火砕流の急襲により、外人の火山学者、取材のマスコミ、消防など49人が命を落としたのだ。
大火砕流が島原を襲ったのは20年前の6月5日と8日だったそうだ。
あの時、わたしはテレビで火砕流の凄いスピードで流れ下るさまを見た。その通りすぎたあとは、みどりの森も樹木も畑も家屋も全部焼け焦げて、灰色一色となり、マスコミも最前線にいたのだろうが、ものすごい映像だったのを思い出す。
想像を絶する火砕流という自然の暴虐な力を、いやというほど見せられた記憶は、いまもまだ生々しい。
自然の力というと、東北大震災。地震被害を数倍上回る大津波の猛威。
津波のビデオ映像もふんだんに見たが、津波の恐ろしいパワーが、市を、町を、一往復しただけで全く瓦礫の荒野にしてしまう恐ろしさ。
あとで知ったことだが、平安時代も始め近く、貞観三陸地震・津波というのが東北を襲い、大きな被害を出したそうなのだ。
震源は、三陸沖、マグニチュードは推定8.3.
貞観(じょうがん)9年(869年)、陸奥の多賀城国府を地震と津波が襲い、溺死者1,000人を出したと記録にあるのだ。
津波が特に酷かったらしい。
このころは、平安時代前期、藤原氏一族がようやく隆盛となり、当時の陸奥はというと、坂上田村麻呂がやまとにまつろわぬ熊襲や蝦夷を攻略し、多賀城、胆沢城などを前線基地として押さえて、ようやく安定した状況だった。
多賀城は、いまも被災地の真ん中にあるが、貞観のころは国府が置かれ、役所、倉庫もある陸奥の中心都市だったらしい。
そこが、今次の震災に酷似する津波災害を蒙ったとの記録がある。
文字で記録する都の文化は、まだ地方には充分波及していなかったためか、多賀城以外の広い地域の災害については、記述はないようである。
普賢岳の事例を見たり、東北大震災の事例をみても、自然のエネルギー、脅威は人の智恵をはるかに越えるものがあり、自然の力を人間が勝手に想定することの、不遜さ、無謀さにわれわれは思いを致さねばならないと、つくづく思うのだった。
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