皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

 死の直前、人が最も多く後悔する5つのこと

2021-07-13 15:30:00 | 日記

下記の記事はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です

レビュー
『死ぬ瞬間の5つの後悔』  ブロニー・ウェア著 仁木めぐみ訳 新潮社刊 1728円(税込)
 生きている限り、すべての人に死が訪れる。にもかかわらず、命の期限を知ったとき、なぜ人は後悔するのだろうか。本書『死ぬ瞬間の5つの後悔』に登場する患者のほとんどは、自分にはもう時間が残されていないことを知っている。次第に体が衰え、ひとりで動き回ることすらままならない。そのとき、物質的な欲や他人の思惑などにとらわれる必要はなかったと気づき、自分にとって本当に大切なことが見えてくる。そして、それを後回しにしてきた自分に憤りを感じ、後悔を抱く。
 介護職として患者に寄り添ってきた著者は、自己肯定感が低く、ありのままの自分を受け入れてもらえなかったというトラウマを抱えていた。患者たちが彼女に胸のうちを明かすのは、彼女独自の経験によって培われた傾聴力と人間性によるのかもしれない。やがて患者は後悔している自分を許し、受け入れることで、穏やかな気持ちを取り戻し、最期のときを迎える。
 死を目の前にした人の後悔は、大枠として「死ぬ瞬間の5つの後悔」にまとめられるという。そして、根本の原因は自分の本心に向き合わなかったことにある。
 本書を読むと、自分の人生が愛おしくなってくる。いつ人生の終わりが来るかはわからない。自分の人生に、棘のように刺さっている「気がかり」はないだろうか。今、自分自身を変えられれば、後悔しないように人生を歩んでいくことは可能だろう。また、あきらめていた大事なものを取り戻せるかもしれない。後悔しない人生とは何か。改めて考える価値あるテーマではないだろうか。(中山寒稀)
本書の要点
(1)「死ぬ瞬間の5つの後悔」は、「自分に正直な人生を生きればよかった」「働きすぎなければよかった」「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」「友人と連絡を取り続ければよかった」「幸せをあきらめなければよかった」である。
(2)もしも死の間際になって、自分の人生を後悔したとしても、ありのままの自分を受け入れ、許すことで、心の平安を手に入れられる。
(3)後悔しない人生を歩くためには、自分の心に正直に生き、すべての幸福に感謝することが大事である。
要約本文
【必読ポイント!】
◆自分が望む人生
◇人が最も多く後悔すること
 著者が在宅介護を担当した緩和ケアの患者グレースは、小柄な体に大きな愛情を秘めた女性だ。グレースの結婚生活は50年以上にもおよんだ。自分の役割を果たし、子どもや孫の成長に喜びを感じる一方で、暴君の夫のためにつらい思いをしてきた。そのため、夫から離れて旅することや、あれこれ指図されず、シンプルで幸せな生活を送ることをずっと夢見てきたのだ。
 彼女の夫が終身の老人ホームに入ることを了承したときは、解放された思いだった。しかし、待ち焦がれてきた自由を手に入れてまもなく、グレースは不治の病によって寝たきりになってしまったのである。
グレースは死に直面してはじめて、やりたいことをやる強さを持てなかったことを後悔し、自分に腹を立てていた。世間体を気にして他人に期待されるとおりに生きてきたことは、自分で選んできた道である。先を恐れて何もできなかったことに気づいたのだ。
 グレースは最期の日に「自分に正直に生きてちょうだい。他人にどう思われるかなんて気にしないで」という言葉を著者に遺した。
 著者が在宅介護の仕事をする中で聞いた最も多い後悔は、「自分に正直な人生を生きればよかった」というものである。そして、自分に正直でいるためには勇気が必要なのである。
◇人は環境に染まりやすい
 30代後半のアンソニーは、危険なほどに向こう見ずで挑戦的な生き方をしてきた。それにより、内臓と手足を痛め、一生つききりの介護が必要となった男性だ。有名な実業家一族に生まれた彼は、ユーモア、茶目っ気があり、知性やチャンスにも恵まれていた。しかし、同時に、自己評価の低さを秘めていた。
 回復が見込めないことがわかったアンソニーは、療養施設へ。死が近い老人たちに囲まれて生活することになった。他の年老いた入居者たちは彼をかわいがり、彼は家庭のプレッシャーから解放された。そのせいか、施設に入ることに不満はなかったようだ。
 しかし、アンソニーはみるみる明るさを失っていった。外出をしたがらず、何か学んでみたらという提案にも聞く耳を持たない。
