史書から読み解く日本史

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記紀神話:須佐之男命の追放

2019-12-24 | 記紀神話
スサノヲの悪行
アマテラスとの神明裁判に勝ったことで有頂天になったスサノヲは、領国へ帰らずに姉兄のいる高天原に腰を据えてしまうのですが、ここから彼の悪行三昧が始まります。
逆に言えば、神託を口実にやりたい放題を始めたこと自体、彼の本心が神託とは真逆だったことを如実に表したものだと言えるでしょう。
『古事記』によるとスサノヲは、アマテラスの宮田の畔を壊し、溝を埋め、新嘗を奉げる祭殿に糞を撒き散らしたりしました。
初めのうちこそ弟を庇っていたアマテラスでしたが、アマテラスが衣服を作るために機織りをしていた時、スサノヲが皮を剥いだ駒を機屋の天井から投げ入れるという蛮行を働き、これに驚いた機織女が機具で怪我をして死んでしまいました。
これを見たアマテラスは、畏れて天の石屋戸を開いて籠ってしまったといいます。

『日本書紀』本文もほぼ同じ内容で、アマテラスは天狭田と長田を神田としていましたが、スサノヲは春に種を重ね撒きし、或いは田の畔を壊し、秋には馬を放って荒らすなどしました。
またアマテラスが新嘗祭をしている神殿に糞をしました。
またアマテラスが機殿にいるのを見て、駒の皮を剥いで天井から投げ入れたため、驚いたアマテラスは機具で怪我をしました。
これにはアマテラスも怒って、天の石窟(いわや)に入り、磐戸を閉じて籠ってしまったといいます。
どちらも最高神であるアマテラスが料田を所有したり、機織りして衣服を作るなど、何とも人間味溢れる神話となっており、これらを読むだけでも高天原という神々の世界が、決して天空に浮かぶ楽園などではないことが分かります。

また『日本書紀』一書(第一)によると、稚日女尊が機殿の神衣を織っているのを見たスサノヲが、駒の皮を剥いで中に投げ入れたところ、驚いた稚日女尊の機から落ち、持っていた機具で怪我をして死んでしまいました。
アマテラスはスサノヲに対し、「やはり汝には黒い心がある。もう汝とは相見えたいと思わない。」と言って天の石窟に入り、磐戸を閉じてしまったといいます。
また一書(第二)によると、アマテラスは天垣田を神田としていましたが、スサノヲは春にはその溝を埋めたり、畔を壊したりしました。
また秋には已に穀物が実っているというのに、縄を引き渡してそれを犯すなどしました。
またアマテラスが機殿にいるのを見て、駒を生剥ぎにして投げ入れました。
これら諸々の悪行はとても言葉に表せないほどでしたが、アマテラスは親意によってこれを咎めたり恨んだりせず、穏やかな心で赦していました。
しかしアマテラスが新嘗の祭事をしようという時に及んで、スサノヲが秘かに新宮の御座の下に糞をしたため、それを知らずに座ったアマテラスは体中が汚れて臭くなりました。
アマテラスは怒って天の石窟に入り、磐戸を閉じてしまったといいます。

悪行の動機
また一書(第三)によると、アマテラスは天安田・天平田・天邑併田という三つの神田を所有しており、皆これらは長雨や旱魃にも損なわれない良田でした。
スサノヲも天樴田・天川依田・天口鋭田という三つの神田を所有していましたが、皆これらは痩せ地で、雨が降れば流れ、日照りになると干上がりました。
故にスサノヲはこれを妬んで姉の神田に害を加えました。
春には水路を壊し、溝を埋め、畔を崩し、籾を重ね撒きし、秋には田に串を刺し(領有権の主張を表す)、馬を放って荒らすなどし、これらの悪行を決してやめることがありませんでした。
しかしアマテラスはこれを咎めようとせず、常に穏やかな心で許していた云々とあります。

