『歳をとるにつれ、物覚えがだんだんと悪くなってくる。
そうなる前に、少しずつ 今まで歩んできた道を振り返り
日記代わりに、書き留めておこうと思う・・・・・とりあえず回想録-2』
2012年の 「MotoGP」 レースもいよいよ今週末からスタートする。
恒例となったカタール「ロサイル・サーキット」の ナイトレースから開幕し 全18戦が行われる
その「MotoGPレース」に2009年5月まで 川崎重工で携わっていた。
以前は「WGP」と呼ばれ 純粋にレースに勝つためだけに作られたマシン 選ばれたライダーによる
2輪レースの最高峰・・・4輪のレースで言えばF1に相当する。
エンジンは排気量500cc (2サイクル)が「GP500」としてクラス最高だったが、2002年にレギュレーションが改正され、4サイクルエンジン排気量990ccで参戦できるようになり、名称も「WGP」から「MotoGP」と呼ばれるようになった。
時の流れから一般市販車も排ガス規制が厳しくなり、2サイクルから4サイクルエンジンに変わりつつあった。
2003年の開幕戦は国内4メーカーを含む海外メーカー(ドゥカティ・アプリリア)のほとんどが4サイクルエンジン990ccでスタートした。 と言っても「カワサキ」は1983年に、「WGP」から撤退していたため、実に20年ぶりの
復帰・参戦になる。
しかし、4サイクル大型市販車の生産が主流のカワサキにとって、ひとつのチャンスでもあった。
<2002年10月 社内でのmotoGP参戦出陣式>
20年ぶりの「GP」復帰を記念して、社内で出陣式が行われた。
本来であれば社内のグランドで、全従業員を前にして行う予定であったが、雨のため急遽室内で行った。
マシン名も以前の「KR」から一新「ZX-RR」と命名。 ユニフォームも「コシノ・ジュンコ」プロデゥース・・・
と力の入れようであった。
記念すべき復帰第1戦は、第13戦パシフィックGP「モテギ」で、ライダーは「柳川 明」で参戦した。
しかし結果はマシントラブルで 転倒リタイア おまけにライダーは負傷・・・
これから先を暗示するような結果になってしまった。
翌2003年はベテラン「ギャリー・マッコイ」新人「アンドリュー・ピット」のレギュラーライダーと開発ライダー
「柳川 明」・・・と言う体制でフル参戦、完全復帰した。
しかし、20年のブランクは予想以上であった。 走っても走っても縮まらない他社とのタイム。
結果は散々なもので、予選・レース結果とも悲惨なものだった。
2004年からは開発ピッチを上げるため、国内ではエンジン開発に専念し、車体開発はヨーロッパの
フレームビルダーと共同開発を行った。
ライダーも日本人ライダー「中野真矢」を起用し、マシンに対する評価もダイレクトに反映できるようにした。
結果、その年のパシフックGP「モテギ」では3位入賞と、初表彰台を日本でゲットした。
しかし、フルチューンされた4サイクル990ccのパワーは半端ではない。
コーナーではリアタイヤが簡単にスリップし、グリップすると今度はウイリーと、ライダーのスロットル操作が
非常にシビアなマシンだった。
この時期から乗りやすさ、扱いやすい出力特性にするため、エンジンの点火間隔の検討、キャブからFI化、
FIセッティング、点火時期、トラクションコントロール等の、電子制御が主なチューニング要素になってきた。
また直線の長いサーキット(と言っても1km強ほど)では345km/hオーバーとタイヤにとっても負担が大きいため、主催者側も安全性を考慮し、2007年から排気量を990ccから800ccにサイズダウンした。
このようにレースに勝つことが目的の「MotoGPマシン」は、当然レギュレーションいっぱいまで軽量するため
素材は、カーボン、マグネ、チタンと高価な素材をふんだんに使用している。
エンジンの耐久性も、1レース持てばいいという考えで、毎レース後、各サーキットから川崎重工明石工場に
返送され、部内(モトGP部)の専属メカニックの手によりオーバーホール・メンテ・再組立て、そして性能確認後、再度レース開催国へ発送する、と言うスタンスをとっていた。
