養成講座一期・二期・三期と三年間「しあわせな人生の実現をサポートする人材養成講座」で学んだ乕澤美香さんが、インターネットでのラジオ「☆みかっちRadio☆」に出てもらえないか? とのことで、「美人薄命の秘密」と題して前編・後編と二回にわたってスカイプを通して話させてもらいました。
⇒ 前編(別ウィンドウで開きます)
⇒ 後編(別ウィンドウで開きます)
曽野綾子氏がある新聞に“「見たいものを見る」人間の性”と題して、こんなことを書いています。
東大地震研究所の佐藤比呂志教示らによる立川断層の調査は、古い構造物の一部を断層と事実誤認しました。原因は「思い込みと調査不足」といいますが、「住民に周知する一般公開のスケジュールに間に合わせたい事情もあった」といいます。責任者の佐藤教授は、「非常に強い思い込み」から詳しい調査をしないまま一般公開したという事情を打ち明けています。「こういうものが見たいという強い欲求が誤りの原因。見たいものを見ていたということだ」といっています。
曽野氏は、
「科学者としては、こういう姿勢はいけないということはわかっているのだが、私は、その発言の中で、実におもしろい発見をしたのだ。それは見たいと強く願っていることは見える、ということだ。」
といいます。科学のロジックでなく、人生のある思いをみる、ということなのでしょう。そして、こんな話を書いています。
ある時、老いた母が死の床にいた。息子はもう長い年月、会いにも来なければ、電話一本もかけてこない。こういう不思議な子どもが、最近の世間にはうんと増えている。
老母は死ぬまでに、一度でもいいから息子が会いに来てくれることを願っている。今までのことをなじる気持ちなどさらさらない。もし会えば「元気だったの?」と尋ね、「仕事はうまくいっている?」と気にかけ、孫のことを「今度何年生になったんだっけ。お勉強は何が好きなの?」と聞こうと思っている。小遣いを入れた封筒も渡してやりたい。しかし息子は、そうした老女の最期の願いを叶えてやる気配はなかった。
そんな話は、世間の至る所にある。私たちは誰でも、思いを残して死ぬのである。こちらが愛し続けていたなら相手のことはどうでもいい。こちらが憎むようになったらそのほうが悲惨だ。
しかし最期の数日に、思いもかけない救いが現れる。病人の幻覚の中で、冷酷な息子が会いに来たのだ。孫をつれて……。その人の娘が、私に打ち明けてくれた話だ。これこそ幻の「断層現象」なのである。
「兄が母の見舞いになど来るはずはないんです。私たちは兄の正確な住所さえ知らないんですから。でも母は兄が会いに来てくれた、と言い張って亡くなりました」
親に冷たかった兄は、娘にとっていまいましい存在なのだ。それなのに母が精神的な錯乱状態の中で、兄をいい息子だと思って死んで行ったことが許せないのだろう。
しかしそれでいいのだ、とこのごろ私は思うようになった。その錯覚こそ、私流に言うと神様仏さまの贈り物なのだ。
娘にとって兄は現実です。現実というよりも現象でしょうか。いまいましい思いの現われです。浮遊の思いです。
母にとって兄(息子)は、当然、浮遊の思いといっていいでしょう。いい息子なのです。それは錯覚なのですが、その錯覚こそ「神さま仏さまの贈り物」と曽野氏はいいます。それは道元のいう「仏向上」という存在の本体からつながるものだからなのでしょう。それは心を澄ませて「仏向上心」を得ることなのでしょう。
娘にとって母は、兄がいまいましい分だけ可哀そうということになります。これも浮遊の思いにほかなりません。
曽野氏が母の「錯覚」=「浮遊の思い」を「神さま仏さまの贈り物」というのは、心を澄ませて息子のほんものと出会い、息子のまっさらさらのいのちを知ったのでしょう。将に冷暖自知しています。その意味では、錯覚とは言えません。錯覚と言えるとしたら、母のデトックスといえるでしょう。となると、娘も兄も大半がデトックスなのでしょう。それにしても、まっさらさらのいのちとのつながりがないわけではありません。否、ないはずがありません。
咲けば散り 散ればまた咲き 年ごとに
眺め尽きせぬ 花の色色
これは二宮尊徳の和歌です。
あの『鏡の法則』の野口嘉則氏が、この歌についてこのように書かれていました。
松原泰道さんがご著書『般若心経入門』の中で、この尊徳の歌を紹介し、「咲けば散り」は「色即是空」に対応し、「散ればまた咲き」が「空即是色」に対応する、と述べておられます。
