30℃60%
最高温度31℃最低温度27℃
たいてい毎日楽しみに覗くブログがあります。→それはこちらです。
奥深く、真夜中のどろりと淀んだ私の眼、脳では難解でただ文字をたどるばかりのこともあります・・・
そこに書かれた意図とはかけ離れているでしょうけれど、この言葉が胸に突き刺さりました。
同じようで同じではない。毎回違うことの意味を見いだせるのは、反復と差異に気づく感性、観察力、知識、統計力なども必要でしょう。反復と差異には「関心の継続」が、表現し続けることの意義が見出されるのは私だけではないと思います。
私には私の事情、ただそれだけに響いたものですが・・・
やせっぽっちの妹はママの庭を託され、「庭」を維持するということでなく、底に息づく命を預かったのだと、ママのの可愛がった木々を草花を毎日世話し、1日欠かさずその写真を絵葉書にして送り続けている。
庭の木々が、語りかけていると感じられるだけの、関心を注ぎ観察している。
植物はものを言わない。そのときの為に用意し時期が来れば花を開く、過酷なときは涙も無く、声も無く、耐える。
猫はものを言う。欲しければねだる。嫌なら逃げる。
猫を飼うほうがどんなに楽で簡単なことかと思う。
植物が「辛い」という声を聞くことができれば、鉢植えを買って花を楽しみついつい枯らしゴミとして処分することはできないだろう。
猫飼いが、猫にしなれてさっきまで愛したその体を、ゴミとして処分できるだろうか。それと同じだ。
けれど、枯れ果てた鉢植えを別れを惜しむ涙を流す人はまず無い。
人はどうだ?
ママはねだらない。逃げない。耐える。
思えば、植物のようなひとだ。
そばにいるものは、そう思って見つめ続けられるか?
残念ながら、猫のようだと思っているだろう。
辛ければ駄々をこねるだろう。
幸せだから笑うのだろう。
駄々などこねない。
生きるために微笑が必要だから、微笑むことが生きていることだから、微笑を咲かせているのだ。
いつかその微笑が絶えるとき、その原因はその直前には無い。
ねえ、今の家族のお世話が微笑みを作っていると勘違いしてるよ。
だって、ママが好きなほうへ枝を伸ばすことも許さず、彼女の環境からばっさりと刈り取って、花瓶に活け水を替えているだけじゃない。
どんなに花を愛でて、水を替え続けてもそこから新しい花は咲かない。
猫とは喧嘩ができるけど、植物とは喧嘩はできない。
猫どもは喧嘩をしてでも要求を伝えるけど、植物は聞いても揺すっても答えてはくれない。
「いやなら言うだろう、言わなければわからない。言わない不満は無いと言うこと。他のものの観察は意見を聞かない。」
では、植物は育たない。新しい花はつけない。実るものは無い。
それなのに、そのようにママを扱って、いずれ枯れ果てたとき、全てを尽くしてこうなったと思うことは簡単だろうね。
いやだといわないから、ママの手から微笑みながら懐かしいものの(取りあげる者にとっては気に入らないものが)写る写真を取りあげることは、植物が嫌だと声をあげないから、自分の日焼けを嫌がり、鉢植えを陽に当てないようなものだ。虫がつくのを嫌がり、虫の好んでつく新芽を伸ばしてやらずばりばりと刈り取ってしまうようなものだ。
嫌だとは言わないが、美しい花は新しくつかない。そしていずれ枯れ果てる。

たいてい毎日楽しみに覗くブログがあります。→それはこちらです。
奥深く、真夜中のどろりと淀んだ私の眼、脳では難解でただ文字をたどるばかりのこともあります・・・
そこに書かれた意図とはかけ離れているでしょうけれど、この言葉が胸に突き刺さりました。
同じようで同じではない。毎回違うことの意味を見いだせるのは、反復と差異に気づく感性、観察力、知識、統計力なども必要でしょう。反復と差異には「関心の継続」が、表現し続けることの意義が見出されるのは私だけではないと思います。
私には私の事情、ただそれだけに響いたものですが・・・
やせっぽっちの妹はママの庭を託され、「庭」を維持するということでなく、底に息づく命を預かったのだと、ママのの可愛がった木々を草花を毎日世話し、1日欠かさずその写真を絵葉書にして送り続けている。
庭の木々が、語りかけていると感じられるだけの、関心を注ぎ観察している。
植物はものを言わない。そのときの為に用意し時期が来れば花を開く、過酷なときは涙も無く、声も無く、耐える。
猫はものを言う。欲しければねだる。嫌なら逃げる。
猫を飼うほうがどんなに楽で簡単なことかと思う。
植物が「辛い」という声を聞くことができれば、鉢植えを買って花を楽しみついつい枯らしゴミとして処分することはできないだろう。
猫飼いが、猫にしなれてさっきまで愛したその体を、ゴミとして処分できるだろうか。それと同じだ。
けれど、枯れ果てた鉢植えを別れを惜しむ涙を流す人はまず無い。
人はどうだ?
