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 余命意識する人の最期支える「人生会議」のリアル

2021-07-22 15:30:00 | 日記

下記は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

「まてまてまて、俺の人生ここで終わり?大事なこと何も伝えてなかったわ」
今から約2年半前の2018年11月、厚生労働省は、自らが望む人生の最終段階の医療・ケアについて話し合う、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)を「人生会議」という愛称に決めた。
厚生労働省で2018年11月30日に開かれたACP愛称発表会で「人生会議」が発表された(撮影:牧潤二)
厚労省が普及啓発のために、タレントの小藪千豊さんを起用して作成したPRポスターが「家族を傷つける」と患者団体などから批判を受け、厚労省が自治体への発送を中止したことを覚えている方もいるだろう。結果的にはこれが世の中にACPの認知度を高めることにもつながったといえる。
ACPは患者、その家族と何度も話し合い文書にする
埼玉医科大学病院(埼玉県入間郡毛呂山町、篠塚望病院長、970床)の救急科・緩和医療科の岩瀬哲教授は、人生会議という言葉が出てくる約20年前、東京大学病院(東京都文京区)に勤務し、緩和ケア診療部副部長として緩和ケアチームを率いながらACPに取り組んでいた。2002年4月に診療報酬で一般病床の入院患者に対する緩和ケアチームによる活動を評価する「緩和ケア診療加算」が新設され、東大病院に緩和ケアチームが発足したタイミングだった。
緩和ケアチームとは、緩和ケアを提供するために、身体症状の緩和を担当する医師のほか、心のつらさを和らげる医師、看護を担当する看護師(認定看護師)、薬剤師、栄養士、理学療法士、ソーシャルワーカーなどが、主治医、病棟看護師と協力して働く専門のチームのことを指す。医療職が一丸となって、患者のケアをする。
ペイシェント・ジャーニー(Patient Journey=病気に罹ってから始まる病気を抱えた人としての旅)という言葉がある。局所的な症状緩和にとどまらず、患者の生き方に寄り添って、継続的にケアを続けるのが緩和ケアチームで、その手段としてACPがある。ACPとは、今後の治療・療養について患者とその家族、医療従事者があらかじめ話し合い、それを何度も繰り返す一連のプロセスだ。
この国にACPの考え方がほとんど定着していなかった当時、岩瀬氏が頼りにしたのが、全米総合がんセンターネットワーク(NCCN=National Comprehensive Cancer Network)のエンド・オブ・ライフ(終末期・寿命の終わり)におけるACPのガイドラインだった。
このガイドラインは、治療中の患者に対して予想される余命を、月・週単位、さらには週・日単位に応じて、医療チームが介入(関係やかかわりを持つ)する手順と、評価(チェック)する方法を明示したものだ。
患者の価値観に合った適切な治療法を提示したり、最期を過ごす場所はどこがいいのかについて、患者のほかに家族に希望を聞いたりする。また、将来に対する恐れや不安を明らかにするだけでなく、心理的なサポートをすることなどが手順として挙げられている。
埼玉医科大学病院救急科・緩和医療科の岩瀬哲教授
一方で、介入するだけではなくて、「患者や家族の心配が軽減できているかどうか」「患者の人生の意義を再定義できているかどうか」「最善の生活の質(QOL=Quality Of Life)が提供されているか」などをチェックすることも必要だとしている。
ACPの特徴は、この手順とチェックを一度で終わらせず、何度も繰り返していくことだ。
NCCNのACPガイドラインに大きく遅れることになったが、厚労省もACPを「人生会議」という愛称に決め、人生会議を進めるための具体的なプロセスを示した。それが、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」だ。
その人生会議のガイドラインでは、まず、本人の意思が確認できる場合と、確認できない場合とを分けている。本人の意思が確認できないならば、家族などが本人の意思を推定するが、それができない場合には医療・ケアチームが本人にとって最善の方針を取ることを基本とするとしている。
人生会議のプロセスの中では、時間の経過、心身の状態の変化、医学的評価の変更などに応じて本人の意思が変化しうるため、医療・ケアチームが適切な情報提供をすることを前提にして、家族などを含めて話し合いを繰り返すよう求めている。さらに、話し合った内容はその都度、文書にまとめておくことを推奨している。
ACPは、リビングウイル(living will=人生の最終段階・終末期を迎えたときの医療の選択について事前に意思表示しておくこと)と勘違いされるが、岩瀬氏は、「ACPは、プランニングですから、計画ですし、プロセスなのです」と強調する。またACPは終末期のがん患者のみが対象となる印象が強いが、埼玉医科大病院では現状、がん・非がんの割合が4対6で、非がんの患者が増えている。
現場で実践されているACP
ACPの具体的なケースを紹介しよう。
