ナナと一緒に

母の残してくれたもの…それはねこのナナ。
愛猫ナナに癒され一緒に頑張る日々の記録

通夜

2007-04-30 | 母の事故
通夜の席は密葬を希望してた母にとっては予想外。
いや、母だけではなく私達もびっくりしたくらいの人が
母に最後の別れに来てくれた。

母の仕事上からごく内輪の人間にだけは知らせてあったが
母に会いたいと多くの方が思ってくださり集まってくれた。

母の人徳だなと感じ、
母と言う人間は娘が思う以上に皆に愛され仕事をしていたのだなと・・・

葬儀は母が始めて店を構えた場所のすぐそばにある会館で行った。
母にとっても私にとってもゆかりがあるのであえてその場所での葬儀にしたのだ。
そこは本当に思い出の地。
母の出発点でもあり、私が生まれしばらく住んでた土地である。
懐かしいその場所は私の記憶を呼び覚まし母との思い出にまた涙が溢れた。

母の友人、お客様、従業員や色んな方が私の手を握り励ましの言葉をかけてくれた。
ほんのちょっとの間だが母と仕事もしていた事もあるのが
母の人間関係の中に自分と言う存在が思った以上に関わっていた事には
自分でびっくりした。知らない方がいない位だったからだ。
私の小さな頃から知っている母の知人も大勢いらしてくださった。
ちょっとした同窓会のようだ。
そして皆が「先生は凄くteacatちゃん(私)を自慢してたわ」「先生のあなたは宝だったのよ」など等
そう言って皆が私を見ながら涙を流した。

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「もうすぐ本当にお別れになっちゃうんだね」そう私は母に語りかけた。
相変わらず穏やかな顔で寝ているかのような母。
私はあまりに周りの人が私を心配したりするので
本当は泣き出しそうな自分を一生懸命にこらえてた。

「泣いてばかりじゃおばさんが成仏できないよ。「ごめんね」や「何で」じゃなくて
お別れなんだからおまえの本当の気持ちをちゃんと「ありがとう」って伝えなきゃね。
明日のお別れは後悔しないようにしような
そう母の死後ずっと着いててくれている彼に言われていた。

こんな時は本当に彼の存在は大きかった。

母の死後直後から会社を早退して、心配でつきっきりで私のそばに着いていてくれる彼。
人生に絶望する気持ち、母を私から奪った現実
そして母子寄り添い生きてきた私にとってはある意味唯一の肉親。
(弟はいるが弟には父もそして父方の親戚もいる。
特に気にしてはいなかったが母の死後私を守り味方してくれる人は
本当に母だけなんだなと感じた。
その寂しさは味わった事のない孤独と深い悲しみだった。
この寂しさの淵にかろうじて立ってられたのは本当に彼のおかげだろう。

その晩通夜の終わった後に彼は私を連れ出してくれていた。
私は大声で泣き、そして声に出して叫んだりもした。

どの位そうしていたのか、あまり帰らないと先に帰った父と弟が心配すると
そう思い自宅に帰ったが2人とも何も聞いてはこなかった。

父はさすがに疲れたらしくすぐに寝たが、私と弟そして彼は
「いや~お母さんもあんなに人が来てびっくりしてんだろうね
そんなたわいもない話しをした。
お母さんの悪口も言った(笑)そうやってその晩は過ぎていった。。。


母の頬

2007-04-25 | 母の事故
母の事故の知らせからどの位経ったのだろう。
私が母に会えたのはもう夜の7時頃だったと思う。

結局母は自宅には帰れず検死解剖後は葬儀社の用意した場所に運ばれた。

自宅からその場所に向かう車の中私は意外にも冷静であった。
周りの人は散々今日その場所に私が会いに行くのを止めた。
私の病気の事や精神面を考えての事だったのだろうが
私は「大丈夫取り乱さないから」そう約束をし母に会いに行った。

そこは幸いにも24時間親族だけがいつでも出入りができた。
入り口を入るとすぐに母の棺と写真が目に飛び込んできた。

目を閉じる。

「お母さん、お姉ちゃんが来たよ。」そう言って弟が白い棺の中に話しかけた。
私はそっと近づいた。
そこにはまるで眠っているかのような母がそこにいた。
「お母さん?」
棺の上から私は母の顔の辺りをなぞった。

「お願い。開けて。お母さんに触れたい。
そう言って頼むと叔父と弟が棺のふたを開けてくれた。
「お母さん。。。会いたかった。何寝てるの?」そう言って触れた母の頬の冷たさに私はびっくっとした。

