史書から読み解く日本史

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魏志:倭の風景(一)

2019-08-08 | 魏志倭人伝
男子は大小となく皆黥面文身す。古より以来、その使の中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚水禽を厭う。後やや以て飾と為す。諸国の文身各異なり、或いは左、或いは右、或いは大、或いは小、尊卑差有り。その道理を計るに、当に会稽の東冶の東に在るべし。
その風俗淫ならず。男子は皆露紒し、木綿を以て頭を招い、その衣は横幅ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は皆髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・縑綿を出す。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵は矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所、儋耳・朱崖に同じ。
 
男子は皆顔や体に入墨をしている。昔から、その使者が中国に来ると、皆大夫を自称する。かつて夏后小康の子が会稽に封ぜられると、髪を切り入墨をして水獣の害を避けた。今の倭の海士も好んで水中に潜って魚貝を捕り、身体に入墨をして大魚や水鳥の害を祓う。この入墨は装飾にもなっている。諸国の入墨は各々異なり、左右大小のほか、尊卑でも差がある。その道里を計ってみると、(倭国の場所は)会稽郡の東冶の東に当るだろう。
その風俗は淫らではない。男子は皆被り物をせず、紐で髪を結っている。その衣服は横をいくつか結んで合わせており、ほぼ縫っていない。婦人は髪を束ねている。衣服は一枚布のようなものを作り、その中央に穴を開け、そこに頭を入れて着ている。稲と麻を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、麻布と絹を生産する。その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。兵器には矛・楯・木弓を用いる。弓は下を短く上を長くしてあり、竹矢の鏃には鉄と骨を使う。その風俗の多くは儋耳・朱崖と同じである。
 
 
倭と南蛮
ここから倭人伝は、倭国の風俗等を解説する箇所に入ります。
まずは黥面文身を施した倭人の風貌に始まり、全体としては江南との共通性を強調した内容となっています。
夏后小康は夏朝五代帝相の子で、相が弑されて断絶した夏の帝室を再興し、第六代帝として即位した夏朝中興の祖と伝えます。
その子が会稽に封ぜられると、現地の風に倣って水害を避けたといいます。
また『魏志』では省かれていますが、『魏略』ではここに「其の旧語を聞くに自ら太伯の後と謂う」との一文を入れており、倭人が呉の太伯の子孫を自称していることを記しています。
呉の太伯は周の古公亶父の長男で、父が末弟の季歴(文王の父)に後を継がせたいと思っていることを察し、次弟の虞仲と共に江南へ移り住んだとされます。
やがて周が二人を呼び戻そうと迎えを遣すと、やはり断髪文身して現地の風に同化し、自分達は周に相応しくないと言って断ったといいます。
この倭人が呉の太伯の子孫だという逸話は、後の徐福渡来伝説と並んで、倭人の起源を大陸へ求める際には必ず出てくる定番と言ってよいでしょう。
 
会稽郡東冶県は現在の福建省福州市付近に当り、古来江南の主要な交易港として栄えた街で、越人や倭人(と思われる人々)を始めとして、近隣の諸民族が多数往来していたといいます。
そして倭国が東冶の東にあるというのは、越人は南、漢人は北からそれぞれ渡って来るのに対して、倭人は東の彼方から現れた(ように見えた)からであり、地理的に東の海上で倭国を確認したという訳ではありません。
何しろ実際に福州の東海に浮かぶのは日本ではなく台湾です。
こうした事実から見ても、やはり倭人はどちらかと言うと東夷ではなく、むしろ南蛮に近い人種として捉えられており、対馬海峡を隔てた韓人とは一線を画す存在となっています。
かつて弥生文化は北方から朝鮮半島を経由して伝わったというのが通説となっていましたが、少なくとも漢籍の資料を見る限り、大陸からの入植を示す故事が残っているのは三韓地方までで、他民族による倭国への移住に関しては、それらしき伝承は無論のこと、その痕跡を記した書物さえ見当たらないのが実状です。
 
漢人の世界観と倭国
そして倭人伝で末蘆以降の方位が四半回転されている(東が南とされている)のは、こうした漢人側の世界観にも起因しています。
当時の漢人は、朝鮮半島の南端から江南沖に掛けて無数の島々が連なっていると認識しており、当然ながら倭国もその中に在ると考えていました。
と言うより、むしろそう考えるのが普通であって、まさか実際の倭国即ち日本列島が、南ではなく東へ実測で二千五百里も続いた後、更に北へ屈折しているなどとは夢にも思いませんし、それは漢人の世界観を根底から覆すものとなります。
確かに魏の使節は何度も倭の地へ渡っていますし、行く先々で実際の方位を目測したかも知れませんが、確立された固定観念と現実とが余りに掛け離れている場合、事実を受け入れて定説を破るのがいかに困難であるかは、他の無数の事例が物語っています。
 
まして使者自身は魏の公使として派遣されている訳ですから、倭国は江南の東に在り、倭人の風は会稽のそれに酷似していて、倭人は呉の太伯の子孫を自称しているという定説があり、皇帝以下誰もがそれを信じている以上、独り使者の見聞をもってそれを変えることは難しかったでしょう。
ただ後の『隋書』倭国伝(原文は俀国伝)には、倭国の大きさについて「その国境は東西五月行、南北三月行、それぞれ海に至る」とあり、日本が南北よりも東西に長い国であることを明記しているので、恐らくは『魏志』の時代に倭国へ赴任していた魏使達も、(現地で倭人から聞いた話も含めて)倭国が南方ではなく東方へ延びた島であることは認識していたかも知れません。
末蘆以降の方位が変更されているのはその好例と言えますが、三百年後の隋代と異なるのは、未だその事実を明言できる時代ではなかったという点でしょう。
 
