Sam'sダイアリー

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KXシリーズの開発(KX125・250) 回想録―7

2013-04-12 06:00:00 | 回想録
-Fシリーズに代わって、新たにKXシリーズの開発-

久々に回想録をアップ!!!
<手元に写真が無く、個人の写真を拝借した。あしからず>



1973年 KX125 & KX250
 



新体制になった1972年。この当時のモトクロスは本格的に国内4メーカーが参戦したことで、開発ピッチが急速に進んだ。ヤマハは「モノサス」を装着、スズキは世界チャンピオンマシンをさらに進化させ、ホンダも徐々に戦闘力を増してきた。 当然カワサキも本格的なマシンを開発するために、それまで市販車ベースであった「Fシリーズ」からファクトリーマシンとして「KXシリーズ」の開発に着手した。 

「KX125」はロータリーバルブを継承したが、「KX250」は「F11M」をさらに進化させた位置づけでピストンバルブで開発を進めた。 引き続き、私は「KX250」のエンジン開発を担当することになる。

当時の開発スタンスは、設計担当者と実験担当者がペアで進めることが多かった。「KX250」もしかり
しかし、当時ペアを組んだ設計担当者は前任の基本設計者から代わり、岐阜工場からの転籍で「ヘリコプター」の設計をしていた「U君」・・・経験の浅い私とバイクエンジン設計未経験の「U君」の迷コンビがスタート
しかし、「U君」はセンスがあったので物事をよく理解し、何とか走らせることが出来るレベルに仕上がった。

開発も進み 1972年シーズン途中の全日本モトクロス選手権第10戦東北大会。 場所は福島県二本松市の「えびす高原特設コース」が「KX125・250」のデビュー戦の場となった。 しかし前日からの大雨で、大会当日はパドックまでたどり着けないトラックが多く中止になり、福島でのデビューはならず・・・


<その時のサイクルサウンズ記事>

クリックで大



それ以後も開発テストと走行テストを繰り返し、1973年から赤タンクの「KX125・250」での参戦が始まった。ライダーは1972年度と同じく「竹沢正治」と「川崎利広」の2名で参戦・・・がここで問題が。

KXは元スズキのライダーで後にカワサキの契約ライダーになった「オーレ・ペテルソン」の意見を多分に取り入れた結果RH色の濃いマシンになってきた。「川崎利広」選手はもともとスズキからの移籍のため、さほど違和感が無かったが、「竹沢」選手は彼独特のライディングで「F81M」「F11M」と乗り継いできたため、エンジン特性、ハンドリング特性とも拒絶反応であった。当然レース結果も伴わない。

それからは「エンジン・フレーム」とも「竹沢仕様」を数種類作っていったが、なかなか満足のいく仕様が見出せない。逆にチャンピオンを狙うには逆方向に行こうとしていた。極端な話、当時フレームはキャスター、ハンドル取付位置・形状、ステップ位置、エンジン搭載位置など毎戦仕様が異なっていた。エンジン仕様しかりである。 このような状態が2年ほど続いた・・・

が転機が訪れたのは1975年 当時、カワサキはフィンランド人の「トーレフ・ハンセン」と契約して世界GPに参戦していた。その「ハンセン」が、日本でテストをした時のことである。気持ちよさそうにKXをライディングする「ハンセン」を見て竹沢は「なぜ?」と思ったらしい。 「ハンセン」は『バイクの特性を生かしたライディング』をしていると・・・
それ以後 竹沢もライディングを変へ、マシンの開発も徐々に進みKXを自分の物にしていった
そして、1976年に後の「KX250」で全日本チャンピオンに輝いた・・・

私はすでに「KR」の開発を行っており 「竹沢」の全日本チャンピオンの場にはいなかった



<以下ダートクール記事より>

「初めて乗ったKXは最悪でした。これじゃダメだと思って『以前のマシンに変えてくれ、それなら勝てる』と言ったのですが、許してくれませんでした…」と語るのは、’76年、カワサキKXで全日本セニア250ccチャンピオンを獲得した竹沢正治。’72年にセニアへ昇格して以来ワークスマシンに乗るようになった竹沢は、カワサキのモトクロッサーが“KX”となる時期にマシン開発を担当し、“最悪”からタイトルを獲得するまでにKXを育て上げたライダーだ。

