しいたけの伊豆高原情報と放浪旅

(伊豆をバイクで回って10年、伊豆高原に住んで26年目に突入、いろんな事がおこりますねえ!)

原付ツーリングは楽しいです!

2015年11月17日 | バイク&キャンカー&鉄道&船旅
・                       【ツーリング出かけると一人で走る時より早いのです】

横浜から一般道で横須賀まで1時間以内で着くなんて信じられません、集団で走ると一気に走ってしまいます、先頭のバイク屋さんは
道を知り尽くしていますし、すり抜けで車をかわしてどんどん行きます、(バイクですからすり抜けは当然なのですが・・・)
赤信号では必ず先頭に立ち、後続が入れるように後ろの車を制して前を開けてくれます



横須賀には日米の軍港があって米国の航空母艦のレーガンも来れば、日本の潜水艦も停泊します

(空母は簡単に見える所には来ません、潜水艦は公園から見えます)


・                        【戦艦「三笠」がコンクリートで固められています】

戦艦三笠をネットで調べましょう

「大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名された。船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港。
 同型艦に敷島、初瀬、朝日。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが
 座乗した。現在は防衛省が所管し神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。」

こんな小さな船で戦ったのですね、僕は勿論戦争反対で大将の活躍より犠牲になった名もなき兵士の事を思います

(悲惨な死でも他人には全く痛みは判らないと思います、人を殺したら英雄になれるのは戦争だけです)



埼玉県の春日部から小学生が修学旅行にやってきました、当然展示物から戦争の悲惨さは感じられません

(戦争の遺物を何も判らない小学生に見せて良いのでしょうか、男の子は当然艦橋に登ってはしゃいでいました)


・                        【館内見学は有料でした】

僕は入りません、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で活躍した秋山兄弟やNHKTVでの放映がありましたが、こんな小さな
船が舞台だったのですね、明治の富国強兵政策のピークでした、日本は強烈で屈辱的な敗戦を体験しているのに、
最近何やらきな臭い情勢になってきました、平和は武力を背景にしていないと維持できないのでしょうか?

(積極平和外交も良いけれど戦火を交える事が無いようにいのります、徴兵されない年金生活の身であっても孫子の代を心配します)



日本の企業が世界に出て行くためには武力を背景にしなければ行けないのでしょうか?


・                        【世界は法事国家だけではないのですね】

ならず者国家やイスラム国、一党独裁の中国もあります、ロシアだって日本の北方領土は返してくれませし、領土紛争は
戦争でしか解決方法がないとしたら恐ろしい事になります

(現在では少なくなりましたが、北海道にはロシアが攻めて来る恐怖を持っている人がいます)



今はミサイル戦争の時代ですから砲塔が横に向く必要はありません


・                        【小さくても僕のカメラでは全容は捉えられません】

戦艦三笠のたどった足跡をネットで調べましょう

「1903年(明治36年)12月28日、三笠は連合艦隊旗艦となった。
 1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、2月9日からの旅順口攻撃や旅順口閉塞作戦に参加し、
     8月10日には黄海海戦に参加した。12月28日、呉に入港、修理の後、
 1905年(明治38年)2月14日呉を出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾に進出した。
     以後同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。
     この海戦で三笠は113名の死傷者を出した。
 日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した。
     この事故では339名の死者を出した。弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた
     「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、
     誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もある。
     事故当時、東郷は上陸していて無事であった。また艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、
     これまた事故当時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。
     なおこの爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。
 1906年版ジェーン海軍年鑑における要目
     10月23日の海軍凱旋式は戦艦敷島が三笠に代わって旗艦となった。三笠は予備艦とされ、
 1906年(明治39年)8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され
 1908年(明治41年)4月24日第1艦隊旗艦として現役に戻った。
 1914年(大正3年)8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、戦争初期に三笠は日本海などで警備活動に従事した。
 その後、1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制する
 シベリア出兵支援に参加した(参加前に防寒工事が実施され、飛行機の臨時搭載も行った)。
 1920年の尼港事件の際には砕氷艦見島とニコラエフスクに救援に向かったが堅氷に阻まれ入港できなかった。
     このため約700名の日本人と数千名のロシア人は救助されることなく赤軍パルチザンに惨殺された。
 1921年(大正10年)9月1日一等海防艦となるが、9月16日ウラジオストク港外のアスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁し
     大きく損傷し浸水。離礁後ウラジオストクに入渠し応急修理を行い、11月3日舞鶴に帰投した。」

傷だらけの歴史ですね、死神に近い歴史ですが、こうしてコンクリートで固めら永久保存されています、




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 富士山は初冠雪でした! | トップ | 原付ツーリングは楽しいー2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

バイク&キャンカー&鉄道&船旅」カテゴリの最新記事