 他の入居者よりも30歳は若いはずなのに、アンソニーは輝きを失い、老け込み、環境に染まってしまった。数年後に亡くなったが、アンソニーは、施設から外に出ることも、家族の集まりに参加することも拒み、「放っておいてほしい」と言っていたという。
 もう人生を向上させる努力をする気力がないことを認めたアンソニーは、大きな恐怖心に支配されていた。決まりきった日課だけで毎日が過ぎていくのは、安全であるが、満足感は得られない。長い間、自分に合わない環境に身を置くと、そこに染まってしまい、本当の幸せと満足感を知る機会を失ってしまう。自分が向かっていきたい方向に合った環境に身を置くことが大切だ。
◆働きすぎなければよかった
◇大切なのはバランス
 もうすぐ90歳になるジョンは、不治の病に侵されている。あるときジョンは、自分が抱えている後悔を著者に吐露し始めた。「働き過ぎたから、今、こうして孤独に死んでいこうとしている。引退してからずっと一人だった。そんな思いをする必要はなかったのに」。
 ジョンと妻のマーガレットは、5人の子どもを育て上げた。全員が成人し、巣立ったところで、マーガレットは、ジョンに仕事を引退してほしいと話した。豊かな引退生活を送るための十分なお金もあったし、何よりもマーガレットは寂しかった。しかし、ジョンは、それから15年間もの間、引退を望むマーガレットを待たせた。ジョンは仕事も仕事上の地位も満喫していたのだ。
 ジョンは妻の寂しさをやっと理解し、引退する決意を伝えたとき、マーガレットは喜びの涙を流した。ところが、それは「1年後に」という条件つきだった。期限まで残り3ヵ月というところで、マーガレットは病気で亡くなってしまう。それ以来、ジョンは罪悪感にさいなまれてきた。
 ジョンは、地位が自分の価値を決めると考えていたため、引退を恐れていた。死を目の前にして、地位や物質的な成功で自分の価値をはかることに意味がないと気づいたのである。より良い暮らしを求めることは悪いことではない。だが、求めすぎると、愛情や好きなことをする時間といった、本当に大事なものから離れてしまう。
 ジョンが著者に遺した言葉はこうだ。「働きすぎるな。バランスを失わないようにすること。仕事だけが人生じゃない」。
◇シンプルに生きること
 患者の命があと一週間になると、患者本人は心の平安を取り戻すことが多い。一方で、その子どもたちは親を亡くす恐怖や、その際にどんなにつらい思いをするかという恐れから、気持ちが張り詰めてしまう。そのせいで子どもたちが感情をコントロールできず、恐怖とパニックに振り回されることはめずらしくない。
 チャーリーの家族も同様だ。残された時間が少ないチャーリーのベッドをはさんで、成人した2人の子どものグレッグとマリアンが、怒鳴り合いを始めた。きっかけは、遺言状の内容だ。グレッグは父親に尽くしているのに、家を出て自分の望む人生を歩んでいるマリアンが財産を同じだけもらうことに怒っているのだ。2人の諍いは、遺言状に限らず、20年以上も積もり積もってきたという。
 また、チャーリーはグレッグを心配していた。自分に尽くしすぎるうえに、子どもの顔を見る時間もないほど、長時間働き続けていたためだ。「ただ、幸せになってほしい、どんな親も自分の子どもにはそう願うだろう。あんなに働くのをやめて、シンプルな暮らしをしてほしい」。
 そこで、著者はチャーリーに「グレッグに愛していると伝えてはどうか」と提案した。グレッグがチャーリーに愛されていることを理解していないのではないかと感じたのだ。
 チャーリーはグレッグに自分の気持ちを伝え、それを聞いたグレッグとマリアンは距離が近くなった。3人の心が通じ、癒される瞬間だった。
 チャーリーが逝去した後も、グレッグとマリアンはよい関係を続けている。そして、グレッグは、チャーリーの望んだとおり、転職し、以前よりもシンプルな生活を送っている。収入は下がったものの、子どもと過ごす時間が長くなり、生活の質はあがったという。
◆幸せをあきらめなければよかった
◇幸せになる権利
 国際的な企業のエグゼクティブであるローズマリーは、その州で女性初の経営者として高い地位に就いた。しかし、そんな彼女には不幸な結婚の経験があった。精神的にも肉体的にも虐待を受け、離婚をしていたのである。当時、離婚はスキャンダルだった。
 名家だった家族の評判を損なわないためにも、町を離れなければいけない。そう考えた彼女は心を閉ざし、頑なになっていった。ひたすら努力し、男性優位の世界での成功に全てをささげていた。
そんなローズマリーは80歳になり、余命宣告を受けた。ヘルパーに対して威圧的で、気に入らないと次々にクビにしていく。そんな彼女は、著者のことだけは少しずつ受け入れていった。