そこに寝るようにして母はいるのに頬の温かさがない。
「お母さんどうしたの?まるで吹雪の中スキーでもしたみたい」そう言ったと同時位に
私の目からは大粒の涙がこぼれてきたのを覚えてる。

後はもう止まらなかった。
ひたすら「何故?」「お母さん起きて」「早く家に帰ろうよ」この繰り返しだったと思う。

あまりに私が泣き叫ぶので私は棺から引き離されるように車椅子を後ろにひかれ
「放してほっといてやめて」とその場で母の棺にしがみつき気が狂ったように叫んだ。

私はこんなに泣いた事はないんじゃないかと言うくらい泣いたと思う。
「酷いお母さんを返してお母さんが何でこんな事になるのよねえ何で?」
ひたすら眠るような母の顔を見ながら全てのものを恨んだ。

どの位そうして時間が経ったのか私が冷たい母の頬を温めるようにして触っていると
「冷たいよなおふくろの頬。まったくいつもの寝顔でさ。」そう言って弟が
私が触れてる母の頬と逆の頬を弟が温める様に触れた。

こうやっていると母が死んだなんて本当に思えなかった。
母はお酒が好きで酔うとすぐにDOWNだった。
そうすると面白がって昔はその寝顔に弟と二人でいたずらをしたりしたものだ。
「お母さん起きて。起きないと鼻つまんじゃうよ。」そう言って私が笑うと
「なんかさ、おふくろ笑ってるように見えない?皆が集まって嬉しそうだよね。
きっとさ今も自分が死んだって思ってないんだろうな」そう弟が言うので母の顔を見ると
確かに微笑んでいるようにも見えた。

寂しがり屋でわがまま。怒るとすぐに仕事場の上にある部屋でイジケルてプチ家出をする母。
もうお母さんが家出しても私も弟も怒らないから早く目を覚まして。
そんな事を言いながら母を見つめてた。

「おふくろ。良かったな。おふくろにぎやかなの大好きだもんな。みんないるぞ~」

そう言って私の肩に手をかける弟の手にこの時大きなものを感じた。
子供だと思ってた弟は私なんかよりもしっかりしていて大人だった。
私は改めてそれを感じながらまた涙が止まらなくなっていた。 


衝突

2007-04-19 | 母の事故

母が死んでからのこの家の毎日の生活は
正直私にとって落ち着かないものとなっている。

母の死後父が当たり前のようにこの家に帰ってきたからだ。
この事に関しては本当に悔しいが動けない私にはどうする事も出来ない。

すでに母の死後、父との衝突は何度か起きている。
生前母はこの家に父が帰ってくる事を非常に恐れてた。
そして私に
「あの人とは絶対にあなたは住んじゃだめだからねあなたの病気が酷くなってしまう
そう言って私が色々な面で後々に不自由のないように母はちゃんと考えてくれていた。

が・・・。現実は突然の母の死によって父にとっては非常に好都合なものになった。

小さなものだが我が家は持ち家にマンションが1つあるのだ。
(どちらもまだローンが残っているのだが。。。
その話しはさておいて母は生前にメーカーとブティックを経営していた。
よって母の死でもちろん母の口座は全て封鎖されてしまったので
商売上一刻も早くこの口座内容を把握するべく開かなくてはならないのだ

そしてにも書いたが実は自宅は母と弟、マンションは私と母の共有名義でローンを組み
この支払いも把握しないといけないのだ。

そう、この自宅とマンションには父の名前は一切ない。
それは父も実は再婚で子供が前妻にいると言う理由もあるのだ。

あ~ややこしい。

だがこの事よりも何よりもはっきり言えば両方とも一切父は関係してないし
マンションを買う際には連帯保証を頼んだら自分には関係ないとつっぱね一切助けてくれなかった。

文章では書ききれない色々な理由からとにかく父はこの家の一切に権利がないのだ。

母と別れてなかったので夫と言う事以外は・・・

そんなある日私は弟に委任状を求められた。
内容は母の財産一切に関して父と弟に全てを任せると言う内容だ。
愕然とした。いったいなんなんだ?
説明もなしにこのような物を私は書けと言われても納得がいくはずがない。

父は元々は銀行員だからお金に関しては詳しい。
だが私と弟はずぶの素人。
弟は父の言いなりになり(信用して)全てを父にゆだねてたのだ。
だが私は父の良いところも悪いところも大体知っているつもりだ。

委任状を使う理屈はわかっていたが私は説明なしに
それを進めようとする父が納得いかなかった。

だいたい、自分でこの家を出て行き自由に暮らして
なにのこのことココに居座っているんだ?誰の許可でここにあなたは居るの?