ママはねだらない。逃げない。耐える。
思えば、植物のようなひとだ。
そばにいるものは、そう思って見つめ続けられるか?
残念ながら、猫のようだと思っているだろう。
辛ければ駄々をこねるだろう。
幸せだから笑うのだろう。
駄々などこねない。
生きるために微笑が必要だから、微笑むことが生きていることだから、微笑を咲かせているのだ。
いつかその微笑が絶えるとき、その原因はその直前には無い。
ねえ、今の家族のお世話が微笑みを作っていると勘違いしてるよ。
だって、ママが好きなほうへ枝を伸ばすことも許さず、彼女の環境からばっさりと刈り取って、花瓶に活け水を替えているだけじゃない。
どんなに花を愛でて、水を替え続けてもそこから新しい花は咲かない。
猫とは喧嘩ができるけど、植物とは喧嘩はできない。
猫どもは喧嘩をしてでも要求を伝えるけど、植物は聞いても揺すっても答えてはくれない。
「いやなら言うだろう、言わなければわからない。言わない不満は無いと言うこと。他のものの観察は意見を聞かない。」
では、植物は育たない。新しい花はつけない。実るものは無い。
それなのに、そのようにママを扱って、いずれ枯れ果てたとき、全てを尽くしてこうなったと思うことは簡単だろうね。
いやだといわないから、ママの手から微笑みながら懐かしいものの(取りあげる者にとっては気に入らないものが)写る写真を取りあげることは、植物が嫌だと声をあげないから、自分の日焼けを嫌がり、鉢植えを陽に当てないようなものだ。虫がつくのを嫌がり、虫の好んでつく新芽を伸ばしてやらずばりばりと刈り取ってしまうようなものだ。
嫌だとは言わないが、美しい花は新しくつかない。そしていずれ枯れ果てる。
>脳では難解でただ文字をたどるばかりのこともあります・・・
よく言われます。本人はわかりやすくする努力を積み重ねているつもり!なのですが、なんだかニャン。反省しては反省して、それでもすーと伸びることの、花開くことの少なさに、ただ無念に佇むこともしばしば。
ア~ア、
それにしても、万物、よく手入れをしてやらなくては、本来の花は咲きませんね。
随分と細ってしまった薔薇の木から、今年も薔薇の花が咲きました。薔薇の木は花を咲かせることだけに使命を感じたのか、開花と同時に葉を皆落としてしまいました。それでも、ピンクとクリーム色の不思議な花が咲きました。パーフェクトでした。
薔薇の使命は花を咲かせ、実をつけることだったのでしょう。そのことを、あらためて教えてもらったのです。
私はといえば、その薔薇が散り始めると花を摘み取ることしか世話ができませんでした。もう一度挑戦してご覧。あなたの花を咲かせてご覧。そう言って、水をやり、土を整えてやりました。
あとは、薔薇の命にすがるだけです。生きようと思い、そのために新しい芽を吹き出すこと。再び、花をつけようと根を鉢に満たすこと。
毎日、毎日、鉢を眺め、薔薇のお母さんに違いない、細い枝を眺めています。頑張ってほしいとただ祈りながら。
TBありがとうございました。