 あるとき、ローズマリーはこんな言葉を漏らした。「幸せになりたいけど、どうしたらいいのかわからない」。離婚で一族の名前と評判に傷をつけたため、幸せになる資格がないと思いこんできたのだ。
 そこで著者は自分自身を許し、幸せになってもいいと伝えた。提案したのは、「幸せなふりをすること」である。30分間だけ否定的なことを言うのをやめ、微笑みを絶やさずに素敵なことを言う。幸せになるには、意識して努力することも必要だ。やがて、ローズマリーは幸せになってもいいと思えるようになり、笑う回数も増えていった。
 ローズマリーの後悔は「もっと幸せに過ごせばよかった」というものである。「自分には幸せになる権利がないと思い込み、他人の意見に引きずられて幸せにならずにいるなら、それをやめればいい。そんなの本当の自分ではない。どうしてもっと早くに気付かなかったのかしら。最近は本当の自分が好きになってきたわ」。そう話すローズマリーは、最期を迎えるまでの数ヵ月間を幸せに過ごすことができた。
◆後悔しない人生とは
◇自分を愛すること
 著者は多くの終末期の患者を介護し、いろいろな面で成長した。同時に疲れきってしまい、あるとき介護を離れることにした。自然豊かなコテージで創作活動をしながら、平穏で感謝に満ちた生活をしていた。精神面ではすべてうまくいっているはずだった。
 ところが突然、心が折れ、そのままどん底の状態になった。気力は一晩で消え去り、鬱状態に陥ってしまった。若い頃に批判され続けてきた苦しさ、そのままの自分を受け入れてもらえなかった苦しさ。こうした自覚がないままに心の奥に積もっていた苦しみが、一気に浮かびあがってきたのだ。
これ以上、生きていけない。そう思い詰めて、遺書を書き終えた著者を引きとめたのは、保険の勧誘の電話だった。明るく陽気に保険を勧める声で我に返ったのである。そして、自分がいかに無神経であり、自分のつらさで頭がいっぱいになっていたかに気づいたのだ。
 鬱状態を乗り越えた著者は、新しい自分が生まれたことを実感した。誰にも邪魔されず、罪悪感もなく、自由に幸せを感じていい。自分を憎んだり、苦しんだりすることをやめて、ようやく本当に自分を愛せるようになったのだ。
◇ありのままの自分を受け入れる
 どん底から立ち直った著者は、看取った患者たちの後悔を聞いた経験から、いつ人生が終わっても後悔しないように生きる決意をしていた。
 終末期の患者は、人生を振り返る時間を与えられた人たちだ。たしかに、死が迫るにつれ、否定、恐怖、怒り、後悔、自己否定などの感情を経験する人は多かった。だが、最期の数日間は、心に浮かんだ思い出に愛情や喜びをかみしめていた。そして、後悔の原因を作った自分を許し、穏やかな気持ちになっていったのだ。
 もし、不慮の事故などで突然亡くなった場合、心の平安を見つける時間はないかもしれない。そうなると後悔しながら人生を終えることも考えられる。
 だからこそ、今のうちに自分の人生について改めて考えてみることが大事になってくる。間違ったやり方で幸せを追い求め、手遅れにならないためにも、自分の心のままに生きる強さを持つべきだ。そうすれば、他人にも自分にも優しくなれるし、人生を変えるための力を見出せる。
 人生はあっという間に過ぎていく。正しい人生を歩み、人生を目一杯生きるには勇気が必要だ。自分に与えられたすべての幸運に感謝することが、残された時間を大切に生きることにつながる。
一読のすすめ
 本書を読むと、人が本当に望んでいることは、とてもシンプルなことだと感じる。余計なものを持ちすぎているから、本当に大切なものが見えにくいのかもしれない。
 本要約では「死ぬ瞬間の5つの後悔」のうちの3つを取り上げている。紹介していない2つの後悔に関しても、ハッとさせられ、共感を寄せる人も多いのではないだろうか。
 人生の終わりは必ずやってくる。元気なときには気づけないことはたくさんあるはずだ。だからこそ、いつの日か「やり切った!」と思える人生を歩むためにも、本書を読み、自分自身の正直な気持ちと向き合っていただきたい。
評点(5点満点)
総合4.2点(革新性4.0点、明瞭性4.0点、応用性4.5点)
*評点基準について
著者情報
ブロニー・ウェア(Bronnie Ware)
 オーストラリア生まれ。緩和ケアの介護を長年つとめ、数多くの患者を看取った。その経験を基にして書いたブログが大きな注目を集め、それをまとめた本書は26ヵ国語で翻訳され、世界中で読まれている。イギリスでGuardian紙に掲載された本書に関する記事は、日本でも紹介され、大きな話題を呼んだ。作詞作曲家、作詞の講師でもある。
ブログ http://www.inspirationandchai.com/