一書(第三)にあるように、各々が相続した土地に対する不平から、先主の死後に兄弟間で揉め事が起きるというのは、いつの時代にもよくある話で、応神帝が崩じた直後にも皇子間で土地の所有権を巡る争いが生じています。
むしろスサノヲがアマテラスの神田に害を加えた動機としては、これが最も分かりやすいものです。
基本的にアマテラスとスサノヲの関係というのは、家にあっては姉弟ですが、国にあっては君臣なのですから、本来スサノヲの犯した悪事の中で最も許されざる罪は、国主アマテラスの土地を侵したことの筈なのですが、面白いことにこの一事に関してアマテラスは弟を咎めていません。
そしてアマテラスが天の石窟に籠ってしまった理由について各書では、アマテラスが機織りをしている機屋の天井からスサノヲが皮を剥いだ駒を投げ入れたこと、または新嘗祭を行う祭殿にスサノヲが糞をしてアマテラスを汚したことの二件を挙げており、どちらも謀反や大逆といった次元の話ではなく、せいぜい悪童の悪戯が度を越えた程度のものです。
尤も当の本人には是非善悪の自覚がないだけに、それはそれで甚だ厄介なのですが。

『日本書紀』各書に見る岩戸隠れ
続いてアマテラスの岩戸隠れと再臨を語る神話になりますが、まず『古事記』の記述は余りに描写が細かいので、『日本書紀』本文に従って流れを追ってみると、アマテラスが石窟に籠ってしまったことで国中が常闇となり昼夜の別も分からなくなりました。
そこで八十万の神々は天の安河のほとりに集まり、どんな祈りをすべきか相談しました。
思兼神(『古事記』では高御産巣日神の子とする)が深謀遠慮巡らし、常世の長鳴鳥を集めて互いに長鳴きをさせ、手力雄神(たちからをのかみ)を岩戸の側に立たせ、中臣連の遠祖の天児屋命(あまのこやねのみこと)と忌部の遠祖の太玉命(ふとたまのみこと)は天香山の榊を掘り、上枝には八尺瓊の五百箇御統を掛け、中枝には八咫鏡を掛け、下枝には青や白の和幣を掛けて皆で祈祷しました。
また天細女命(あまのうずめのみこと)が手に茅を巻いた矛を持ち、岩戸の前に立って巧みに(滑稽な仕草を交えて)踊りました。
また篝火を焚き、桶を伏せてその上に乗り、神憑りをしました。

アマテラスはそれを聞き、「私はこの頃石窟に籠っているので、豊葦原中国は必ず長い夜が続いているものと思えるのに、どうして天細女命はこのように喜び楽しむのか」と言って、御手で細目に磐戸を開けて外を窺いました。
すると手力雄神がすかさずアマテラスの手を引いて石窟から出し、中臣神と忌部神はすぐにしめ縄を張って境界とし、アマテラスに請いて「二度と(中へは)還りませぬように」と申し上げました。
その後に諸神は罪をスサノヲに帰し、罪穢れを祓うために多くの供物を科すと、厳しく促してそれを徴収しました。
また髪を抜いて罪を贖わせ(または手足の爪を抜いて贖ったとも言います)、遂に高天原から放逐したといいます。

『古事記』の内容もほぼこれと同じで、同書ではアマテラスが外の喧騒を訝しむと、ウズメがこれに答えて「貴方より貴い神が坐すので喜び笑い楽しむのです」と言い、天児屋命と布刀玉命が鏡を指し出してアマテラスに示したという一文を入れています。
そして『古事記』と『日本書紀』本文に従うと、スサノヲは以前イザナギからも一度追放されているので、これで二度追い出されたことになります。
ただイザナギがイザナミと国生みをした場所、即ちイザナギがスサノヲに根の国へ行くよう命じた場所については、記紀共に特定されていないので、形としてはスサノヲが一旦そこを出て行った後、姉に挨拶をするために高天原へ上り、更にそこからも出て行かされたという設定になっています。

