武帝は内外に国境を消し、王を称していた者達を次々に廃しましたが、それと平行する形で各地に豪族が出現し始めました。
これは至極当然のことで、例えば後世の日本にあっても、幕府と地頭(御家人)が直結していた鎌倉時代は守護の力が弱く、逆に守護が強大となった室町時代は幕府と地頭(国人)の力が弱くなっています。
そして地頭の力が弱まると、在地の実権は更にその下の地侍へ移るようになり、遂にはその地侍達が連合して守護大名と対立するようになりました。
無論景帝以前にも各地に豪族は憚っていましたが、武帝以降の漢では地方領主の権限が縮小し、州郡は中央から派遣された刺史や太守が統治する体制となったため、実際には現地の有力豪族が郡府や県の役職に就任し、赴任して来た太守の下で実務を担当するという形が徐々に定着して行きます。
これは至極当然のことで、例えば後世の日本にあっても、幕府と地頭(御家人)が直結していた鎌倉時代は守護の力が弱く、逆に守護が強大となった室町時代は幕府と地頭(国人)の力が弱くなっています。
そして地頭の力が弱まると、在地の実権は更にその下の地侍へ移るようになり、遂にはその地侍達が連合して守護大名と対立するようになりました。
無論景帝以前にも各地に豪族は憚っていましたが、武帝以降の漢では地方領主の権限が縮小し、州郡は中央から派遣された刺史や太守が統治する体制となったため、実際には現地の有力豪族が郡府や県の役職に就任し、赴任して来た太守の下で実務を担当するという形が徐々に定着して行きます。
この頃に帝国全土で台頭した豪族というのは、何も漢人に限ったことではありません。
例えば辺境の地域では、異民族の居住地がそのまま郡県に組み込まれることが多かった訳ですが、一度漢帝国の一員になってしまえば漢人同様に生活権が保障されるので、そうした非漢人の有力者の中には、土地を持たない漢人の農民を集めて荒地を開墾させ、自ら大地主となる者も珍しくありませんでした。
無論その逆も広く行われていて、漢人の豪族が家畜を失った遊牧民を従えて放牧地を経営したり、南方の海洋民や西方の山岳民を従えて交易で財を為すなど、もはや帝国内では人種の壁など無いに等しくなっていました。
むしろこうした人種の枠を超えた雇用の交流が、国家の末端まで文明を浸透させるのに重要な役割を果たしたのであって、太守が原住民相手に植民地経営をしている限りは開化など進むものではありません。
武帝の治世は激動の時代とも言えたので、多くの新興豪族が誕生した反面、多くの伝統豪族が消滅した時期でもありました。
文景両帝の頃までは、まだ全国各地に秦以前の伝統文化が色濃く残っていて、戦国以来の名家も数多く存在していました。
しかし半世紀にも及ぶ武帝の時代を通して、そうした旧家の多くは没落して行き、上は朝廷から下は地方に至るまで、帝室劉氏を頂点とする「漢朝の名門」が形成され始めていました。
やがて時代が下り後漢から三国期の頃になると、そうした豪族達が社会の中枢を担うようになっており、後漢の世祖光武帝を始めとして、権力の座を得ようとする者達は、敵対する勢力よりも多くの豪族を纏め上げて、彼等に推戴される必要がありました。
逆に魏の武帝が青洲兵や烏丸兵を重用したのは、豪族主体の軍制を改革したかったからです。
新旧が交代したのは名家ばかりではありません。
武帝の時代を境として、漢民族の文化もまた大きな転換期を迎えており、春秋戦国の世から続いた伝統の多くが廃れて行く反面、後々まで続く漢民族の文化が形成され始めたのもこの頃でした。
そしてこうした文化の変革が起きるのは、ほぼ決まって発展の時期であり、成長とはある意味過去を捨て去る過程という一面を持ちます。
いつの時代も好況の絶頂にある社会で警鐘を鳴らされるのは、過熱する投機や奢侈に耽る風潮など、倫理的もしくは思想的な観点から見た現象が主流となりますが、所詮そんな世相は一時の過熱に過ぎないので、実のところ大した問題ではありません。
むしろ繁栄の危険性というのは、先人から綿々と受け継がれて来た掛け替えの無い伝統が、不知不識のうちに失われていることなのであり、得てしてそれは取り返しの付かない結果となっている場合が多いのです。
同じく武帝の治世の社会不安を示す事象の一つに、治安の悪化があります。
国家規模の急激な変革の後(或いはその最中)に、その副作用として国内が著しく不安定となり、目に見えて治安が悪化するのは、古今東西を問わずに起こる現象であり、武帝統治下の漢もまた例外ではありませんでした。
そしてこの治安の悪化、即ち犯罪率の上昇は、武帝一代のみならず、その後も深刻な社会問題となっており、一見平穏無事に見える漢帝国の裏側として、歴代の朝廷はその対応に苦慮して行くこととなります。
しかし実際には前後両漢代を通して治安が回復することは終ぞなく、やがて犯罪の多発は常態化の様相を呈するようになり、後年はそれが当り前の日常になってしまった観さえありました。
治安の目安となる犯罪は大きく分けて二つあり、まず一つは、日常生活の中に浸透しているような小さな犯罪で、例えば路上での恐喝、商売上のごまかし、スリやひったくりといった軽犯罪が当り前のように頻発するようでは、お世辞にも治安が良いとは言えません。
更にこれが進んで、少し目を離すと金品が無くなる、カモを待つ詐欺師がそこら中にいる、金目の物を身に付けて人前を歩けないといった具合に、巷で言うところの「他人を見たら泥棒と思え」「知らない人に付いて行ってはいけない」という言葉が現実味を帯びているような土地では、その辺の一般人までもが何の躊躇いもなく加害者に豹変するので、犯罪云々よりも民度そのものを疑った方がよいでしょう。