だが結局は動けない私も弟も父にはかなわなかった。

そして父は私に言った

私は病気になって散々入退院を繰り返し、迷惑をかけ
今では車椅子で自由にならない身体じゃないかと・・・。
お母さんを苦しめてたくせに。お母さんを殺したのはおまえだ。
お前が元気ならお母さんももう少し幸せな人生だったのにな。
お母さんが死んだのはお前のせいなんだぞ!!
おまえが大きな口たたく権利が何処にあるんだ?

もう何も言葉はなかった。
ただ確かに私のせいでお母さんは苦しんだと思う。
だがそれ以上に最低な行為を母にしてきたと思ってた父に言われるなんて・・・

私はもう何も言えなかった。生きていたくなくなった。

弟が父に「お姉ちゃんに謝れ殺人者呼ばわりした事を謝れ」と怒鳴っていたが
もう父は撤回などはするはずはなく、むしろ「本当の事だ」そういい続けた。


一人にしないからね

2007-04-19 | 母の事故
朝になり9時を迎える頃には父と弟、私そして父の兄が飛んできて
葬儀の準備が始まった。
それから私は周りの方への連絡等におわれた

友引が入るので葬儀はひとまず2日後になり
少なくとも少しは長く母と過ごせる事になったのだ。

母の死後まだ数時間と言う中どんどん進む葬儀の準備
地方からは連絡を受け朝一番で飛んできた叔父や叔母。
私の喪服の準備や母の最後のお別れに着る服選びに写真選び・・・
従業員達からの連絡。母の知人たちからの花が次々に届く。

もの凄い勢いで我が家の中は人や花、電話の嵐になっていったのだ。

ほんの12時間前は母は生きていたのだ。
そう24時間前はこの場所、自宅で私とおしゃべりしてたのだ。

不思議だった。だからなのかまったく実感がないのだ。

従業員達が号泣しながら私に話しかける。
「大丈夫!大丈夫だから!本当に皆さんありがとうございます。」
私はそう言いながら悲しいはずなのに笑って対応している。

泣き声と電話の音が自宅の中をかけめぐる。

そんな時に一本の電話が私の元に入った。
それは母のことも私の事も知っている方。もちろん弟の事も。
お姉さんのような大切な我が家のヘルパーのAさんからだった。

「大丈夫?ちゃんとご飯食べている?大変だけどご飯はちゃんと食べてね。
私はちゃんとそばにいるから。一人にしないからね。」

私はこの言葉でそれまでピーンと張った何かが切れるような不思議な気持ちになった。
それはまるで魔法の言葉のようにも聞こえた。
「私はそばにいるから。一人にしないから」
が溢れそうになるのがわかった。それは私の弟も同じようだった。
これほどまでに心に響き、そしてきっと私や弟が一番欲しかった言葉なのかもしれない。

今も彼女は確かに私達のそばに笑顔を振りまいてその後もついていてくれる。
弟なんかは「もう一人お母さんがいるようだ~」とAさんの言う事には逆らえず今日も笑っている。

「お母さん。心配しなくても今日も元気に私達は過ごしてます」


私は殺人者

2007-04-17 | 母の事故

母の死後、私はずっと考えることがある。
母は私と言う娘をどう思ってただろうか・・・。
正直愛されてたとは思うがこの1年この家に私が戻ってからは
自分だけ良い子になるつもりはないから正直に書くが
酷い衝突もいっぱい起きた

車椅子で本当に動けず、病院のようにはいかない生活の苦しさから
自己中心的に私は考えを述べてきたと思う。
転んでも起き上がれない→母は仕事→一人動けない事にジダンダ
→自分にイライラ→母に文句言う→母怒る→口論になる。

こんな事が始めの頃は多かった。
そのうちにこの生活に私は慣れてきたが、母は違ってた。

今まであった生活が私が帰って来た事でヘルパーさんや看護婦さんの出入りや
自分で私の世話をやらないとと言うプレッシャーの日々と仕事。
と同時に父の自宅への出入りが当たり前になり
母は段々自宅に居場所をなくし始めていたのです。