倭人と江南の類似性
続く「その風俗淫ならず」に始まる衣服云々の文章については、『漢書』地理志粤条との類似性が指摘されており、必ずしも『魏志』独自の出典とは言えない面もあります。
そして当時の知識人の教養として、『三国志』を手に取るような者ならば、『史記』や『漢書』に精通しているのは常識以前の問題でしたから、この一文を読めば『漢書』を連想するのは自然の流れであり、むしろここは地理志を引用することで意図的に倭と江南との結び付きを表現したものと言えます。
儋耳と朱崖というのは、どちらも広東に置かれていた郡名で、倭人の服装や武器は広東地方(粤)とよく似ていたようです。
少なくとも漢人の目にはそう見えたということであり、やはり倭人と越人との間には、根源を同じくする共通の文化が流れていたのでしょう。
 
倭人の質素な服装については、南北朝時代に南朝へ入貢した民族を記した書画の中でも、それぞれの民族衣装を纏って皇帝に謁見する諸国の使節に混じって、倭王の使者が裸同然とも言える恰好で描かれており(その書物自体の信憑性はともかくとして)、これが長く倭人の外観に対する漢人の先入観だったと言えます。
ただ日本は河北や朝鮮半島に比べれば温暖とは言え、年間を通して布一枚で過ごせるような気候ではないので、恐らく大陸の寒気に不慣れな倭人が、薄着でも活動しやすい時期を選んで渡航していたのと、同じく漢人もまた冬場を避けて倭国との間を往来していたことが、先のような偏見を生む要因になったものと思われます。
加えて江南地方や更にその南方の人々と倭人との共通性が、現実以上に倭国を南方系と同一視させてしまっている観は否めず、それが故意か否かは別として、倭人伝全般を通して倭人の描写にはかなりの脚色があると見てよいでしょう。
 
 
梁職貢図に描かれた倭人(一番左の質素な格好をした人物が倭国使)
 

倭の地は温暖にして冬夏生菜を食す。皆徒跣。屋に室有り父母兄弟、臥息を異にす。朱丹を以てその身に塗る。中国の粉を用うるが如きなり。食飲には籩豆を用い手食す。その死には棺有るも槨無く、土を封じて冢を作る。始め死するや停喪十余日、時に当りて肉を食わず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば、拳家水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。
その行来渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食わず婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善ならば共にその生口財物を顧し、もし疾病有り暴害に遭えば便ちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずと謂えばなり。真珠・青玉を出す。その山には丹有り。その木には枏・杼・予樟・楺・櫪・投・橿・烏号・楓香有り。その竹には篠・簳・桃支。薑・橘・椒・襄荷有るも、以て滋味と為すを知らず。獮猴・黒雉有り。
 
倭の地は温暖で、一年を通して生菜を食べる。皆裸足である。住居には部屋があり、父母兄弟は居室を別にしている。朱を身体に塗るが、これは中国で粉を用いるようなものである。飲食には高坏を用い、手で食べる。死者に棺はあるが槨(外棺)はなく、土を盛って塚を作る。人が死ぬと、まず十余日は弔わず、その間は肉を食わない。喪主は声を上げて泣き、他人が付き添って歌を唄い、舞を踊り、酒を飲む。やがて葬ると、家を挙げて水中に入り身を清める。これは練沐のように行う。
中国への往来に海を渡るときは、常に一人の男に髪を梳かさせず、虱を取らせず、衣服は垢で汚れたままにさせ、肉を食わせず、婦人に近付けず、あたかも喪人のようにさせる。これを持衰と言う。もしその渡航が成功裏に終れば下僕や財物を分け与えるが、もし途中で病気や災害等の不幸に遭えば殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからだというのである。真珠と青玉を産出する。山には丹がある。木は、トチ、クスノキクヌギ、カシ、カエデ等があり、竹は、笹、矢竹等がある。生姜、橘、山椒、茗荷もあるが、旨味とすることを知らない。猿や黒雉もいる。
 
 
倭人特有の生活様式
次いで倭人の生活様式等が紹介されており、ほぼ読んだ通りに受け取って問題ないような文章なので、特に解説の必要もないでしょう。
葬儀について詳しく触れているのは、やはり祖先と家族を大切にする漢人らしい関心事と言えなくもありません。
尤も当時のことですから、倭国のような未開の地にあっては、葬式くらいしか特筆すべき行事がなかったという面もあるでしょうが。
続いて記されている持衰という風習は、当時の倭人を語る際には必ずと言ってよいほど取り上げられるもので、考古学的に見れば倭人伝の中でも出色の逸話と言えます。
ただ如何せん日本側の資料にそれらしき記録がない上に、恐らくは古墳時代のかなり早い段階で途絶えてしまったと思われる風習なので、今となってはその詳細を知る由もありません。
しかし持衰そのものは失われても、同じ発想から来る言動や風習は残っているでしようから、それ等を探って行くことで少しは近付くことができるかも知れません。

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