’60年代後半から2ストローク単気筒の250ccワークスマシンの開発を本格的にスタートさせたカワサキは、ロータリーディスクバルブの238ccエンジンを搭載するF21M、ピストンバルブのF11Mなど“F”シリーズという優れたモトクロッサーを造り上げていたが、開発の手を緩めることなく、’70年代に入ってからは“KX”と名付けられたワークスマシンの製作を開始した。これが竹沢が「乗るのに苦労した」というKX250である。
「フレームがダメで、ハンドリングが悪かった。砂地など柔らかいところ、デコボコの深いワダチができるようなところはいいのですが、それ以外では全然走らない。F11Mなら勝てるのに…と思っても、会社はKXで行くという。3、4年は辛い思いをしましたね。でも、我慢強く、コツコツと変えていったんです」

KX250がライバルに追いつき、互角に勝負できるように仕上がったのは、’75年の後半に入ってからである。それは竹沢を含むカワサキのライダー、開発スタッフたちが少しずつ改良を加えていった結果だけでなく、竹沢自身のマシンセッティングの方法、乗り方も大きく変えた結果、生まれたものだった。
「バイクを自分のオリジナルに仕上げることができるかが、勝つためのカギ。その方法がわかったんです。当時、世界GPでカワサキはトーレフ・ハンセンというフィンランド人と契約していたのですが、彼が日本へテストにやってきたとき、気持ちよさそうにKXを走らせている。聞いてみると『このバイクの特性は、こういうふうに乗れば活かせる』と言うんです。そこで気づきましたね。僕は『ここがダメ、あそこがダメ』とばかり考えて乗ってました。そうじゃなくて、バイクのいいところを活かせる走りをしてやることが大事だった。全開にできるセッティング、しっかり荷重をかけられるセッティングをしてやればよかったんです」

積極的な体重移動など乗り方をガラリと変えた竹沢は、セッティングもマシンと自分の長所を活かせるようなものへと変えていった。その結果出来上がったのが’76年のワークスKX250で、竹沢はそのマシンでスズキに乗る渡辺明と接戦を繰り広げ、わずか1ポイント差ながら見事全日本チャンピオンを獲得したのだ。







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4 コメント

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面白い! (mohtsu)
2013-04-12 18:36:23
sam-wd3さん
非常に面白い記事で、愉快に読むことができました。
1972年当時は、技術部がレース開発から運営までを担当する時期にあったようで、その当時の話をどんどん聞かせてください。
ライムグレーンを採用し、直後に赤色に換え、最終的にライムグリーンを採用した詳しい経緯等も期待しています。
また、年度ごとの開発やレースに関する変遷も記録に残しておく必要がありますので、よろしく。
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なかなか・・・ (sam-wd3)
2013-04-12 22:49:35
当時を振り返りながら、記憶の断片を書きとめていますが、
なかなか思い出せないですね。
ひとつの出来事は鮮明に覚えているのに、あいだが抜けてしまう。
また、それが「いつ(何年)」だったかが、はっきりしない。
~と言うことで「回想録」も年代が飛び飛びになりますが、
続けていきたいと思っています。
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懐かしい (sedona)
2013-04-15 12:40:03
トーレフ・ハンセン、西神戸のテストで見ました。
振られようが、フロントが浮こうがスロットルを緩めず、
腕力で押さえ込むライディングは、強烈でした
今でも鮮明に覚えています・・・
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残念ながら・・・ (sam-wd3)
2013-04-15 19:09:57
トーレフ・ハンセンが明石に来たときは、すでにKRの開発をしており
残念ながら、テストには立ち会っていません。
的○さんがメインで走行テストを行っていた時代です。
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