生活

とりとめもなく

天は我々を見放した…!

2019年06月17日 23時39分14秒 | 映画
今日はお休みなので市川コルトンプラザに映画観に行った。いま午前十時の映画祭で

八甲田山」やってる。1977年の大ヒット映画らしい。なんかこういう映画が大ヒットする時代があったのだなあ…
ずっと観てみたかったんだよねー
どういうお話かというと、説明がめんどくさいのでいつもお世話になっておりますmoviewalkerから引用させていただきます↓

新田次郎の原作『八甲田山死の彷徨』をもとに、大部隊で自然を克服しようとする部隊と小数精鋭部隊で自然にさからわず、折り合いをつけようとする部隊の様子を冬の八甲田山を舞台に描く。脚本は「続人間革命」の橋本忍、監督は「日本沈没」の森谷司郎、撮影は「阿寒に果つ」の木村大作がそれぞれ担当。
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田と弘前第三十一連隊の徳島は全身を硬直させた。日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。二人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた。神田隊は次第にその人数が減りだし、辛うじて命を保った者は五十名でしかなかった。しかし、この残った者に対しても雪はとどめなく襲った。神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢いたいと思った。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことで神田隊の救助隊に救われた。第五連隊の生存者は山田少佐以下十二名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死。

ていうお話でした。
練習で200人も死ぬ!
冬の暴風雪の八甲田を歩いて歩いてどんどん人が死んでく話。
要約すると「気象や土地に対する知識もなく無謀な訓練を計画した軍の偉いさんたちの見栄とつまらんプライドが招いた悲劇」って感じだったけど実際のところはどうだったんだろか。
映画では三國連太郎さん演ずる山田少佐が諸悪の根元のように描かれておるが…
カメラマンが木村大作さんなんだけど、彼がのちに映画監督としてデビューした作品「劔岳」を観た時も思ったけど、昔はヒートテックやゴアテックスや撥水スプレー、携帯電話はおろか無線やGPS、ライターすらないわけで、そんな中でよくもまあこんなことしたなあと思いますが、日常として戦争をしてた時代はそんなこと言ってられないのだなあ。
戦争の練習で死んじゃったら何の意味もないと思ったけど、この雪中行軍練習で生き残った者たちもその後の日露戦争でみんな死んじゃったというのだからなんとも報われないな。
169分もある映画だけど飽きずに観られるのだから凄い。映像も4Kデジタルリマスターで本当にきれい。

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