金田幸子さん(70代、仮名)が、皮膚がんの一種である悪性黒色腫(皮膚の色素のメラニンをつくる細胞やほくろの細胞ががん化したものでメラノーマとも呼ばれる)を患っていた。この患者は2016年8月に埼玉医科大病院皮膚科で全摘手術。転移を心配して脇の下のリンパ節を取り除いた3年後の2019年4月の検査では再発・転移はなかった。ところが、同年8月にCT(コンピューター断層診断装置)で肝転移がわかった。
幸子さんは、同院皮膚科にすぐに入院し、抗がん剤を用いた化学療法を開始したが、呼吸困難の状態が悪化したことから、岩瀬氏が率いる緩和医療科の緩和ケアチームが介入し、ACPを開始した。
ACPのプロセスの中で、▽医学的適応▽患者の意向▽QOL▽周囲の状況―の4つのポイントが繰り返し話し合われた。「医学的適応」では、治療の目的は何か、治療が成功する確率などがテーマになった。「患者の意向」では、幸子さんに判断能力はあるか、幸子さんに治療の利益とリスクが説明され、それらを理解しているか、といったことが問われた。
「QOL」では、治療をした場合としなかった場合に、通常の生活に復帰できる見込みはどの程度かなどが課題になった。「周囲の状況」では、治療の決定に影響する家族の要因はあるか、幸子さんに経済的要因があるかなどのほかに、思想的・宗教的要因があるかなどが話し合われた。
幸子さんはその後、入退院を繰り返し、化学療法を再開したり、放射線治療もスタートしたりした。その間にも、幸子さんの意向などが何度も確認され、2020年5月には放射線治療を中断、幸子さんが在宅医療を希望したので、自宅での療養に移行し、訪問看護や訪問診療に切り替えた。
幸子さんはその1カ月後、家族に見守られながら亡くなった。家族からは「(患者と)一緒に過ごす時間を持てました。家に帰る決断をしてよかった」との声が届いた。
いつ亡くなってしまうかわからないからこそ在宅
岩瀬氏は主治医の「患者さんがいつ亡くなってしまうかわからないから入院が必要だ」という言葉に違和感を覚えるという。岩瀬氏は、「いつ亡くなってしまうかわからないから在宅なのだ」と繰り返す。
また、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で入院患者への面会制限があるため、いったん入院すると患者家族が面会に訪れにくくなる。そのために、残された時間が短い患者ほど、在宅で有意義な時間を過ごすことが大事になってきているというのだ。
岩瀬氏は現在、高齢患者の退院後の日常生活の中で生じる基本的な動作を意味するADL(Activities of Daily Living)を定期的にモニタリングして、ADLが低下した際、地域で適切な介護を受けられるよう介護サービスに円滑につなげる取り組みを推進している。退院した患者のADLの状態を、介護サービスのスタッフなどを通じてチェックするよう努めている。
岩瀬氏には患者が救急搬送されるのは、医療提供者にとって“敗北”との持論がある。「退院後に緊急入院するのは、患者さんが苦しんだ状態で(病院に)帰ってくるので、患者さんの状態管理の面では決していいとはいえません」という。
消防庁がまとめた「救急・救助の現況」調査によると、2019年の年齢区分別の搬送人員の構成比は、子どもや成人が前年比ほぼ変わらずだったのに対して、高齢者は60.0%に達している。20年前の1999年に、高齢者の比率が4割弱だっただけに、急増していることがわかる。そこで、埼玉医科大病院では、救急科と緩和医療科を一つにして、高齢者の救急搬送を減らす取り組みをしている。
同調査の救急搬送を事故種別にみると、高齢者の救急搬送の約8割は、転倒がきっかけだ。この状況は同大病院でも同じで、脱水などを起こして転倒、動けなくなって救急搬送されるケースが増えている。
そういった高齢者の大半は、いわゆるロコモティブシンドローム(運動器の障害のために移動機能の低下をきたした状態)やフレイル(健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態)で、治療しないと命に関わる急性期の病気や外傷があるわけではない。急性期疾患ではないので、入院が必要ない「軽症」と判断して自宅へ帰すと、また転倒したり、急激に体調を崩したりして救急再搬送されるという悪循環に陥ってしまうのだ。
退院後の患者の状態をどうすれば適切に管理できるか
同大病院に2017年に救急再搬送された65歳以上の高齢者の初回搬送時の転帰(病気が経過して他の状態になること)を調べたところ、帰宅が61.6%、入院が36.8%で、帰宅患者の再搬送率が高い結果となった。そこで、同大病院では、救急搬送されてきた高齢者の救急の「入口」を救急科が、救急の「出口」を緩和医療科が、それぞれ担当する体制を構築し、高齢者の救急搬送を減らそうとしている。
また、臓器別の診療科で治療が難しいロコモやフレイルの患者は、救急科・緩和医療科の病床に入院してもらい、痛みの軽減や症状緩和などの治療をするとともに、退院後には地域の介護サービスにつなげる支援を継続している。一方で、高齢者のADLのモニタリングを同時並行で進めている。
迫り来る超高齢社会を乗り切るカギは、退院後の患者の状態をどのようにすれば適切に管理できるかに知恵を絞ることにありそうだ。それは、自ら望む医療・ケアを優先しようというACPのプロセスにも大きく影響する。
君塚 靖 : えむでぶ倶楽部ニュース編集部 記者