当然ながら、開発コストは年間数十億を費やしていた。
今となってはこの開発コストもあだになり、2008年アメリカのリーマンショックに端を発した世界同時不況のあおりを受け、2008年いっぱいで「カワサキ」は「MotoGP」レース活動を休止することになった。
すでに2009年型の試作マシンは出来ており、年明けの海外テストに向けて準備を進めていただけに
ショックだった。
しかし、20年前のように、簡単に撤退することはできない。
今の「MotoGP」レースは、完全に主催者側(DORNA)によりプロモーション化され、2010年までレース参戦する契約になっていたため、撤退するにも数億円の違約金を支払わなければならなかった。
最終的に主催者側との協議の結果、ライダー1名のみの参戦とした。
レース活動の休止発表と同時に解約した現地(オランダ)のチームメンバー・メカニックを再契約し、マシンを託し1年間参戦することで決着がついた。
そのためマシン・チーム名にも「カワサキ」のブランド名は一切なく、レーシングカラーのライムグリーンも使われることなく、あくまでもプライベートチーム(ハヤテレーシングチーム)として参戦した。
当然、開発費の予算はなく、モトGP部も最小限のスタッフを残し、あくまでも補給パーツの製作予算のみでレースサポートをしていた。
それでも開幕当初は3位入賞と明るい話題もあったが、所詮開発がストップしたマシン、毎戦レベルアップしてくる他メーカーの後塵を浴びることになる・・・
そして、2009年最終戦スペイン「バレンシア」をもって、サーキットから完全に姿を消すことになる。
ようやく 先が見え始めるレベルまでになってきたマシンであったが・・・
「GPレース撤退」 私にとっては1983年の「KR」時代と2度目だ。
今後、景気の動向で再び「カワサキ」が「motoGPレース」に参戦する機会が訪れても
私が参加することはない。
そうなる前に、少しずつ 今まで歩んできた道を振り返り
日記代わりに、書き留めておこうと思う・・・・・とりあえず回想録-2』
2012年の 「MotoGP」 レースもいよいよ今週末からスタートする。
恒例となったカタール「ロサイル・サーキット」の ナイトレースから開幕し 全18戦が行われる
その「MotoGPレース」に2009年5月まで 川崎重工で携わっていた。
以前は「WGP」と呼ばれ 純粋にレースに勝つためだけに作られたマシン 選ばれたライダーによる
2輪レースの最高峰・・・4輪のレースで言えばF1に相当する。
エンジンは排気量500cc (2サイクル)が「GP500」としてクラス最高だったが、2002年にレギュレーションが改正され、4サイクルエンジン排気量990ccで参戦できるようになり、名称も「WGP」から「MotoGP」と呼ばれるようになった。
時の流れから一般市販車も排ガス規制が厳しくなり、2サイクルから4サイクルエンジンに変わりつつあった。
2003年の開幕戦は国内4メーカーを含む海外メーカー(ドゥカティ・アプリリア)のほとんどが4サイクルエンジン990ccでスタートした。 と言っても「カワサキ」は1983年に、「WGP」から撤退していたため、実に20年ぶりの
復帰・参戦になる。
しかし、4サイクル大型市販車の生産が主流のカワサキにとって、ひとつのチャンスでもあった。
<2002年10月 社内でのmotoGP参戦出陣式>
20年ぶりの「GP」復帰を記念して、社内で出陣式が行われた。
本来であれば社内のグランドで、全従業員を前にして行う予定であったが、雨のため急遽室内で行った。
マシン名も以前の「KR」から一新「ZX-RR」と命名。 ユニフォームも「コシノ・ジュンコ」プロデゥース・・・
と力の入れようであった。
記念すべき復帰第1戦は、第13戦パシフィックGP「モテギ」で、ライダーは「柳川 明」で参戦した。
しかし結果はマシントラブルで 転倒リタイア おまけにライダーは負傷・・・
これから先を暗示するような結果になってしまった。