河野景子「相撲部屋のおかみを卒業し、人生の第3章で感性の合うパートナーと出会った」

2021-07-13 13:30:00 | 日記

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

横綱・貴乃花関(当時)と結婚後は、マスコミに追われる生活を送っていた河野景子さん。2018年に離婚して以来、穏やかな日々を過ごしていたそうですが、先頃、週刊誌に隠し撮りされた男性とのツーショット写真が掲載され、「再婚」の文字が躍りました。ご本人に真相とお気持ちを尋ねてみると──(構成=内山靖子 撮影=大河内禎)
過去は変えられない。明るい未来にするには?
2018年の秋に相撲部屋のおかみを卒業し、約2年半が過ぎました。今は、当時とは比べものにならないくらい、ゆったりとした時間を過ごしています。幼い頃から憧れていたアナウンサーになり、結婚するまでの時期を第1章。結婚後、夫や家族を支えることに徹してきた23年間を第2章とするならば、今は人生の第3章と言えるのかもしれません。
離婚して第3章の扉を開いたことは、まったく後悔していません。後悔したくないからこそ、次のステージに進んだと言いますか。いくら悔やんだところで過去は変えられない。変えられるのは未来だけ。だったら、明るい未来にしていくにはどうしたらいいんだろう? 泥沼にはまる前に、自分で自分を救う方法を常に考える性格なんですよ。
子どもたちも、「ママが笑顔でいられるのが一番!」と賛成してくれました。私がこれまで一所懸命にやってきた姿を見てくれていたのだと思い、本当に嬉しかったです。
ご存じのとおり、私には息子と2人の娘がいます。娘たちはそれぞれ学生ですが、私の生活が変わっても、母親という役割は変わらず続いていく。その役割があることを今、あらためてありがたいなぁと感じています。
でも、娘たちのほうが私よりしっかりしているのでしょうか、娘の友人が遊びに来ると、「この家で一番年下はママみたい」って。それくらい今の私はリラックスして緊張感も抜けている。等身大の自分でいられることがこんなにラクだったのかと、実感しています。
長男はすでに独立し、社会人として自分の道を歩んでいるため、私のほうからマメに連絡はしませんが、妹たちとは大の仲良し。2人はなんでもお兄ちゃんに相談しているようで、その流れで息子が家にやって来ることもあります。息子が訪ねて来るときは、さも偶然という体で好物のビーフシチューやきんぴら、浅漬けなどを作っておき、帰りに持たせたりも。こんな形でささやかなエールを送ることができたら、と思います。
人生の大きな選択は全部、自分で決めてきた
正直なところ、息子についても、娘たちについても心配は尽きません。でも、彼らが自分で決断し、進んでいくしかないと思うのです。私自身、就職、退職、結婚、離婚という人生の大きな選択は全部、自分で決めてきました。両親に意見を聞くことはしませんでしたが、報告すると、父は「景子が決めたことなら」、母は「念じていれば、必ず叶うよ」と背中を押してくれたものです。