グルコサミンやコンドロイチンは関節の痛みに効くのか?

2021-07-22 13:30:00 | 日記

下記は日刊ゲンダイヘルスケアオンラインからの借用(コピー)です

グルコサミンやコンドロイチンに関して、変形性膝関節症・股関節症などの痛みの緩和に世界的に用いられているといった研究報告は多数あります。たとえば2000年に海外の有名な医学雑誌「JAMA」に掲載されたボストン大学の研究では「グルコサミンおよびコンドロイチンが変形性関節症の症状を緩和する可能性がある」と結論づけています。01年には雑誌「Lancet」に掲載されたベルギーのリエージュ大学、米ジョージタウン大学、英ロンドン大学などの研究においても、「グルコサミン硫酸を1日当たり1500ミリグラム内服したところ、変形性膝関節症の改善を認めた」としています。

 一方で、効果はない、まだまだ医学的根拠が不足している、と結論づけている報告も少なくありません。

 これまでの報告を総合的に考えると、現時点でのグルコサミンやコンドロイチンの膝関節痛・股関節痛に対する効果およびエビデンスはあまり強くなく、限定的と考えられます。それよりも、エビデンスがはっきりしている大腿四頭筋(太もも前面の筋肉)訓練などの運動療法や、肥満がある方であれば減量などを優先すべきといえるでしょう。

 ただ、補助としてグルコサミンやコンドロイチンのサプリメントを使用したいのであれば、「効果を期待できると考えられる量がしっかり配合されているか」を確認しましょう。たとえば、グルコサミン塩酸なら1日当たり1500~2000ミリグラム、N―アセチルグルコサミンなら500~1000ミリグラム、コンドロイチン硫酸なら1000~1200ミリグラム程度が効果を期待できる量(有効量)と考えられています。せっかくであれば、ちゃんとしたものを飲みたいですよね。一見同じように見えるサプリメントでも、「配合量を確認するとまるで別物」ということも多くありますので、注意しましょう。

▽河合隆志(かわい・たかし)1975年、愛知県出身。医学博士。日本整形外科学会専門医、日本抗加齢医学会専門医。東京医科大学医学部卒業。東京医科歯科大学大学院博士課程修了。愛知医科大学学際的痛みセンター勤務後、米国のペインマネジメント&アンチエイジングセンターほか研修。2016年「フェリシティークリニック名古屋」開院。原因不明の痛み、体調不良に対し、対処法ではなく痛みを根本的に治す治療を試みている。著書に「医者が考案した腰痛がラクになる『酸素たっぷり呼吸法』」など。


英で研究報告 グルコサミンが心臓病を予防する可能性あり

 ドラッグストアや通販サイトなどで手軽に入手できるグルコサミンは、膝の痛みや関節痛に効果があるといわれます。しかし、グルコサミンが健康状態に良い影響を与えるかについて、これまでの研究報告は明確な答えを出していません。

 そんな中、グルコサミンの摂取と心臓病や心臓病による死亡リスクの関連を検討した研究論文が、英国医師会誌電子版に2019年5月14日付で掲載されました。

 この研究では、英国のバイオバンク(生体試料を研究目的で保管する機関)に登録されている約50万人の英国人データから、心臓病を発症しておらず、グルコサミンの使用状況が明確であった46万6039人が対象となりました。なお、研究結果に影響を与えうる年齢、性別、体格指数(BMI)、人種、生活習慣、薬や他のサプリメント使用などの因子について、統計的に補正を行って解析されました。

 中央値で7年にわたる追跡調査の結果、グルコサミンを摂取していた人は、摂取していない人に比べて、心臓病(冠動脈疾患)の発症リスクが18%、心臓病による死亡リスクが22%、脳卒中も含めた心血管疾患全体の発症リスクが15%、統計学的にも有意に低下しました。