この頃から少しずつ帰りも遅くなっていき会話も以前のようにはしなくなってきてた。

本当に仲が良く、一緒に飲みに行くと皆に「姉妹のようだね」と言われたりしてた。
無論衝突も激しかったがお互いにそれでも分かり合ってた。親友のようでもあった。

だが判らない 母がこうなってずっと考える。
母の人生は私が病気になった事でどれだけ苦しかったか・・・。
もしも、私がせめて車椅子にならずにいたらこんな事にはならなかったのでは・・・。
私が実家に帰ったことで全てが狂ってしまったのではないか・・・。

母の居場所を奪ったのは私だ。私自身なのだ

そして一番嫌がってた父がこの家に自由にまた出入りし始めたのだって
私のリハビリの送り迎えをしたりしてくれてたからだ・・・。
母は私に頑張って欲しいからと父のご機嫌をとり本当は嫌なはずなのに
「お父さん頼りにしてるから」「お父さん助かるわ」など等
そう言って手を振り私の通院やリハビリを見送ってた

どちらにせよ、そうやって母は私の事で自分らしさは押し殺して生活したのだ。

そんなの母親なんだから当たり前だ位にしか私はたぶん思ってなかったような気もする。
だからこそ自分が許せないし、息することも考えると苦しい。
母の人生を私は奪ったんだ。
口癖のように
「病気のあなた残しては死ねないからお母さん頑張らなきゃ
「あなたは私の生きがいなの。あなたの幸せが一番の私の幸せ
「あなたがもし死にたいのなら、一人では死なせないよ。
お母さんも一緒に死んであげるからね

そんな命をかけるほど私に真っ直ぐに愛情を注ぎ込んでた。
正直「重(おもっ!)」って思った事もある。

そんな母に対し私は何をしてあげられてたのか?
苦しみばかりを母に与え、最後は母を孤独にさせてたのではないか?
母の死後私は毎日のように「ごめんね。ごめんなさい。」が口癖になる位
母の事を考える度に謝り続けている

私がこの家に、こんな病気にならなければ母はきっと今もここで笑ってた

「おまえがお母さんを殺したんじゃないのか?」
母の死後ある衝突から父と口論になり言われた言葉だ
自分でも毎日考えてたことだけに父のその言葉は私の胸に鋭い刃物のように刺さった
この時の事はまた後日書くが、一つ言えるのは
少なくとも私自身だけじゃなくそう思う人が居ると言うことだ。

「おまえに文句言う資格あるのか?おまえのせいでお母さんは死んだんだ
おまえがお母さんを殺したんじゃないか

父は何かある度にこれからも私にそう言うだろう。私は殺人者なのだ


自宅に帰して!

2007-04-17 | 母の事故

身内が亡くなると泣いている暇がない等とよく聞いてはいましたが
まだ母の検視が終わる前から母の葬儀について話し合いがされました

正直私は一生懸命何か私に相談する父に対し
「何この人?今まで散々したいようにしてきてお母さんの葬儀とか言ってんの
そんな事を思っていた。

そもそも母は葬式は絶対にあげて欲しくないと昔から言っていた。
それでもやらない訳にはいかないわけで・・・
私も弟も葬儀については何も判らない
だから結局は父に頼るしかない。 悔しかった。

私は考えが子供なのだろうか?
まだ母の遺体を見てないから余計に葬儀の準備をすること事態が許せないのだ。
しかし母の検視が終わり次第遺体を保管するために移動しなくてはならない。


「自宅に帰る途中で事故にあったのだから自宅に連れてきたい

私はそう強く主張した。この意見には父も耳を傾けてくれたが
結局は自宅は狭いので葬儀社に任せることになるのだが
私はひたすら
「お母さんを連れて帰ってきて
そんなわけ判らないところに連れていかせない
葬儀は式場でも、とにかくお母さんを自宅に帰らせてかわいそう

そう言って一歩も引かなかった。せきを切ったようにそう言って泣き叫んだ

父は私を説得してきた。


わかる。私の意見は本当はそれは少々不可能だとわかってた。
でもその時の私は自宅に帰ろうとして事故にあった母の気持ちを考えると
何が何でもこの自宅に連れ帰りたかったのだ。
それにそうじゃなかったら母がこの家に帰れるのはお骨になってからになってしまう。

「それは嫌絶対に嫌

そして私を説得する父も許せなかった。
その時はおそらく全てを憎んだと思う。私から母を奪おうとする全てを。
しかし父に関しては我が家は色々あり、苦労させられてもいた
決して悪い人ではない。そうだと思う。
だがとにかく自己中心で物を考え意にそぐわないと威圧してくる。
そして何よりも許せないのが


