史書から読み解く日本史

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魏志:倭の風景(二)

2019-08-10 | 魏志倭人伝
その俗、拳事行来に云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占う。先ず卜する所を告げ、その辞は令亀の法の如く、火坼を視て兆を占う。その会同坐起に父子男女の別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。その人は寿考にして、或いは百年、或いは八九十年。その俗、国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸及び宗族を没す。尊卑各差序有り、相臣服するに足る。
 
挙事行来に何かあれば、骨を焼いて吉凶を占う。(そのやり方は)先ず卜うべきことを告げ、令亀の法のように火の裂け目を視て兆(吉凶)を占う。会合や立居振舞に父子男女の差がない。酒が好きである。自分の敬うべき大人が見えると手を打って跪拝に代える。人々は長寿で、百年もしくは八、九十年生きる。大人は皆史四、五人の妻を持ち、下戸も二、三人を持っている。婦人は淫行をせず、人々は嫉妬をせず、窃盗をせず、訴訟は少ない。法を犯したときは、罪の軽い者は妻子を没し、重い者はその門戸及び宗族(の身分)を没する。尊卑によって格差や序列があり、それは互いに服するに足るものである。
ここではまず倭人の占術について記しています。
 

倭人と卜占
令亀の法は周代の卜占の一つで、その詳細については不明な点も多いのですが、亀の甲を焼いて生じた割れ目を兆と言い、その形を視て吉兆を占ったと言われます。
そして世は令和となり、今上陛下の即位に伴い、大嘗祭の「斎田点定の儀」により宮中で亀卜が執り行われたことは記憶に新しいところです。
同じように獣の骨を焼いて占う法を骨卜と言い、かつては大陸でも広く行われていました。
倭人伝にある骨卜は、(特に断りもないので)恐らく民間の風習と思われ、従って現代まで受け継がれてきた皇室の亀卜の源流が、果して邪馬台の頃から行われていた倭人の卜占に連なる法なのか、それとも古墳時代以降に大陸から伝わった法なのかについては不明です。
 
 
平成の大嘗祭で使用された甲羅(宮内庁公開)
 
 
現代まで続く倭人(日本人)の社会
「会同坐起に父子男女の別なし」とあるのは、倭人の日常には長幼や性別による別個の礼がないことを言ったものです。
この時点で漢人には既に千年以上の文明の蓄積があるので、社会の至る所で儒教に基づく礼儀が確立されており、生活の中での長幼の序や男女の別は当然のことでした。
そしてこの倭人即ち日本人の風習は、その後も殆ど変らなかったようで、江戸時代後半に日本を訪れ、長崎の出島から江戸まで赴いたとある西洋人の学者は、清や朝鮮では女性は奴隷同然の扱いであるのに、日本ではどこへ行っても男女が同席し、女性が当然のように大路や街道を往来していることに驚いています。
因みに「酒好き」という性癖についても後年外国人から度々指摘されることになるのですが。
続く「ただ手を搏ち以て跪拝に当つ」の「手を搏つ」についてはよく分かりません。
跪拝に代えるというくらいですから、或いは柏手のようなものだったのでしょうか。
 
続いてこれも倭人伝を語る際に必ず出てくる倭人の長寿があります。
尤もやはり『魏志』では省かれていますが、『魏略』ではここに「その俗、正歳四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀(年齢)と為す」との記述があり、倭人の年歳の概念について説明を付け加えています。
ただそれが単純に一年を春秋で区切ったものだったのか、或いは倭人独自の暦法があったのかは一切不明です。
またこれは倭人伝の時代に留まらず、『古事記』や『日本書紀』に記された天皇の年齢が示す通り、その後も日本人は古墳時代の後半頃まで同じような歳の数え方をしていたようで、実際に天皇の年齢が正歳になるのは欽明帝以降のことですから、その背景には仏教を始めとする大陸の先進文化の伝来があったものと思われます。
 