それで私は、自分が願ったことには思い切ってチャレンジしてきました。挫折も味わったけれど、どれも必要な経験だったと思います。だから子どもたちにも、本当にやりたいことならば、自分で決めた道を、責任を持って歩んでいってほしいのです。その姿を、少し距離を置いて見守っていくのが親の務めだと思います。たとえ失敗しても、いくらでも軌道修正はできますから。
昨年来のコロナ禍のため、16年から主宰している「河野景子のことばのアカデミー」の仕事や講演などで外に出かける機会が少し減ったため、子どもたちのことを思いながら家でゆっくり料理を作る時間も増えました。
思えば、こんなに穏やかに流れる時間を経験するのは、テレビ局に就職して以来、まったくなかったように思います。スケジュール帳は常に真っ黒。おかみ時代は、5色のペンを使い分けて毎日の予定を書き込んでいたくらい。その頃に比べたら、のびのびと深呼吸しながら穏やかな日々を過ごせる今は、なんてありがたいんだろうと感じています。
更年期には円形脱毛症になったことも
あらためて振り返ってみると、おかみを務めていた時代は、それこそ1年365日、時間に追われていました。3人の子どもたちを育てながら、力士たちや部屋の運営にまつわること、各種行事など、さまざまなできごとへの対応が必要です。いつも必死で、子どもたちが成長するまでは、自分自身の時間なんてまったくありませんでした。
いくつもの役割をこなすのは確かに大変でしたけど、人間って、求められると頑張れるもの。これをやれば形になる、喜ばれる――。完璧にできなかったこともたくさんありましたが、精一杯頑張った結果がその都度、明らかになっていくので、なんとか走り続けることができたのだと思います。生まれつき丈夫な私ですが、次々と難題が降りかかり、更年期のころには円形脱毛症になったこともありました。
それでも、忙しいこと自体はそれほどストレスではなかったんですよ。自分の思いを自分の言葉で語れなかったのがつらかった。
結婚するまでの私は、マイクを向けて相手の言葉を引き出す仕事をしていたのが、結婚後はマイクを向けられる側になりました。しかも、裏方の立場である私が自分の言葉で語ることはよしとされない。何事も軽はずみには口にできなかったし、伏せておかねばならないこともたくさんありました。下手な伝え方をしたら一大事。だったら、何も言わずに黙っているのが賢明だろうと。
でも、自分も取材する側にいたからわかるのですが、相手が黙っているとますます聞きたくなるものです。沈黙を守っていると、些細なことを大げさに膨らませて書かれたり、苦渋の思いで口にした一言が曲解されてしまったりも。
一番苦しかったのは、事実と違う報道をされたこと。おまけに、独り歩きしていく誤解を訂正することさえできない。たとえ言い返せる場があったとしても、当時の私は真実を伝えられる立場にはありませんでしたから。
そんなことが重なって、一時期は完全に人間不信に陥りました。仲良しだった友人たちにもだんだん本心を言えなくなって。そうして本来の自分とは違う自分がどんどんできあがっていくことが、私にとっては大きなストレスだったように思います。