翌2003年はベテラン「ギャリー・マッコイ」新人「アンドリュー・ピット」のレギュラーライダーと開発ライダー
「柳川 明」・・・と言う体制でフル参戦、完全復帰した。
しかし、20年のブランクは予想以上であった。 走っても走っても縮まらない他社とのタイム。
結果は散々なもので、予選・レース結果とも悲惨なものだった。
2004年からは開発ピッチを上げるため、国内ではエンジン開発に専念し、車体開発はヨーロッパの
フレームビルダーと共同開発を行った。
ライダーも日本人ライダー「中野真矢」を起用し、マシンに対する評価もダイレクトに反映できるようにした。
結果、その年のパシフックGP「モテギ」では3位入賞と、初表彰台を日本でゲットした。
しかし、フルチューンされた4サイクル990ccのパワーは半端ではない。
コーナーではリアタイヤが簡単にスリップし、グリップすると今度はウイリーと、ライダーのスロットル操作が
非常にシビアなマシンだった。
この時期から乗りやすさ、扱いやすい出力特性にするため、エンジンの点火間隔の検討、キャブからFI化、
FIセッティング、点火時期、トラクションコントロール等の、電子制御が主なチューニング要素になってきた。
また直線の長いサーキット(と言っても1km強ほど)では345km/hオーバーとタイヤにとっても負担が大きいため、主催者側も安全性を考慮し、2007年から排気量を990ccから800ccにサイズダウンした。
このようにレースに勝つことが目的の「MotoGPマシン」は、当然レギュレーションいっぱいまで軽量するため
素材は、カーボン、マグネ、チタンと高価な素材をふんだんに使用している。
エンジンの耐久性も、1レース持てばいいという考えで、毎レース後、各サーキットから川崎重工明石工場に
返送され、部内(モトGP部)の専属メカニックの手によりオーバーホール・メンテ・再組立て、そして性能確認後、再度レース開催国へ発送する、と言うスタンスをとっていた。
当然ながら、開発コストは年間数十億を費やしていた。
今となってはこの開発コストもあだになり、2008年アメリカのリーマンショックに端を発した世界同時不況のあおりを受け、2008年いっぱいで「カワサキ」は「MotoGP」レース活動を休止することになった。
すでに2009年型の試作マシンは出来ており、年明けの海外テストに向けて準備を進めていただけに
ショックだった。
しかし、20年前のように、簡単に撤退することはできない。
今の「MotoGP」レースは、完全に主催者側(DORNA)によりプロモーション化され、2010年までレース参戦する契約になっていたため、撤退するにも数億円の違約金を支払わなければならなかった。
最終的に主催者側との協議の結果、ライダー1名のみの参戦とした。
レース活動の休止発表と同時に解約した現地(オランダ)のチームメンバー・メカニックを再契約し、マシンを託し1年間参戦することで決着がついた。
そのためマシン・チーム名にも「カワサキ」のブランド名は一切なく、レーシングカラーのライムグリーンも使われることなく、あくまでもプライベートチーム(ハヤテレーシングチーム)として参戦した。
当然、開発費の予算はなく、モトGP部も最小限のスタッフを残し、あくまでも補給パーツの製作予算のみでレースサポートをしていた。
それでも開幕当初は3位入賞と明るい話題もあったが、所詮開発がストップしたマシン、毎戦レベルアップしてくる他メーカーの後塵を浴びることになる・・・
そして、2009年最終戦スペイン「バレンシア」をもって、サーキットから完全に姿を消すことになる。
ようやく 先が見え始めるレベルまでになってきたマシンであったが・・・
「GPレース撤退」 私にとっては1983年の「KR」時代と2度目だ。
今後、景気の動向で再び「カワサキ」が「motoGPレース」に参戦する機会が訪れても
私が参加することはない。
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