「婦人は淫行をせず、人々は嫉妬をせず、窃盗をせず、訴訟は少ない」という箇所は、一見するといつの時代も変らぬ日本人の美徳のようにも思えます。
無論それは一面ではその通りなのですが、何事にも必ず反面というものはありますし、日本人ならば誰もがそれを知っています。
人々が嫉妬をしないのは、身分が固定されているため上下間の嫉妬がないのと、同じ身分の者達は皆それぞれの村社会に属しており、村内では嫉妬による揉め事を未然に防ぐための工夫が為されているからです。
人々が窃盗をしないのも同じ理由であり、人様の物に手を付ければ村内では生きていけませんし、訴訟が少ないのはそうなる前に収拾する機能が働いているからです。
確かにそれは平和且つ安全である反面、制約も多く自由は少ない社会です。
そして現代のような万民統一の法ではなく、それぞれの身分や序列に適した法が定められているので、誰もがそれに服している訳です。
 
 
祖賦を収む邸閣有り、国々市有り、有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。女王国より北には特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏撣す。常に伊都国に治す。国中に於いて刺史の如き有り。王の使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。下戸の大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫と曰う、比するに然諾の如し。
 
租税を収める邸閣(倉庫)があり、国々には市があり、互いに交易し、大倭にこれを監察させている。女王国の北には特に一大率を置き、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治めている。中国における刺史のようである。女王が京都や帯方郡や諸韓国に使者を遣わしたり、郡が倭に使者を遣わしたりすると、(国々は)皆津に臨んで互いに捜索・披露し、文書や賜遺の物を伝送して女王へ届け、(その品々が)入り乱れることがない。下戸が大人に道で会えば、尻込みして脇に除け、(大人が下に)辞を伝えたり事を説くときには、(下戸は)蹲るか跪いて、両手は地に付き、恭順・畏敬の意を表す。対応の声を「あい」と言い、承諾の意である。
 

戦国時代との類似点
国々には市があり、諸国が互いに交易しているということは、恐らく当時の邪馬台傘下の国々というのは、室町時代の国人領主のように、それ自体は小さいながらも自己完結した葡萄の粒で、邪馬台によって一つの房に束ねられていたのでしょう。
それが邪馬台以後の戦乱と、それを受け継いだ大和朝廷による統治の中で、古墳時代までには国造として再編されて行った訳です。
興味深いのは女王国の北に置かれたという一大率の存在で、刺史に似ているという役職からすると、或いは後年の大宰府や九州探題のようなものでしょうか。
魏使の常駐する伊都に鎮守していたということは、諸国を検察するばかりではなく、国防の要としての役割も担っていたものと思われます。
従って当時の女王圏は、この西方面(倭人伝では北)の一大率と、東の王都邪馬台によって、その間に散在する傘下の諸国を統率する構図だったことが読み取れます。
ただ当時は国主が女王だったこともあり、この一大率には余程信頼できる功臣もしくは王族を選任しなければ、その大権は邪馬台にとって常に危険なものとなったでしょう。
 
それに続く文章を読むと、例えば魏から女王へ賜物があった場合など、伊都から奴へ、次いで奴から不弥へといった具合に、諸国が伝送して邪馬台へ届けていたことが分かります。
「皆津(港)に臨みて捜露し」とありますから、船上で引き渡したのでしょう。
そしてこれが倭人伝に記録されたのは、魏の使者が一度女王国へ赴いた際に、直接その光景を見ていたからだと思われます。
原文では「伝送文書賜遺之物詣女王」となっており、「文書を伝送して賜遺之物を女王へ詣らしめ」とも読めるので、ここで言う文書というのを伝言や目録のようなものだと解すれば、むしろその方が理解しやすいかも知れません。
続く身分に上下の差がある者同士の対応などは、そのままこれを宣教師が見た戦国時代の日本の風景と言われても何ら違和感を覚えないもので、これもまた千年以上の時を超えてなお変らぬ日本人の姿と言えます。

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