暴力だ


私は常に今思うと衝突しても母が守ってくれてたので
直接暴力は受けた事はない。

そして父は嘘つきでもある

この嘘はもう言い出したらきりがないくらい自分有利な嘘だらけ。

最後はギャンブル

昔、まだ家族みんなで住んでた頃
母がやはり自転車で仕事の帰り道に左折するトラックに巻き込まれ
これがちょっとしたやくざがらみの最悪な人で大変だった事がある。
この事故のときに母の怪我は運良くたいしたことなかったが
父に連絡したくても連絡取れず結局連絡取れたのは
母がもう病院で手当も終わり帰ろうとしてた時である。

「今頃何しに来たんだ

私は病院関係者に注意されるくらい怒り任せに怒鳴った。
父は謝るだけ。まあマージャンしてたのは検討ついてたが私は悔しかった。
毎晩毎晩家にお金を入れるわけでもなく
プラプラ遊び、負けると家族に八つ当たり 

そんな父に別れたくても父の暴力が怖いのもあって
離婚できずにた母。 まあ他にも離婚できない理由はあるが・・・

とにかく私はその数々の父の今までがあるだけに
きつい言い方だが何故父より先に母なのか?
母の人生の締めくくりを何故こいつが仕切っているのか?

私はあまりに母がかわいそうで、かわいそうで仕方がなかったのだ


現実

2007-04-16 | 母の事故

弟が母の確認に出てから私はしばらく泣き続けた。
「お母さん お母さん 何処にいるの?早く帰ってきてよ。
考えられないありえないもう何で帰ってこないの?遅すぎるよ

この言葉を何度繰り返し時間が過ぎたのか・・・、。
しばらくして別居中の父がタクシーを飛ばし自宅へ。

さすがの父も慌てた様子で
「何か(弟から)連絡は? しっかりしろ!」
私は何かにすがるように父に泣きついた
「お父さんもすぐに行くからここでお前は連絡を待ってなさい
そう言って父も慌てて家を出た。

私は父に笑って「大丈夫だよ間違いだよ」たぶんそう言って欲しかったと思う。

また一人になった私は何かにすがるように夜中に電話機を握った

「叔父ちゃん?家に変な電話がかかって来てね警視庁とか言うんだよ」
叔父は母の兄で地方にいる。
定年退職するまでは警察関係の仕事をしていた。
だから私はまるで子供が大人に言いつけるかのようにその電話の内容を話し

「酷くない?そんな間違った電話をするものなの?ねえ?」

そう言って叔父に迫った。
もちろん叔父もびっくりしていたが冷静に私を説き伏せようとした。

この時皆が寄ってたかって私をいじめてくるそう感じた。

どのくらい時間がたっただろう。
このあたりは本当に記憶がないのでどう知らされたか覚えてないが

「お姉ちゃん。正真正銘、お母さんだったよ。」

そう半分泣きそうな顔で笑って言った弟の顔ははっきり覚えている
私はすぐに会いたかったのだが事故死なので
一旦検死解剖をすると言うことで朝を弟と父で自宅で待つことになった。

「お母さんが死んだ。お母さんが死んだ。・・・」悪い夢だとひたすら思いたかった。

私はどういう訳か涙が止まってしまった
あまりのショックでたぶん現実逃避をしたのではないかと思うのだが
この時から不思議と母と対面を果たすまではあまり泣く事はなくなった。


電話

2007-04-14 | 母の事故
自宅の電話がなった
いつもなら私が電話を出るのだが
その日は何故か弟に鳴り響く電話の子機を渡した。

「警察?」

時間は深夜0時を回っていた。
弟のその声で半分寝ぼけていた私は目が覚めた

「お姉ちゃん、お母さんの歳いくつ?」

私は何?って思いながらも不思議とあまりその時は深刻に感じていなかった。
だが弟の顔が歪みこめかみを押さえ明らかに様子が見る見るおかしくなった。

「何?どうしたの?何なのその電話?」私は不安になり電話中の弟に聞き続けた
電話を切った弟は私に

「お姉ちゃん。お母さんが死んじゃった。。。」

何を言っているのか良く判らなかった。
ただ私の記憶が正しければこの時に不安と同時に怒りがこみ上げたと思う。
「悪い冗談だ。こんな深夜にお母さんは何処で何しているのよ 」
まだ帰ってきていない母にたいし「もう夜遊びしないで自宅に帰って来い」そんな事も思っていた気がする。

