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魏志:遼東征伐と倭人

2019-08-24 | 魏志倭人伝
北条征伐と遼東征伐の類似点
正親町帝の天正十三年(西暦一五八五年)、平民出身者として初の関白となった秀吉は、翌々年の天正十五年に島津氏を討伐して九州を平定すると、天下統一の仕上げとして東国の運営に着手します。
同天正十五年十二月、まず秀吉は関東奥羽の諸大名に惣無事令を発して停戦を命じ、当主自らの上洛を促しました。
そして毛利家や徳川家がそうであったように、たとい一度は敵対して干戈を交えた相手でも、上洛して臣従すれば赦すというのが秀吉の基本方針でしたから、もしこの時点で北条氏政と伊達政宗が上洛して秀吉に服していれば、伊豆以東の諸大名の所領は(一時的とは言え)ほぼそのまま安堵された可能性が高かったでしょう。
しかし東国の諸将の中には時勢を読み誤る者も多く、九州同様にいずれ兵馬で解決しなければならないのは始めから分かっていたことであり、むしろ惣無事令はその布石であったとも言えます。
 
二年後の天正十七年末、かつて北条氏と真田氏が上野国沼田郡を巡って争った際、秀吉の仲裁によって一度は両者が和解に同意したにも拘らず、和解の条件であった上洛を北条氏が拒否したことや、北条方が秀吉の仲裁案を破って真田領を侵犯したこと等から、秀吉は全国の大名に北条氏討伐を通達し、関東奥羽の諸大名には現地への参陣を命じました。
ただ実質的に九州の大半を支配下に置いていた島津氏や、念願の関東平定を目前にしていた北条氏にしてみれば、秀吉の停戦令と和平案など到底受け入れられるものではなかったのも事実であり、必ずしも島津氏や北条氏ばかりが悪い訳ではないのは言うまでもありません。
 
翌天正十八年(一五九〇年)春、秀吉は毛利輝元に留守番を命じ、兵力を三隊に分けて北条征伐を開始しました。
まず秀吉直参や徳川家康等から成る本隊は東海道を進み、徳川領である駿河で陣容を整えた後、北条氏の居城である小田原を攻略します。
続いて前田利家や上杉景勝等から成る別働隊は東山道を進み、信州の真田氏や関東の佐竹・宇都宮氏等もこれに加わり、上野から武蔵を経て小田原で本隊と合流します。
続いて長宗我部元親や宇喜多秀家等から成る水軍は海路からの補給を担当し、伊豆水軍を撃破して伊豆の諸城を攻略した後、小田原沖に展開しました。
言わば完全な包囲戦であり、元より敗北などは微塵も想定しておらず、既に両軍が開戦した直後から、旧北条領は家康に与えられることが内定していました。
 
一方これに対して北条側は、やはり小田原防衛の要となる山中・韮山・足柄の三城に精鋭を投入して敵を迎撃しており、相模西部を主戦場に、三月末から約三ヵ月間続いた秀吉本隊と北条主力部隊との攻防が、この戦役の本戦となります。
また地の利に長けた北条氏は、要衝の館林を始めとして北方の東山道や武蔵にもかなりの兵力を割いており、その中には忍城のように小田原陥落まで持ち堪えた城もありました。
しかしこの北条征伐という合戦を全体として見てみれば、圧倒的に兵力と物量で勝る秀吉軍に対して、北条氏は篭城とゲリラ戦で抵抗するといった形に終始しており、個々の戦場では関東勢が一矢報いるような場面もあったにせよ、基本的には文字通りの掃討戦であったと言ってよいでしょう。
 
 
豊臣秀吉による北条征伐の進軍図
 
 
そして同天正十八年七月、小田原城を包囲された北条氏は、秀吉側の勧告を受け入れて降伏し、難攻不落と言われた小田原城は陥落しました。
秀吉は開戦の責任を取らせる形で前当主の北条氏政や弟の氏照等に切腹を命じ、当主の氏直(家康の娘婿であったが故に助命された)等を高野山へ追放して北条氏を滅ぼし、関東を平定しました。
ただ兵力で劣る北条氏は、前線や各地の要衝に将士を集中させざるを得なかったため、それ以外の土地ではまともな人員配置もできないほど防御が手薄になっており、小田原開城の時点で已に領土の大半を制圧されていました。
またそれは居城の小田原でも同様であって、壮年の男子は皆戦場へ駆り出されてしまっていたので、城内に残っていたのは老人や少年ばかりだったといいます。
 