「色即是空」というのは、「物質的現象には実体がない(=空である)」という意味で、これを知ることによって僕たちは、「目に見えるものは、変化し滅びるものである」ということを悟ります。
「空即是色」というのは、「実体のない空(くう)から物質的現象が生まれる」という意味で、これを知ることによって僕たちは、「すべてのものは滅びていくが、ただ滅びるのではなく、滅びにより新しい価値が創造される」ということに気づきます。
咲いた花は散りますが、それは自然の大いなる循環の中で、新しい価値の創造につながっていきます。
尊徳の歌の「年ごとに 眺め尽きせぬ 花の色色」というのは、まさにこの「空」の視点から花を愛でているわけです。
もう一つご紹介したい言葉があります。
「花びらは散っても、花は散らない」
これは、仏教思想家の金子大栄が残した言葉なのですが、何を意味しているのでしょう?
竹内整一さんがご著書『花びらは散る 花は散らない』で、この言葉の意味を探っておられます。
この本の中で竹内さんは、子ども(娘)を亡くしたときの西田幾多郎の言葉を紹介しています。以下、要約してご紹介します。
「人は『死んだ者は帰ってこないのだから、諦めよ、忘れよ』と言うが、これは親にとって耐えがたい苦痛である。何とかして忘れたくない、せめて我が一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。折に触れて思い出すのが、死者に対しての心づくしである。これは誠に苦痛なことであるが、親はこの苦痛を去ることを欲せぬのである。人間のスピリットは、他の物をもって償うことはできぬ。我が子を失って、人間の絶対的価値が痛切に感ぜられた」
「私は、我が子の儚(はかな)い死によって多大の教訓を得た。名利を思って煩悶していた心の上に、冷水を浴びせかけられたような心持ちがした。そしてすべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」
「今まで愛らしく話したり、歌ったりしていた者が、たちまち消えてしまうというのは、いかなる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらないものはない。しかし、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない」
「いかなる人も、自分の子の死に対しては、種々の迷いを起こさぬ者はなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬことながら、後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と思うよりほかはない。我々の過失の背後には、不可思議な力が支配しているようである。己(おのれ)の無力なるを知り、己を捨てて絶大な力に帰依するとき、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷をおろしたごとく、自ら救い、また死者に詫びることができる」(『花びらは散る 花は散らない』竹内整一著より)
すべての人は必ず死ぬ運命ですが、しかし、人間の霊的生命の意義は、死によっても失われないというのです。人は、その死によっても、生きる人にメッセージを残し、記憶を残していく。そして、それが連綿と受け継がれてきたのが人類の歴史であり、その背後には、大いなる運命の力(不可思議な力)があるのですね。
西田幾多郎の言葉を読んで、「ライオンキング」の中の曲「He lives in you.」を思い出しました。偉大な王であった父ムファサを亡くしたシンバに「彼(=ムファサ)は君の中で生きている」と語りかけるのがこの曲です。
亡くなった人たちは、僕たちの中で確かに生き続けている。そのことを歌った曲です。
人は死して後も生きている人の中で生き続けるのですね。
最後にもう一度、先ほどの金子大栄の言葉をその次の一節も加えてご紹介します。
「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」
(野口嘉則氏Facebook頁より引用)
ひとつだけ考えてみてください。
あなたは浮遊の思いに、まっさらさらのいのちの息吹きを感じますか? デトックスの側面を感じますか?
●澤谷 鑛 のカウンセリングは、コチラ…
●澤谷 鑛 のセミナー/講演会情報は、コチラ…