 グルコサミンには抗炎症作用があると考えられており、動物実験では動脈硬化を予防する可能性が示されているそうです。こうした働きによってグルコサミンが心臓病を予防したと考えることもできますが、グルコサミンを日常的に摂取している人は、摂取していない人に比べて健康に関心が高く、もともと心臓病の発症リスクが低い人たちかもしれません。グルコサミンの有効性については、さらなる研究報告の蓄積を待ちたいところです。

青島周一
勤務薬剤師/「薬剤師のジャーナルクラブ」共同主宰
2004年城西大学薬学部卒。


“昭和天皇の喪中”、“礼宮は学生で留学中”…「異例中の異例」だった秋篠宮さまと紀子さまの“ご婚約発表”

2021-07-22 11:00:00 | 日記

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

『日本の血脈』より #1
「紀子さまスマイル」とも呼ばれるはにかんだ笑顔に、語尾には「ございます」をつけるやさしい言葉遣い。「3LDKのプリンセス」として国民の熱烈な歓迎を受け、秋篠宮妃となった紀子さまは、それまでいったいどのような環境で生まれ育ってきたのだろう。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。秋篠宮紀子さまの“ルーツ”について紹介する。
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
◆◆◆
異例づくしの婚約発表
 その女性は、ある日突然私たちの目の前に現れた。
 昭和が終わり平成の御代を迎えた、まさにその年のことである。
 天皇家のご次男の、思いがけないご婚約発表。その、お相手として紹介されたのが学習院大学教授の娘であり、同大学院に通う川嶋紀子だった。
 世間は大いに驚き、人々の眼はテレビや新聞、週刊誌のグラビアに釘付けになった。
 皇室担当記者が語る。
「考えてみれば異例中の異例の出来事でした。宮内庁記者たちは、まったく想像もしていなかったでしょう。まず第一に昭和天皇が1月に亡くなられた、その年の8月のことで、まだ喪中でしたからね。しかも、礼宮は学生という御身分、当時はイギリスに留学中でした。年齢もまだ23歳とお若かった。兄宮に先駆けるというのも、長幼の序を重んじる皇室において、考えられないことだった」
「紀子さんフィーバー」の始まり
 はじめて婚約内定者としてマスコミの取材を受けた時、紀子は水玉のワンピースを着て、父、川嶋辰彦学習院大学教授の隣で、ただ微笑んでいた。世間はその清楚で可憐な姿に打たれ、翌日には水玉の洋服が飛ぶように売れたといわれる。「紀子さんフィーバー」の始まりであった。
 川嶋家が学習院のキャンパス内にある、団地づくりの教職員住宅に住んでいたことも大きな話題となった。庶民的な生活ぶりは、意外性とともに好意的に受け止められ、「3LDKのプリンセス」とマスコミは呼んだものだった。
「川嶋家にはテレビがない」といった私生活も大きく紹介され、川嶋教授の、どことなく浮世離れした雰囲気や喋り方に至るまで、ありとあらゆる話が俎上にのぼった。テレビは朝から晩まで、「紀子さん一家」を連日取り上げ、それはまさに狂騒、といっていい騒ぎであった。
 大学院に通う紀子は、当時、まだ22歳。それまで、カメラの放列の前に立つことなどなく、そう衆目に晒される経験もなかったはずだ。しかし、紀子は少しも動じず、いつもマスコミに微笑んで応じた。「朝見の儀」に臨まれる秋篠宮ご夫妻 宮内庁提供
 その後、礼宮と並んで公式の記者会見に臨む日を迎えたが、当日の紀子は黒に近い、濃紺のワンピースを着ていた。それは天皇が亡くなり、まだ喪中であることを意識しての選択であったのだろう。通常ならば美智子妃が白色、雅子妃がレモンイエローのワンピースで臨んだように、若い女性の婚約という寿ぎに相応しい、明るい色目の服を選ぶはずである。一見、喪服にも見える姿に接し、これは皇室にとって、たいへん大きな節目になるのではないかと改めて感じたことを今、思い出す。
増していく存在感
 礼宮と並んでの婚約記者発表は幸福感に包まれたものだった。たどたどしく言葉につかえながらも、語尾に「ございます」とつけて、「紀子さまスマイル」を見せる。ときどき、助けを求めるように隣にいる礼宮のことを見上げる。「お子さんは」と聞かれてはにかむ。その愛くるしい仕草の全てに、世間は一層熱狂した。嫁ぐことの喜びにあふれた若い女性の姿は、人々に幸福感を分け与えた。2020年、紀子さまお誕生日に際してのご近影 宮内庁提供
 振りかえれば、あれはまさにバブル景気の最中、一億総中流と言われた豊かさの中に、日本中が沸騰していた時代であった。だが、あれから時代は大きく変わり、私たちを取り巻く在り様は、当時とはまるで異なっている。皇室にもこの間、さまざまな変化があった。紀子妃に続いて皇太子妃も誕生した。だが、やがてご病気になられた。現在も、ご療養中であり、完治には至っておられない。
 その一方、紀子妃の存在感は増していった。
「確かにここに川嶋家はありました」
