「はじまりの記憶」とは柳田邦男さんと伊勢英子さんのduoエッセー。(講談社)
12ものタイトルがあり、それぞれ年齢も育ちも違うおふたりがご自分の
原風景探しをしたものです。
わたしは読みながら、自分の記憶をたどっていました。
まさに今折り返し人生に立ち、思うところいっぱいです。
「身体感覚」というタイトルの柳田さんのある文章が今のわたしにぴったり!
『最近、ふと気づいたことがある。それは、8歳から12歳の頃の日常を忘却の彼方からたぐり寄せて回想日記を書いたなら、その日記に記される日々の営みは、それからとうに五十年を過ぎた現在の私の営みと、瓜二つとも言えるほどの相似形を成しているに違いないということだ。』
『過去は現在の中にある。そして、すべての過去に意味がある。』
このエッセーを読みつつ邦男ちゃんと英子ちゃんの小さな姿が脳裏をかすめ、ほほえましく
またせつない気持ちにもなりました。
そして、数々の子どもの頃の強烈な印象や出来事は、特別な意味を持って現在問いかけてきたり、
姿形を変えて違った印象になったりながら続いていくものだと思います。
だから過去をたぐり寄せてみることはたんなる感情的な懐古趣味ではありません。
過去を振り返ることは、ほんとうに新しい発見があります。
うろこが落ちることもしばしば・・・
子どものころは的確な言葉の表現方法を知らなかっただけで、
魂の部分ではたくさんの真理に敏感に感じていたんだろうと思います。
子どもを育てていてもそれは感じることだし、自分自身のことを考えてもつくづく思います。
でも的確な言葉の表現はなかなか難しいです。
言葉も含め、様々な表現方法を試すために生きていると考えてしまうくらいです。
昔子どもの頃、ビー玉を土に埋めるのが楽しかった、それも遊びでした。
今、その時埋めたビー玉を掘り返してみる時なのかもしれません。
その時よりふけた私と小さな女の子が対面する。そしてそのビー玉の違う輝きをみつけられるかもしれないし、
忘れていたビー玉がひょっこりでてくるかもしれません。
これはおもしろいことになりそう!!!
12ものタイトルがあり、それぞれ年齢も育ちも違うおふたりがご自分の
原風景探しをしたものです。
わたしは読みながら、自分の記憶をたどっていました。
まさに今折り返し人生に立ち、思うところいっぱいです。
「身体感覚」というタイトルの柳田さんのある文章が今のわたしにぴったり!
『最近、ふと気づいたことがある。それは、8歳から12歳の頃の日常を忘却の彼方からたぐり寄せて回想日記を書いたなら、その日記に記される日々の営みは、それからとうに五十年を過ぎた現在の私の営みと、瓜二つとも言えるほどの相似形を成しているに違いないということだ。』
『過去は現在の中にある。そして、すべての過去に意味がある。』
このエッセーを読みつつ邦男ちゃんと英子ちゃんの小さな姿が脳裏をかすめ、ほほえましく
またせつない気持ちにもなりました。
そして、数々の子どもの頃の強烈な印象や出来事は、特別な意味を持って現在問いかけてきたり、
姿形を変えて違った印象になったりながら続いていくものだと思います。
だから過去をたぐり寄せてみることはたんなる感情的な懐古趣味ではありません。
過去を振り返ることは、ほんとうに新しい発見があります。
うろこが落ちることもしばしば・・・
子どものころは的確な言葉の表現方法を知らなかっただけで、
魂の部分ではたくさんの真理に敏感に感じていたんだろうと思います。
子どもを育てていてもそれは感じることだし、自分自身のことを考えてもつくづく思います。
でも的確な言葉の表現はなかなか難しいです。
言葉も含め、様々な表現方法を試すために生きていると考えてしまうくらいです。
昔子どもの頃、ビー玉を土に埋めるのが楽しかった、それも遊びでした。
今、その時埋めたビー玉を掘り返してみる時なのかもしれません。
その時よりふけた私と小さな女の子が対面する。そしてそのビー玉の違う輝きをみつけられるかもしれないし、
忘れていたビー玉がひょっこりでてくるかもしれません。
これはおもしろいことになりそう!!!