小田原城を接収した秀吉は、源頼朝の奥州征伐に倣って鎌倉から宇都宮に入り、関東奥羽の諸大名を宇都宮城へ出頭させて戦後仕置を行いました。
この仕置は秀吉の朱印状によって諸大名の所領を認可するものですが、その裁定基準は明確で、北条討伐に参戦した者、或いは当主自らが参陣した者は本領を安堵し、小田原開城までに秀吉本陣へ馳せ参じなかった者は所領を没収しました。
また原則として惣無事令以降に獲得した土地の領有は認めず、伊達政宗は小田原への遅参と惣無事令違反を咎められ、旧芦名領である会津を没収されて所領を約半分にまで減らされています。
この仕置を終えた後、秀吉は政宗の案内で奥州を巡察して回り、ここに再び天下は統一された訳です。
 
景初二年の情勢
話を元へ戻して、帯方郡への倭人の来訪が景初二年だったと仮定すると、考察を続ける上で整理にしておかなければならない点がいくつかあります。
まず始めに問題となるのは、果して倭人は魏と公孫氏との紛争をどこまで知っていたのかということです。
両者の間に戦端が開かれたのは景初元年の夏ですが、そのかなり前から不穏な空気は流れていたので、恐らく年号が景初に変った頃には、どうやら戦争になりそうだという雰囲気は漂っていたものと思われます。
当然そうした情報は、倭と半島を往来している倭人達にも伝わる訳で、女王を始めとする邪馬台の首脳陣にしても、大陸で凡そ何が起きているかくらいは、ほぼ同時進行で承知していたと見てよいでしょう。
 
と言うのも魏のような大国が軍事行動を起こす場合、まずそれが何を目的とした軍なのか、動員する兵力の規模はどの程度で、各隊がどのような進路で行軍するのか、総大将は誰なのかといった基本的な情報を、国の内外に予め告知しておかなければならないからです。
これは現代でも同様であって、もしアメリカ合衆国が各国へ一言の通知もなしに大軍を動員したりすれば、それこそ世界中が跳び上がるでしょう。
こうした超大国というのは、常に国内には政府を快く思わない反勢力、国外には紛争の火種となるような仮想敵国を抱えているので、軍事に関する情報公開を怠ると、要らぬ反乱を引き起こしかねないのです。
従って公孫氏討伐が決定した時点で、そのことは周辺諸民族にも通達されている筈ですから、直接魏軍から倭人へ使者が派遣されたか否かは別として、燕側へ加担させぬよう何らかの働き掛けくらいはあったかも知れません。
 
帯方郡来訪の目的とは
次いで、景初二年の六月に倭の使節が帯方郡へ詣でたのは、そもそも何が目的だったのかという問題があります。
そして前述の通り襄平陥落は八月なのですから、その二カ月も前に使節が帯方郡にいるのはおかしいという意見にも一理あります。
と言うのも仮に六月の時点で倭王の使者が帯方郡に到着していたとすると、倭本土から郡へ赴くのに要する日数からして、遅くともその二カ月前には王都邪馬台を出立していなければ間に合いません。
すると倭王から魏帝への使者一行は、明帝の命により関中から呼び戻された司馬懿が、四万の兵を率いて洛陽を出陣した同年の春頃には、既に訪朝の準備をしていたことになります。
流石にこれは少々無理があると言われても仕方がないでしょう。
 
しかし未だ国単位での公使の交換はなかったにせよ、両国間で全く人の接触がなかった筈もなく、記録に残らないような内々の往来はあったでしょうし、むしろ戦争中やその前夜に密使の飛び交わない方がおかしいのも事実です。
戦略的に考えても、魏が遼東を確実に討伐するための手段として、まず公孫氏から周辺の諸民族を外交的に切り離そうと図るのは当然であり、公孫淵の方も魏から独立するに当たっては、様々な手を用いて周辺諸国を懐柔している訳ですから、魏も水面下で同じことをしていたと見るのが自然です。
元より東夷が尽く魏に与したからといって、それが直接魏の戦力になる訳ではありませんが、周りが全て敵に付いたという事実が公孫淵に与える心理的な影響は大きいからです。
まして老獪な司馬懿のことですから、既に洛陽を出立する何カ月も前から、幽州刺史の毌丘倹等を通して、東夷諸国への間接的な調略は試みていたものと思われます。
 
