林檎日記

わたしです

『現代の快人物』『侍』『 ユーモア小説集』 遠藤周作

2008-02-25 09:23:54 | 
『侍』に関して。
一部気になったので、書き出します。

日本人には本質的に、人間を超えた絶対的なもの、自然を超えた存在、我々が超自然と呼んでいるものに対する感覚がないからです。この世のはかなさを彼らに教えることは易しかった。もともと彼らにはその感覚があったからです。だが、恐ろしいことに日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享受する能力もあわせ持っているのです。その能力があまりに深いゆえに彼らはそこにとどまることのほうを楽しみ、その感情から多くの詩を作っております。だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない。飛躍してさらに絶対的なものを求めようとも思わない。彼らは人間と神とを区分けする明確な境界が嫌いなのです。彼らにとって、もし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかはなれるようなものです。我々にとって人間とはまったく別のあの自然さえも、人間を包み込む全体なのです。 彼らの感性はいつも自然的な次元にとどまっていて、決してそれ以上、飛躍しないのです。自然的な次元のなかでその感性は驚くほど微妙で精緻です。が、それを超える別の次元ではとらえることのできぬ感性です。だから日本人は、人間とは次元を異にした我々の神を考えるこ
とはできません

はー、大変だった。ケータイでうつもんじゃないね。
江戸時代に「なぜ、日本でのキリスト教布教に失敗したのか」を宣教師が述べている場面です。あー、もうちょっとあったなー。

日本人は一人ではない。一人でいるようにみえて、彼の背後には家族や親や祖先が一緒にいる。だから、彼は、自分だけが勝手に改宗することはできない。

とかなんとか、そんなことが書いてあったと思います。

はぁ~、そうか、と思ってね。いや、小説の話なので、実際そうなのかどうかはわかりませんが。これだけキリスト教が普及してるなかで、確かに日本ではあまり普及してないし。……でも、キリスト教じゃない国も他にもいっぱいあるよね。無宗教だしね。でも江戸時代は無宗教じゃなかったかも。この小説のなかでも、キリスト教に帰依する日本人もいるし、今の日本にもクリスチャンはいるし、なんともわからないですけど。

読んでると「キリスト教っていいなぁ」と思ったりします。でも、信じられないけどね。でも、いいなぁと思いますよ。宣教師のベラスコがなかなかイヤな奴なんだけど、私ととっても重なる部分があって、そんなベラスコでも、最後は穏やかに、精神の安定を得られたあたりが、いいなぁと思いますよ。
救われたいですよね。天国に行きたいとかではなくて、この世で救われたいです。
キリスト教はあの世で救う宗教じゃなくて、この世で救ってくれる宗教なような気がしますけどね。自分を犠牲にして人の為に生きられることが、精神の安定につながるんじゃないかと思うんですよ。「信じること」が「自分を犠牲にしても」という力を生むんだと思うんだけど、信じることが出来ないから仕方ないですよね。
幸せになれるのならば、手段を選ばなくてもいんじゃないかとも思うんですよ。自分を騙すのは結構簡単だから、キリスト教を信じると決めちゃえば、後は外から内から洗脳して、本当に信じることができるんじゃないだろうかと思うんだけど。

でも、やっぱそれはやなのねー。キリスト教には納得できない点がいっぱいあるし、自分をだますのもやーだー。

だから私はいつまでたっても救われないのであった。
宗教でしか救われないのでか?

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