ジャッキー・ウーさんに惹かれた一番の理由
ずっとそんな思いを抱えてきたからこそ、先日、週刊誌の突撃取材を受けておつきあいしている彼のことを聞かれたとき、はっきり真実をお話ししようと決意したのです。
長年、週刊誌の取材を受けてきましたから、質問をかわす術も、ちゃんと身につけていたんですよ(笑)。ニッコリ笑顔で、何も言わずにお辞儀をして、その場を後にすればいい。でも、お互いの気持ちが通じ合っている素敵な方と交際しているのは事実ですし、そもそも悪いことはしていません。
ここで逃げたら追いかけられて、またしてもコソコソと生活するはめになる。そんな経験をこれまでさんざんしてきたわけですから、もう二度と同じ思いはしたくない。それで、マイクを向けられたときに、「結婚を考えている方とおつきあいしています」と、潔くお話ししたのです。そうしたら、すごく気持ちがすっきりしました。
映画監督で実業家でもある彼(ジャッキー・ウーさん)とは、彼が経営するボディスタジオで出会いました。《これからの人生を一緒に歩んでいきたいパートナー》と意識したのは19年の終わりごろ。いつも自然体でいる彼と徐々に親しくなりました。
海外を飛び回り仕事に明け暮れていた彼ですが、この先の人生はマイペースでゆっくり生きていきたいと、考えが一致したんです。そのときに2人一緒なら楽しいし、お互いに自分らしくいられるねって。
彼に惹かれた一番の理由は、感性が合うこと。好きなものや人生に対する姿勢も似ているし、今、私が関心を持っている仕事や活動にも共感してくれるので、それこそ話が尽きないんですよ。
彼というパートナーができて私が朗らかに過ごしていることを、子どもたちも喜んでくれています。公になる前から、彼のことは子どもたちに伝えていたので、報じられることになっても特に驚きや戸惑いなく、受け止めてくれました。そんな子どもたちに感謝しています。婚姻届はお互いにとっていいタイミングで出すつもりです。

いくつになってもあきらめないで
目下、私のライフワークになっているのは「河野景子のことばのアカデミー」の活動です。このスクールを立ち上げたのはまだおかみだった頃。あまりにもいろいろな役割をこなすことに必死になっている自分に気づきました。
花田景子としてはフル回転だけど、「私でなくてはできないことは何だろう?」と考えたとき、アナウンサー時代から培ってきた「言葉」の使い方や「コミュニケーション」の方法をお伝えすることで、誰もが自分らしく生きていくためのお手伝いができたらと考えたのです。
今はコロナ禍で何かと制限がありますが、マンツーマンや少人数のクラスで、その人に合ったベストなコミュニケーション方法を指導しています。
20年には『コトバノケイコ』という本を執筆しました。若い頃の私は海外に目が向きがちでしたが、結婚して日本の国技や伝統文化に携わりながら生活してきたことで、日本文化や日本語、日本人の心に興味が湧いてきて。
自分が気になる言葉、好きな言葉の語源や意味を調べて考えを掘り下げてノートに書き留めるのが習慣になっていたのです。親しい編集者にお話ししたら、「面白い」と興味を持ってくださって、このたび上梓することができました。
河野景子さんの著書『コトバノケイコ』学研プラス
すべての写真を見る
気がつけば、私も50代半ばを過ぎました。とはいえ、いくつになっても、何事もあきらめたくない。私がそう思うのも、素敵な70代の女性のお友だちが大勢いるからです。バリバリのキャリアウーマンもいれば、趣味やお孫さんの世話を楽しんでいらっしゃる方もいる。生き方は違っても、どなたもキラキラ輝いているんですよ。
その方たちに共通しているのは、それぞれに大変なご苦労を経験しながら、40代、50代、60代を全力で生きてこられたこと。だからこそ、70代の今、人一倍輝いているんですね。
輝くためには影が必要です。影が暗いほど、光はいっそう輝きを増していく。今がどんなにつらくても、それはこの先、自分が光り輝いていくために必要な時期なのだと思えば、どんな苦労だって乗り越えられます。
今の私があるのも波瀾万丈な時期を経験したおかげ。この先はとことん自分らしく、肩ひじ張らずに自然体で生きていけたら幸せだと思っています。
河野景子
こうの・けいこ
1964年宮崎県生まれ。88年上智大学外国語学部フランス語学科を卒業後、フジテレビにアナウンサーとして入社。94年よりフリーに。95年に横綱・貴乃花関と結婚、2004~18年は相撲部屋のおかみを務める。