 川嶋家の屋敷は、紀ノ川近くの元町にあったという。今回、調べて訪ねてみたが、跡地はアパートや自動車の整備工場になっており、確かに何も所縁と思えるものは残っていなかった。だが、地元の古い住民に尋ねたところ、「確かにここに川嶋家はありました。塀の向こうには米倉がいくつも見えましたよ」と返ってきた。
 紀子妃の曽祖父は、この川嶋家に明治の初期、婿養子として迎えられたという。当主の川嶋庄右衛門には女児しかおらず、その長女の志まと結婚したのが東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業したばかりの松浦力松だった。松浦力松は川嶋家に入り、名を川嶋庄一郎と改める。この庄一郎が紀子妃の曾祖父にあたる。
 では、この川嶋庄一郎こと松浦力松とは、どのような人物であったのか。
 彼は海に面して開けた和歌山市の出身ではなく、もともとは高野山に近い内陸の有田郡、当時は安諦村と言われた山深い村里に生まれ育った。安諦村へは今でも和歌山市内から電車や自動車を使って2時間ほどかかる。茅葺屋根の家が点在する静かな山里で、紀子妃の曾祖父が生まれた茅葺の家もまだ残っていた。
「このあたりは山が深くて、平地が少ないやろ。昔は林業と、箒などの原料になるシュロ、それがこの村の主要な作物やった」
 畑で農作業をしていた人が教えてくれた。
 この村に川嶋庄一郎こと松浦力松が生まれたのは、明治3年のことだった。貧しい農家の三男坊で5歳の時に父が亡くなり、生活はさらに困窮したという。
 だが、時代は明治の変革期、廃藩置県や地租改正が行われる一方で学制もまた整えられていった。義務教育制度が促され、この小さな村にも明治9年に小学校が出来た。ちょうど力松は6歳だった。それが、山村の貧しい農家に生まれた力松の生涯を大きく変える。力松の誕生がもう少し早ければ、彼がこの村を出て立身出世を果たすこともなかったであろう。
学習院大学を通じた奇縁
 当時は教師などいるわけもなく、村の住職がにわか教員となって、子どもたちの教育にあたったという。力松の聡明さは抜きんでていたようで『安諦村誌』(大正3年)には「天資英明」と讃えられている。力松は、この後、学業に励むことで人生を切り開いていく。
 村の小学校を卒業すると、詳しい経緯は不明だが和歌山尋常師範学校に進んだ。当時の師範学校は授業料が無料であった。そのため力松でも進学することができたのだろう。卒業後は同学校の訓導(現在の教諭)となる。だが、力松はさらに明治24年、東京高等師範学校に入学する。卒業後に見込まれて川嶋庄右衛門の娘、志まと結婚し婿養子となるのが明治27年のことだ。
 以降は、教育者として京都府尋常師範学校を振り出しに、富山や滋賀で教鞭を取った。明治34年には学習院教授となり、初等学科長も兼務している。後に孫の辰彦も学習院大学教授となり、また曾孫の紀子妃がこの学校に学ぶことになるのは奇縁であろう。
学問によって道を切り開いた教育者の家系
 庄一郎は学習院を退官すると、再び佐賀県立師範学校長など日本各地の教育機関に赴任し、最終的には大正9年、故郷、和歌山市の視学(現在の教育長にあたる)となった。生まれ故郷において教育行政のトップに立ち、その後は主に和歌山市内で暮らして、昭和22年に没している。
 死後に、故人の強い希望として和歌山市内にある川嶋家の菩提寺の他に、安諦村にある生家の裏山にも墓を建てた。
 庄一郎は明治の時代に生まれ、まさに学問によって貧しさの中から抜け出し、立身出世を果たした人物だった。養子にも行ったが、終生、自分の生まれ育った、貧しい山里を忘れることはなかったのだろう。貧農の三男として生まれ、平等に教育を受けるという新時代の学制に接し、学問によって自分の道を切り開いた。教育こそが全ての根本という思いが強かったのだろう。生まれ故郷の安諦高等小学校には、たびたび寄付をしており、昭和11年に来校した際には土産として児童全員に鉛筆を贈っている。
 今でも安諦村には力松(庄一郎)の兄の末裔にあたる方やご親戚が、農業をしながら暮らしている。
紀子さまの祖父は学究肌の人だった
 貧しさの中から身を起こし、教育者として一生を終えた川嶋庄一郎の長男として明治30年に生まれたのが川嶋孝彦である。紀子妃にとっては父方の祖父にあたる。
 孝彦は東京帝国大学法学部を大正12年に卒業、内務省に入省した。
 その後は、内閣官房総務課などを経て、内閣統計局長を務めている。在任期間は8年に及び、これは歴代局長の中でも大変に長い記録である。
「官吏と言うよりは学究肌の人だった」と言われるが、確かに彼は一官僚として統計学を勉強する中で、次第に深くこれに傾倒し、その中に人生の喜びまで見出していったようである。彼は随筆の中でこう語っている。
