に回って
関所跡
上のリンクは「過去ログ」ですが幾度となく訪問していますが、
きちんと説明を受けたということ、仲間で行くということは、より深く知れたかな…と思っています。


島ヶ原大橋辺りで木津川、ここは
「鍵屋の辻の仇討ち」のお話と関連しているのですが、それはまたいずれ…
夕刻の川の風景とてもきれいだったし、遠くに「三国峠」(過去ログ)。
 

最後に「西念寺の(渋あり)カヤノキ」(三重県天然記念物)を見て、
樹齢500年、幹回り6m、樹高20m、三重県下最大とか…
 

「正月堂」へ
 
※詳細はこちら「伊賀へいらっしゃい

以上訪問日は7/23午後、午前中は「甌穴まつり」でした💦
我ながら、よく頑張った日(笑)。

夕立三日と言いますが、今(8/3)も遠雷が聞こえてきました、
さてどうする?雨くるかな。

ではまた
コメント (2)
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