かつてのように海外旅行が贅沢ではなくなってきた昨今、比較的治安のよい日本から海外へ出掛けた日本人が、現地で被害に遭い易いのもこうした軽犯罪です。
少なくとも置引きやぼったくり、見ず知らずの怪しい人間に声を掛けられたなどというのは、海外渡航の経験者ならば誰もが一度は見聞していることでしょう。
そしてスラム街というならまだしも、一見華やかに見える都市や観光地で、こうした犯罪が日常的に多発しているとすれば、そこには(旅行者の目には見えないだけで)犯罪率と比例するだけの貧困が内包されていると思ってよいと言えます。
逆にこうした犯罪を減らす唯一の方法は、善良な市民を徒に犯罪へ走らせないこと、つまり全ての人々に自活できるだけの職を与えて貧困層を無くすことであり、これに成功したのが今我々の生きている戦後の日本なのです。
但し物事は原則として一方だけを消し去るということはできませんから、高度経済成長期の日本や現代の北欧にも見られるように、貧困を減少させることによって齎される平和は、同時に裕福層もまた消滅させることを意味しており、結果として過度の平等という悪弊を招き易くなります。
例えば北欧の福祉国家が、世界最高水準の国民所得を維持しつつ、同じく世界で最も充実した福祉を実現していることを称賛し、日本も彼等を模範とすべきだという意見は、社会主義が崩壊した今も後を絶ちません。
しかし世界第三位の経済大国と、世界経済に殆ど影響もないような人口数百万の小国を、そもそも同一に論ずること自体が無意味ですし、高率の税負担と福祉による還元などという国策では、激烈化する経済競争に勝ち抜いて一億総国民の生活を維持することは難しいでしょう。
実のところ欧州の福祉国家や中立国が世界でも特に高水準の生活を享受できるのは、史上最強の超大国米国が基軸通貨米ドルと米軍によって全世界の経済活動を保障し、それを日本やドイツといった先進国(最近ではこれに中国やインドといった人口最多国が加わる)が支えているからで、その恩恵を享受しているだけの小国は世界経済に対して何の責任も負っていませんし、そもそもそれだけの国力がありません。
そしてそれは戦後の日本にしても同じことで、日本が奇跡的な経済復興と世界でも稀に見る平等社会を同時に実現できたのは、本来日本が負担すべき役割を全て米国が肩代りしてくれたからに他なりません。
しかし今や日本も世界経済を牽引する立場となり、その国力に見合った国際社会への負担を引き受けるならば、今後は米国のように、ある程度は国内の調和を犠牲にしなければならなくなるでしょう。
それが世界経済に対する責任というものなのです。
日本について言えば、ようやく最近になって、若い人達の中からも戦前の日本をもう一度見直すべきだという声が上がって来ているようで、これは現代に生きる我々は元より、未来の後輩達にとっても喜ばしい変化と言えます。
実のところ戦前の日本というと、配給や特高に代表される戦中後期の抑圧された雰囲気や、昭和四年(一九二九年)に始まった世界恐慌後の悲惨な状況が余りに印象的であるため、まるで暗黒の時代が続いていたかのような錯覚に陥ってしまいがちですが、一般民衆の生活そのものは比較的平穏で、これは実際に当時を生きた多くの識者が回顧しているところです。
むしろ普通に考えればそれが当然であって、国民の日常も安定していないような国家が、四年近くにも渡る米国との戦争などできる筈もありません。
これについては故渡部昂一上智大学名誉教授が、実体験も交えて非常に分かり易く語っておられて、都会はともかく渡部先生の生まれ育った山形県鶴岡では、支那事変(一九三七年~)は元より太平洋戦争が始まってからも実生活には余り変化がなく、少なくとも少年の目にはいつもと変らぬ毎日が続いていたといいます。
例えば外出するにも玄関に鍵を掛ける必要はありませんでしたし、露天商は夜間も商品を置いたままにするなど、お互いの良識によって成り立つ古き良き日本の社会がそこにはありました。
しかし戦況が悪化するに従いそれが一変し、世の中から急に物が無くなり始めると、それと並行して田舎でも空巣やコソ泥が頻発するようになるなど、日を追う毎に民心が荒んできます。
自然そうした現実は平凡な人々の心をも蝕んで行き、やがて戦争も末期になると、近所はおろか親戚さえも信用できないというまでに民度が失墜しました。
太平洋戦争の敗因については多く語られていますが、少なくとも背後を守る国民が、常に空巣やコソ泥を警戒しなければならないような環境では、どれほどの兵器や作戦があろうと、とても戦争など続けられる訳がありません。
言わば東京大空襲や原爆投下の遥か以前に、国家としての日本は、もはや見る影もなく崩壊していたのであり、昭和二十年の八月を待つまでもなく、既に自壊という形で自分自身に敗れていたのです。
逆に言えば戦前の軍部の横暴などというのは、敢て為政者が手を下さずとも長い歴史の蓄積によって、自然に治まっている日本社会に甘えていたというのが実情であって、民度の低い途上国の軍政とは全く異なるものであり、今もってそれを理解していない者が余りに多いのです。
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