「私は統計の仕事にたづさはる様になって、非常に仕合せだと思って居る。統計の仕事には余徳がある。(中略)統計家は高邁な識見と明敏果断な判断力によって核心をつかまなくてはならない。一種の飛躍をやらなければならない。……だから、統計の仕事を一心不乱に努めて行くと知らず知らずに自分の能力が之に適応する様になる。細心にして大胆、・大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。・即ち、西郷南洲の様な性格が、仕事をやりながら、ひとりで養はれて行く。何と大きな統計の余徳であるまいか」(島村史郎「川島孝彦と統計」『統計』)
 内務省のエリートであったが、その業務の中で接した統計学に、自分の生きがいを見出していった孝彦の姿が浮かび上がってくる。
無視され続けた孝彦の意見
 だが、同時に忘れてならないことは、孝彦が統計局長として従事していた期間は、まさに日本が軍国化を強め、大東亜共栄圏の確立のために統制経済を進めていく時代であったという点である。盧溝橋事件が勃発し、企画院が創設されたのが昭和12年。翌年には国家総動員法が制定された。それらを策定するために求められたものこそが、正確な統計データだったのだ。
 孝彦は世界の統計制度をいち早く研究していた。そのため日本の統計制度の欠点と問題点に誰よりも早く気付き、大東亜共栄圏を確立するためにも、あるいは高度国防のためにも、日本の統計制度を見直し、改革を至急進めなければ大変なことになると孝彦は周囲に説いた。
 危機感を募らせた孝彦は、近衛首相や東条首相ら内閣上層部に、たびたび意見書を提出している。だが、軍部や政界の上層部はいかに孝彦が工夫して説明をしても、統計学を重視しようとはしなかった。孝彦の意見は無視され続けた。統計を無視した結果が、その後、太平洋の戦場で、多くの餓死者を出した原因のひとつでもあろう。
 昭和20年、終戦の日を迎えてから、内閣統計局もGHQの支配下に置かれた。そんな戦後の混乱期においても、食糧問題の解決などで真っ先に必要とされたのは、正確な人口調査や、それに基づく食糧の試算、すなわち統計であった。
 この時、孝彦は戦時下に提出した「統計制度改革案」を内閣書記官長に改めて提出している。生前の孝彦を知る人が語る。
「しかし、戦争中と同様、それが受け入れられることはなかったそうです。アメリカの統計学は分権主義を取っており、一方、孝彦が主張したのはソ連型の集権主義といわれるものだった。GHQは当然、これを受け入れようとはしなかったのです」
 GHQだけでなく大蔵省や厚生省、農林省もこぞって孝彦の改革案に反対した。孝彦を知る人が続ける。
「これに失望した孝彦は辞表を書き、昭和22年1月、内閣統計局長を辞してしまいました。妻の紀子さんには何も相談せず、辞表を提出したといいます」
 統計学に対する周囲の無理解に、強い怒りを覚えたのだろう。エリート官僚の立場を自ら捨てた。和歌山に広大な田畑を持っていたが、折しも農地改革によってその資産も失ってしまい、厳しい生活を余儀なくされた。その後は参議院常任委員会専門委員、国会図書館専門調査員などを歴任し、孝彦は昭和33年、61歳で没する。なお今日、孝彦の統計改革案は再評価される方向にあるという。
園遊会に参加される秋篠宮紀子さま 
 公務には全て積極的で、宮中行事などでは皇太子妃に代わって美智子妃の隣におられることが多い。何よりも大きな出来事は39歳というご年齢で、悠仁親王をお産みになられたことだろう。喪中での婚約が許されたのも、学生の身分でのご婚約が許されたのも、弟宮であるからとかつては言われた。だが、その「弟宮の妃」として迎えられた紀子妃の現在のお立場は、単なる一宮家のお妃というものではなくなっている。「3LDKのプリンセス」「平成のシンデレラストーリー」と言われた紀子妃。それにしても、なぜ、紀子妃だけが大きな環境の変化を乗り越えて皇室に適応され、足場を築いていくことがおできになったのだろうか。
ルーツは紀州
 紀子、という名前は字面を見る限り、そうめずらしいものではない。だが、これを「のりこ」ではなく「きこ」と読ませる例は、そう多くはないであろう。名前の由来はどこにあるのか。川嶋家を知る人に尋ねた。
「二つの理由からだと聞いています。一つには川嶋家のルーツが和歌山にあり、その旧国名である『紀州』から取られたと。また、もう一つには辰彦さんのお母様の名前が紀子さんとおっしゃる。辰彦さんも奥様も、このお母さまのことを大変敬愛していた。そこで『紀子』とお付けになったようです」
 川嶋家の由緒については、これまで「和歌山市内に広大な土地を有した庄屋」あるいは、「有田屋という屋号の海運業」とマスコミに報じられてきた。文献などで、それを確認することはできないが、川嶋家の関係者によると、以下のように伝えられているという。
「川嶋家はもともと有田屋の屋号で蔵米船を持ち、海を中心とした商いをしていたのだそうです。江戸時代の半ば、もしくは後半から和歌山城下に居を構えて海運業で隆盛した。ところがある時、海難に遭って船が沈み、人も亡くなった。それを境に当時の当主が、海の商売から丘へと切り替えて、次第に財産を田畑へと移していったそうです。それで和歌山に農地や山林をたくさん所有するようになった。でも、終戦後の農地解放で全てを失ってしまい、今では、和歌山には先祖の墓の他に、何も残っていないのだそうです」


