今朝はドンヨリの空でしたが ツイに雨になり、少し肌寒いですねぇ!
今日の予定は明日に持ち越して、ゴロゴロと過ごしましょうかね
寝転んで空を見ていると、昨日の映画で久しぶりに観た”大崎上島”を思い出しました。
小さい時から、安芸津の海の向こうに”旦那さん”が居るような気がしていました。
不思議ですが ソレが現実になった1972年3月に結婚式をして以来、年に数回
帰省することになりました。
墓参りに4回、盆・暮れには絶対 「いつ、死ぬるかワカランから」と~
義母の言葉は決まっていました。
帰っても何も無い処で、洗濯機は無く 井戸水で産後間もない息子のオシメを洗い
風呂は本家の五右衛門風呂で、板を足で沈めて入るのです。
井戸水はハンパ無いホド冷たく 未だに冷たい水は手がシビレ苦手です。
あの頃は、義母の兄1弟2姉2妹1が島中のアチコチに住んでいたので、お邪魔しては
色々な話を聞いたりして時間をツブシたものです。
パチンコ屋1軒、信号は1ヶ所ダケ有り、スーパーはユアーズがありました。
一度ドウシテモ帰りたくなくて、『切串キャンプ場』で遊んだことがあります。
共働きで ローンを抱えながら、常日頃から、子供たちには寂しい想いをさせて
いるので、思いっきり遊んでやりたかったのです。
そこは、原田の伯母と平田の叔母が住む地域で、タマタマ遊びに来ていた義母が農協
から出て来るところでした
見つかることは無かったケレド、ソウまでして遊んだ夏は? 忘れられませんね
生みの親の義母は下から3番目、育ての親は長女でした。
喧嘩しながらも、いつも一緒に生活していました。
育ての親は本家の2階に住んでいましたが、台所・風呂・トイレは階下に降りなければ
有りません。
盆・正月に帰省するところはココでした 何をスルにも不便で、気が滅入り本当に
イヤで仕方が有りませんでしたが、素直に従いました。
その後、義母が亡くなる2年くらい前に海辺りの2階を借りて住むことになりました。
ソコからの日の出は それは美しくて~ 忘れられません
ある正月、帰省してみると 義母の顔がパンダのように真っ黒になっているでは
有りませんか
スグに病院へ という訳にはイキマセンでした。
具合が悪くなってコチラに来たのは3月で、入院する前に「これが最期だろうから」と言い
ラーメンを食べに行きました。
一日中掛かって検査され、「肺がんですね」ということでした。
アレだけタバコを吸い「やめるくらいなら死んだ方が・・・」と言っていたのが現実になり
育ての親も一切「たばこ」とは言わなくなりました。
ワズカ3ヶ月後の雨の晩に「灰は海に撒いて、仏壇は捨ててくれ」と言って、逝きました。
最期まで、本当に自己中心的な人でしたねェ
育ての母は、我が家の近くのホームで亡くなりましたが、生前はよく「帰りたい!」と
言っていました
家が恋しかったのか? 島が懐かしかったのか? 幼い頃から育った想い出が詰まった
島が、本当に好きだったのでしょうねぇ
でも、主人はこの島に好い想い出は無いように思えました。
小さかった時の話は一切しないし、同窓会にも行きたがらないケド・・・、ズ~っと以前
「親のない子」と海に突き落とされ、目の上瞼をパックリと切りながらも、その子供の
親に怒鳴り込まれた苦い想い出を一度だけ話したことがあります。
同窓会は何度も誘いがあったのに一度参加したダケです ツイに今ではソレも
無く 皆さん元気でしょうかねぇ
この島を出て50年が経ちました。
中学を卒業後、専門学校で溶接の資格を取り 16才で集団就職で東京へ~
3月15日には65才になります 親譲りの自己中ですが、それなりに一生懸命
女房・子供を養ってきました
一度、里帰りも良いのではないかと考えています +
空が曇って、景色が見えませんでした。
↓ 実感しております。
川柳
これ大事
あれも大事と
ゴミの部屋
川端和子 東京都・67才
父が竹原で母が大崎下島です
小さい頃、盆暮は父の実家に行っていました
今のように家族で旅行なんてする時代じゃあなかったですね
五右衛門風呂も板張りのポットン便所も
今でも夢に出るくらい思い出深いものです
あの頃はイヤだったけど
そういう思い出が愛おしく思えるようになったのは
年のせいかしら??
いい思い出も悪い思い出も全部ひっくるめて
自分のかけがえのない人生ですよね
一度、里帰りもいいんじゃないですか
帰りの車ではいつも喧嘩でしたょ。
今は誰も居なくなった島ですが、景色を観に「行きたい」処ですネ。
そして、安芸津へ寄って、父の墓参りをして来ようと思います。