倭人の献上品と朝貢の時期
一方で倭人の最初の来訪が景初三年では、逆に辻褄の合わなくなってしまうこともある訳で、その一つに倭王から魏帝への献上品があります。
その内訳は前出の詔書の中に書かれていて、それによると難升米等が魏帝に献上した品々は、「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」です。
しかし倭王の方から朝献を求めておきながら、その持参品が生口十人に布二匹というのは、いくら何でも有り得ないでしょう。
班布については諸説ありますが、この場合は(綿布ではなく)粗い麻布のような生地だったと思われ、いずれにせよ国家間の贈答に使用するような代物ではありません。
因みに倭面国王が後漢の安帝に朝貢した時でさえ、その献上品は「生口百六十人」なのです。
従って生口十人と班布二匹というのが事実ならば、これが魏帝のために予め用意されていた贈物とは到底考えられない訳で、恐らく生口は難升米一行が連れていた従者か下僕、同じく班布は彼等の所持品の中の比較的まともな品物の一つだったと見るのが妥当でしょう。
 
要はこれ等の事実から察するに、もともとこの朝貢は倭人の方から求めたものなどではなく、太守として帯方郡へ赴任して来た劉夏が、たまたま現地にいた倭人を接見し、部下に命じて洛陽へ送らせただけのものだった可能性も否定できません。
但しその場合は、難升米等が女王の正式な使者だったという保証もなくなる訳で、世界中で多くの事例が示す通り、本来は公的な立場にない一民間人が、突如として国家の代理人のような役割を担わされてしまう仕合せがあるように、難升米一行が洛陽まで赴いて皇帝に謁見を許されたからと言って、必ずしも彼等が倭国の公使であったとは限らなくなります。
そして魏軍勝利の吉報を追うように、倭国朝貢の一報が明帝の存命中に届いていたならば、それは病床の主君に捧げる劉夏の忠孝だったでしょう。
 
訪問の相手は誰だったのか
しかしそれでは話が広がり過ぎてしまうので、難升米等の来訪が魏への朝貢を前提としたものではなかったにせよ、やはり彼等は何らかの使命を抱いて渡海していたと仮定するならば、本来の目的として考えられるのは次の二例です。
まず一つは、前述の通り魏から(間接的にせよ)倭人側へ何らかの打診があったので、倭国の立場を伝えるという意味もあって、探りも含めて魏軍への陣中見舞のような形で使者を送ったところ、それが急遽魏帝への朝貢に変更されてしまったというものです。
それならば魏の主力が遼東に到着した時期と、難升米の帯方滞在がほぼ一致しているのも無理のない話ですし、彼等の持参品があの程度だったというのも説明がつきます。
但しこの時点では、未だ魏の水軍による上陸作戦が実行されておらず、帯方郡は公孫氏の支配下にあったかも知れませんが、別に倭人が渡航して来たところで誰も怪しまないでしょうし、実は楽浪と帯方の両郡には魏への内応者も多くいました。
 
もう一つは、もともと倭人が訪問する筈の相手は、魏帝ではなく燕王公孫淵だったというものです。
公孫淵が魏から自立して燕王を称したのは景初元年の夏であり、その後に燕から倭国へ何らかの使者が派遣されたとして、それに対して倭の女王が返使を立てるとすれば、やはり翌景初二年の春頃になるでしょう。
と言うのも前出の『魏志』内の記述や『梁職貢図』にも見える通り、日頃布一枚を羽織って裸足で生活している倭人にとって遼東は酷寒の地であり、従って倭の使者が自国を出立するのは、十分暖かくなるのを待ってからだと思われるので、六月に郡到着というのは季節的にも合致しています。
そして燕王に遣使してはみたものの、魏との間で戦闘が始まってしまったために襄平へ行けなくなり、比較的平穏だった帯方に逗留していたところ、海から進攻して来た魏軍が楽浪・帯方の両郡を制圧してしまったので、否応なしに訪問の相手を魏に変更せざるを得なかったという訳です。
恐らく考えられるのはこの二例ですが、元より今となっては、新たな資料でも発見されない限り、史実など知る由もないのは言うまでもありません。


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