毎日イライラする人に欠けた「脳内物質」の正体

2021-07-22 08:30:00 | 日記

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です      記事はテキストに変換していますから画像は出ません

なぜか「イライラが止まらない」人に足りていないホルモンとはいったい? 脳科学者の有田秀穂氏による新書『脳科学者が教える「ストレスフリー」な脳の習慣』より一部抜粋・再構成してお届けする。
ダルマの置物が「七転び八起き」できるのは、腹のなかに重しが入っているためです。この重しがしっかりした重量を持っているために、叩かれても小突かれてもすぐにもとの状態に戻ることができるわけです。
もし、ダルマに重しがなかったり軽いものだったりしたらどうでしょうか。コテンと倒れてしまうと、もう起き上がれなくなってしまいます。人間の心の動きもこれに似ています。仕事で失敗をしても、友人とちょっとした行き違いがあっても、すぐに立ち直ることができる人もいれば、ちょっとしたストレスでも落ち込んでしまい、なかなか回復できない人もいます。この違いは、心のなかに重しがどれだけあるかに左右されていると考えることができます。
「ストレスフリーな脳」をつくるホルモン
では、人間にとっての重しに当たるものは、いったい何なのでしょうか。それは、セロトニンという神経伝達物質です。セロトニンは脳内にあるセロトニン神経から分泌される物質で、これが脳内にたっぷり存在していれば、ダルマの重しがしっかりしている状態になります。セロトニンこそが「ストレスフリーな脳」をつくる復元力の源なのです。
ところが、セロトニンの量が減ってしまうと、重しが軽くなってしまいます。そうなると、私たちはストレスに耐える力が弱くなってしまいます。セロトニンは、私たちがストレスを受けても、落ち込んだり、やみくもに対抗したりすることなく、どっしりと落ち着いた気持ちで生きていくために、なくてはならない大切な物質なのです。
たとえば、通勤時間の駅のホームを歩いていると、見知らぬ人の肩がぶつかってきたのに、相手は何もいわずにそのまま去って行ってしまった。そんなときの自分自身の反応が、ときによって変わることはありませんか。
あるときは、ムカッとしてイヤな気分がいつまでも残り、会社に着いても「礼儀知らずなやつだ」と腹を立てているかと思えば、ときによっては「混雑していたのだからしかたがない。あの人にも事情があったのだろう」と考えて、すぐに忘れてしまうこともあります。
これは、セロトニンの状態に違いがあったからかもしれません。脳内のセロトニンの量が充分でないと、重しがうまく働きません。重しのないダルマが、叩かれてもすぐにはもとに戻らないのと同じように、ちょっとしたストレスを受けただけでも平常心を失ってしまうのです。いつまでもうじうじと文句をいい続けたり、場合によってはその場でキレて大声で怒鳴り散らすということにもなりかねません。
しかし、セロトニンがたっぷり脳内に蓄積されていると、ちょっとやそっとのストレスを受けても、すぐにもとに戻ることができます。重しがしっかりしているために、少しのことには動じない状態でいられるからです。
もちろん、ぶつかった瞬間は、ムッとしたり、腹を立てたりするのは人間として当然のことです。ときには「気をつけろ」ぐらいいってもおかしくはありません。
セトロニンが足りないと…
問題はその先です。セロトニンが減っていると、いつまでも腹を立てた状態でいたり、時間が経ってもムカムカし続けてしまうのです。しかしセロトニンがたっぷりあれば、その場で腹を立てたとしても、それでおしまい。そこから先はうだうだと考えることがありません。