小室圭さんは一度は「婚約辞退」を考えた 内定会見後のお食事会から“異変”が…

2021-07-13 11:00:00 | 日記

下記は日刊ゲンダイオンラインからの借用(コピー)です

これまで、小室圭さんはなぜ嫌われるのか、原因は皇室にふさわしくない金銭問題や不可解な言動だったことを書いてきた。

 では、なぜ婚約以前に小室家の身辺調査をしなかったのだろうか。早めに借金問題がわかっていれば、宮内庁は内々に処理できたはずである。

「考えられるのは、宮内庁は気がきかなくて動かなかった。もしくは秋篠宮ご夫妻が絶対にやるなと命じたかですね。おそらく後者でしょう。宮内庁が裏で動けば簡単に始末できたはずです。秋篠宮家に危機管理意識がなかったということですね」(皇室記者)

 こうしてボタンのかけ違いもあって、2017年5月の婚約発覚以来4年も続く小室さんへの懐疑の目とバッシング。となると普通の人なら、「小室さんはつらくないのか、幸せなんだろうか」と素朴な疑問を持ってしまう。

1億5000万円の“持参金”や将来の天皇の義兄というステータスを手に入れるなら、有名税を払うのも仕方ないと考えているのだろうか。だから、婚約破棄を言い出さないのだろうか?

 皇室関係者は意外なことを言った。

■あまりのバッシングに…

「実は小室さんは眞子さまとの婚約を諦めようとしたことがあったんです。マスコミから叩かれまくるわ、(秋篠宮)殿下からは問い詰められるわ、面倒くさくなったのかもしれません。それを眞子さまが励ましたというか……」

 皇室記者はこんな補足説明をしてくれた。

「婚約内定会見の夜に、秋篠宮一家と小室母子でお食事会をしていますが、佳子さまと悠仁さまは出席されませんでした。おそらく子供に聞かせられないシビアな話が出たのではないでしょうか。そのあたりからちょっとおかしな雰囲気がありましたね」

この時、小室さん母子は秋篠宮さまに問い詰められたのでは、と言うのだ。

■止めたものは何か

 一方、怯んで肩を落とす小室さんに、眞子さまがしっかりしなさいよとハッパをかけたということだろうか。

 ところで、小室さんが「皇族の一員になれるというチャンス」を一度は諦めようとしていたという話は、冷静に考えたら当然と思えてくる。

「小室さんは皇室から金をもらっているわけでもないし、眞子さまと別れても、法律事務所からもらっているお金を打ち切られるわけでもないんです。留学さえできれば、いずれアメリカで弁護士資格を取って活動できる。そうなれば、仮に眞子さまと別れたところでなんら困ることはありません。アメリカなら『元プリンセス眞子のフィアンセ』の肩書は貴重。それにアメリカの弁護士は日本よりステータスも高い。どこかの別の金持ちの娘と結婚したほうがはるかに楽なはずです」(前出の皇室記者)

小室さんは母親と似ているそうだから、その選択肢はあっても不思議ではなかった。

 では眞子さまは小室さんの婚約辞退をなぜ引き留めようとしたのだろうか。恋は盲目ということか。

「いえいえ、やっぱり皇室を出たいんです。というより秋篠宮家を離れたい。もっと言えば、紀子さまと距離を置きたいんじゃないかな。二言目には『(皇嗣家として)ふさわしいことをしなさい』ですからね。気詰まりなんでしょう。それに眞子さまも、小室さんを逃したら次の縁談は限りなくゼロに近づきます。おそらくラストチャンスというお気持ちだと思いますよ」(前出の皇室記者)

 小室さんばかりか、眞子さまにとってもイバラの道となってしまった結婚問題。しかし、もう後戻りはできないといわれる。今や2人が結婚するかどうかではなく、令和に汚点を残さないために「納采の儀」をするのか、それとも秋篠宮さまが認めなければ“駆け落ち婚”のような形をとるか、二者択一しかないだろうと言われている。さて、それでも小室さんは幸せなのだろうか?