また一書(第一)によると、アマテラスが石窟に入って磐戸を閉じてしまったので、天下は常闇となり昼夜の別もなくなりました。
そこで八十万の神々は天高市に集って相談しました。
時に高皇産霊の子で思兼神というものがあり、思慮に優れていました。
思案して「大神の像を造って招き奉ろう」と言い、石凝姥を鍛冶として、天香具山の金を採って日矛を作らせ、また鹿の皮を丸剥ぎにして羽韛を作らせたといいます。
また一書(第二)によると、アマテラスが磐戸を閉じてしまったため諸神はこれを憂い、鏡作部の遠祖の天糠戸という者に鏡を作らせ、忌部の遠祖の太玉という者には幣を作らせ、玉造部の遠祖の豊玉という者には玉を作らせました。
また山雷という者には多くの玉で飾った榊を揃えさせ、野槌という者には多くの玉で飾った小竹を揃えさせました。
これら諸々の物が全て集まったところで、中臣連の遠祖の天児屋命が大神に神祝を奉ったところ、日神が磐戸を開けて出ましたといいます。

また一書(第三)によると、日神が石窟に籠ってしまったので、諸神は中臣連の遠祖の興台産霊の子の天児屋命を遣わして祈らせました。
天児屋命は天香山の榊を掘って、上枝には鏡作の遠祖で天抜戸の子の石凝戸辺が作った八咫鏡を掛け、中枝には玉作の遠祖で伊弉諾尊の子の天明玉の作った八尺瓊の曲玉を掛け、下枝には粟国の忌部の遠祖の天日鷲が作った木綿を掛け、忌部首の遠祖の太玉命に執り持たせて、広く厚く大神を称える辞を申し上げて祈らせました。
日神がこれを聞いて、「この頃、人が多くのことを言ったが、未だこれほど麗しい言葉はなかった」と言い、細く磐戸を開けて外を窺いました。
その時に磐戸の側に侍っていた手力雄神が戸を引き開けたので、日神の光が六合(国中)に満ちました。
諸神は大いに喜んで、スサノヲには多くの供物を捧げる罰を科し、手足の爪を抜いて罪を償わせ、天児屋命が祓いの祝詞を読んだといいます。

スサノオの罪と罰
実は一書(第三)には続きがあり、諸神はスサノヲを責めて、「汝の所業は甚だ無頼である。故に天上に住んではならず、また葦原中国にも居てはならない。速やかに底根の国へ去れ」と言って皆で追い遣りました。
時に長雨が降ったので、スサノヲは青草を結い束ねて笠蓑とし、衆神に宿を乞いました。
しかし衆神が言うには、「汝は身の行いが悪くて追い責められている。どうして我々に宿を乞えようか」と言って皆でこれを拒否しました。
このため風雨が甚だ激しいというのに留まり休むこともできず、辛苦して降って行ったといいます。
ここで誰しも気付くのは、諸神がスサノヲの罪状を責めて追放する時の描写が、かつてイザナギがスサノヲを放逐した時のそれに酷似していることで、或いはスサノヲの追放劇というのは、原話となった一つの伝承が、別々の箇所で重複して語られているのかも知れません。

その後にスサノヲは、「諸神が我を追い遣った。我は今まさに永久に去ろうするが、どうして姉上に相見えずに、自儘に去ることができようか」と言って、また天に上り詣でようとしました。
天細女がこれを見て日神に告げると、日神は「吾が弟が上り来るのは、また好い心からではあるまい。必ず吾が国を奪おうというのであろう。吾は婦女なりと雖も、どうして逃げようか」と言って身に武備を装い云々とあります。
そしてこの後に両神の誓約の物語が続いており、要するに他書ではイザナギに追われた後に語られている逸話が、一書(第三)では諸神に追われた後の場面に挿入されている訳で、これなども家伝によって神話の内容が混同されている一例と言えるでしょう。



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