ストレスをさらっと受け流せるかどうか、それを左右するのがセロトニンというわけです。受け流すというのは、けっして逃げることではありません。一瞬カッと興奮するかもしれないけれども、すぐにもとの冷静な顔に戻っている様子を思い浮かべるといいでしょう。それがまさに、ダルマに象徴される「心の復元力」を持っている状態です。
それでは、セロトニンはどのようにしてできるのでしょうか。セロトニンを分泌するセロトニン神経は、脳幹という場所に存在する神経です。脳内には合計で約140億個の神経細胞があるといわれていますが、そのうちの数万個がセロトニン神経に当たります。
セロトニン神経の働きについて説明する前に、まずは脳全体について簡単に説明しましょう。脳は複雑な構造を持っていますが、ここでは本書に関係の深い部分に絞って紹介することにします。
1.大脳皮質
脳の外側を覆っている部分で、言語や知能をつかさどっています。人間がほかの動物に比べて高度な知能を持っているのは、この大脳皮質が発達しているためです。
2.大脳辺縁系
大脳皮質の奥にある部分で、感情をつかさどっています。人間だけでなく犬や猫のような動物も持っており、喜怒哀楽や快・不快などの感情や情動もここから発生しています。
3.前頭前野
大脳皮質にあり、人間として社会生活をするのに不可欠な働きをし、集中力や意欲、共感などにかかわっています。
4.視床下部
大脳辺縁系の奥にある構造です。食欲や性欲など、生存に不可欠な行動に関連しています。
5.脳幹
脳神経の中枢部であり、呼吸、血液循環など、生命の維持に不可欠な機能のほか、脳や体全体の活動レベルを調節する働きを持っています。脳幹は進化の過程でもっとも古くから存在する部分で、「最古の脳」とも呼ばれています。
セロトニン神経があるのは、脳幹のほぼ中央に位置する縫線核という部分です。いわば、脳のへその部分にセロトニン神経があるわけです。その位置からしても、セロトニン神経の重要性が想像できるでしょう。
セロトニン神経は、脳全体にさまざまな情報を送って、心と体をコントロールしています。その手段となるのが、セロトニンという神経伝達物質というわけです。セロトニン神経が活発であればセロトニンの分泌が多くなり、弱くなれば分泌が少なくなります。そして、分泌が多ければ、それだけ情報も脳全体に伝わりやすくなります。
とはいえ、1つひとつの神経細胞は、ごく小さいものです。これで、どうやって広い脳全体に情報を伝えることができるのでしょうか。
なぜ人間は感情的なのか?
その役割を負っているのが、神経細胞から突き出している軸索という器官です。これがケーブルのような役割をはたして次の神経細胞と接続して、次々に情報を遠く離れたところに送り届けているわけです。
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ただし、神経細胞と神経細胞の間には隙間が空いています。そこで、その隙間を越えて情報をバトンタッチするために、神経伝達物質を使っています。詳しくいうと、軸索の末端にインパルスと呼ばれる電気信号の衝撃が到達すると、そこから神経伝達物質が放出されて、さらに次の神経に情報が送られるというしくみになっているのです。
セロトニン神経でいうと、神経細胞のインパルスの衝撃が末端に達することでセロトニンが放出されて、相手の神経細胞の表面にあるセロトニン受容体がそれを受け取るわけです。
セロトニン以外にも、このような神経伝達物質は100種類以上存在しています。そして、神経伝達物質の種類や成分によって、心や体に興奮が引き起こされたり、抑制が利いたりというように、作用が変わってくるわけです。セロトニン神経が活発に働くのは、目が覚めている時間帯です。つまり、朝起きてから夜寝るまで、セロトニン神経は休むことなくインパルスを出し続けていることになります。一方、睡眠中はセロトニン神経の活動が弱くなり、セロトニンはほとんど分泌されなくなります。
有田 秀穂 : 医師・脳生理学者