お一人様の終活、契約で託す 身元保証や遺言の実行

2021-07-13 08:30:00 | 日記

下記の記事は日本経済新聞オンラインからの借用(コピー)です

「黄色いお花をたくさん飾って送り出してほしい」。東京都内で一人暮らしだった70代女性のAさんは亡くなる前、こんな希望を残していた。本式の葬儀は望んでいなかったため、限られた人だけで故人をしのぶ「お別れの会」が開かれ、祭壇の周りは黄色い花で彩られた。
Aさんは生涯独身で、配偶者や子どもはいなかった。実兄は一人いたが「自分のことで兄の手を煩わせたくない」という気持ちが強かったことから、死後の手続きなどの代行を請け負うNPO法人、りすシステム(東京・千代田)と生前に契約。同法人はAさんの依頼を受けて保険証の返納、年金の停止といった手続きや自宅の片付けなどをしたという。
生前に第三者と契約
厚生労働省の調査によると、65歳以上がいる世帯のうち単独世帯の比率は2019年で28.8%と過去最高だった。比率はほぼ右肩上がりで上昇し、この30年で約2倍になった。Aさんのようにずっと独身の人のほか配偶者に先立たれたり、まったく身寄りがなかったりする「お一人様」の高齢者が増えているとみられる。
配偶者や子どもといった家族がいれば家族が葬儀・納骨などをするのが一般的だが、お一人様はこうした人がいない。亡くなったとき遺体の引き取り手がいない場合は、市区町村が火葬・納骨をする。遺産は故人に兄弟姉妹などの法定相続人がいれば彼らが引き継ぐ。ただし家が老朽化していたり、負債があったりすると相続人の負担になりかねない。相続放棄も可能だが、裁判所での手続きが必要になるなど手間と費用がかかる。
お一人様が周囲に迷惑を掛けないようにするには「自分が亡くなったあとの手続きを生前に準備しておくことが大切」と行政書士の吉村信一氏は話す。選択肢の一つが死後事務委任契約だ。死後に必要な手続きについてあらかじめ第三者と契約を結び、希望に沿って実行してもらうよう託す。司法書士、行政書士といった専門家やNPO団体、専門の業者・金融機関に依頼するのが一般的だ。
具体的に何を任せることができるのだろうか。まず決めておく必要があるのが葬儀の方法とお骨の行き先。どんな葬儀を望むのか、先祖代々の墓に入るのか、樹木葬や海洋散骨といった方法を選ぶのかなどを決める。
財産の分け方を指定
死亡届の提出、公共料金など各種契約の解除に加え、入院費用や高齢者向け施設の費用の精算も考えておいたほうがいいだろう。最近ではパソコンやスマートフォンといった電子機器のデータ消去と処分を望む人が増えているという。SNS(交流サイト)を利用していれば、アカウントの閉鎖を請け負う場合もある。ネット上に個人情報が残り続けることやアカウントの乗っ取りによる悪用を防ぐことなどが目的だ。
財産の分け方や配分先を遺言書で指定することも重要だ。お一人様で遺言書がない場合は、故人の兄弟姉妹などが法定相続分に従って分けるのが一般的。法定相続人以外の第三者に遺産を渡す「遺贈」や特定の団体などに寄付をしたいなら、遺言書に明記する必要がある。死後事務委任の契約先を遺言執行者に指定しておけば遺言の内容を実行してもらえる。
「死後の手続きと並んで、生前のサポートを望む人が多い」と吉村氏は指摘する。入院や高齢者向け施設への入居などで身元保証人になってほしいというニーズが特に強いという。判断力はあるものの足腰が衰えて出かけられない場合に金融機関の入出金などを依頼する財産管理等委任、認知症に備える任意後見といった契約をしておくことも選択肢になる。
業者は玉石混交も
生前と死後の両方で委任契約を利用するなら、相応の費用がかかることを知っておこう。依頼内容によってケース・バイ・ケースだが、りすシステムでは「計100万円からが目安の一つになる」(杉山歩代表理事)という。申込金や組織運営のための分担金のほか、生前・死後事務を実行するための預託金としてそれぞれ最低20万円、50万円が必要になる。預託金は途中で契約を解除する場合は返還される。
ただし業者は玉石混交の面もある。国民生活センターによると死後事務などの「高齢者サポートサービス」を巡る相談は20年度に111件と3年連続で100件を超えた。預託金を流用していた大手事業者が16年に破綻する例も出ている。費用は高額になりやすいため契約をする際は慎重に判断したい。サービス内容と料金、途中解約をする場合の条件などを吟味することが必要だ。
(三好理穂)