とにかく弟のその言葉を聞いて私は慌てて母の携帯に電話した。
呼び出し音が鳴る。
すぐに電話が出た 
私はほっとして「お母さん?」と言った。
だが私はとっさに少し変に思った。
母は携帯は苦手でこちらからかけてすぐに出た試しがなかったからだ。

期待は裏切られた
「こちらは警視庁○○です。お嬢さんですか?」
そこからはもう地獄に突きつけられた気分だ。

母の最期を伝える女性警察官の声が言葉なんだけど理解できなく
「はい。」と返事するのが私は精一杯だった。
「大丈夫ですか?こちらにこれますか?」

この電話を切った後私は良く覚えていないが
まだ間違いかもと思い続けた。
そして車椅子で身動き取れない私は弟に母の遺体の確認に向かわせた。

「大丈夫?しっかりして 間違いかも知れないんだしね。
 車でこんな時は行っちゃだめだから歩きで行きなさい 判った?」

そう言って弟を送り出した。
その直後私は急に怖くなり大声で泣いた。
そしてこの馬鹿げた状況が早く間違いだと確認がしたく

始めて自分が車椅子で歩けないという事を恨み、自分の足を何度も何度も叩いた。

だが今となってこの時の事を考えると私は胸が痛む。
弟の気持ちを考えてしまうからだ。
あの時は母は絶対に生きているって信じ、とにかく早く確認したく
その思いだけで弟一人至急向かわせたが
どんなに弟は辛かったか。。。
本当にごめんなさい。
私は無意識に実家に戻ってきてからは弟に頼る癖がついてる。
本当なら意地でも弟を一人にするべきではなかった気がする

この時、この電話がとにかく一瞬にして全てを崩し
私から母を奪いこんなにも深い悲しみと孤独感を知らせるベルになった。




その日の朝

2007-04-14 | 母の事故
その日私と母は普通に会話をした。
来週は母の誕生日 
母自身はその事を覚えていたかは今となっては判らないが
私は足の大きな母に靴のプレゼントを考えていた。

最近は母の仕事が忙しく朝ゆっくり話すことがなかったのに
その日は今思うと本当に珍しく
私がネットを見ながらお母さんの靴を見ていると母も横に座り画面を覗き込んだ

「最近は転びやすいから歩きやすいヒールのものないかしら?
 これから温かくなった時に白い靴が欲しいの~。」

そう言ってニコニコしながらも忙しそうに仕事準備をしていた。
私はそんな母を見ながら今日の服装を見ていた。
母はいちおデザイナーである。
その日の母は最近お気に入りの自分のデザインしたスーツを着ていた。
母がそのスーツを着るときは何か予定がある時なので
私は心の中で今日は営業かな?等と思いながら母の靴をネットで物色した

しばらくすると
「大変 今日は歯医者の予約があったかも
そう言うと2,3言葉を交わし出かけようとする母に

「もうそそっかしすぎ。気おつけてね

そう私が言うと

「はいはい。いってきまーす

そう言う母の後姿を見送った。

これが結局私が生きてる母を見た最後になった。

あの時に何故その服似合うね お気に入りなんだね
そう言ってあげなかったのか。
私にはどうしてもその日の朝の母の姿が忘れられない





事故そして…

2007-04-13 | 母の事故
先月突然母を亡くして私の日常は変わりました。
私の家はと~っても複雑

まず家族構成は
父→養父 かれこれ10年近く母とは別居。
     自宅近くに住んでいて時々家族で食事とかして
     程よく距離を保ちながらの付き合い。
     母の死後は実家に戻ってきて現在自宅2階で生活中

  弟  現在の父の実子でもうすぐ三十路な独身くん。
     どちらかと言うとお母さん子、お姉ちゃん子。 
     融通が利かないまじめ君。今はお仕事が恋人?

  私  これまた独身の3○歳。
     20代のときに難病の多発性硬化症にかかり現在は車椅子生活中
     気が強くてあまのじゃく。

 (母) 先月他界
     男顔負けの働きっぷりで言い出したら聞かない性格。
     愛情は人一倍強く寂しがりや。

♂にゃんこ ゆきちゃん ♀にゃんこ ななちゃん  ♂わんこ ター君

と家族3人と3匹で現在生活中。

それなりに幸せ?だった我が家に突然おきた不幸は
私の生活、いや人生すらも変えてしまおうと今しているのです。

「お母さん。私辛いよ。ひとりぼっちだよ。
 病気の私を置いては絶対に死ねないと言ったでしょ。
 いつだって二人三脚でうっとうしい位私にへばりついてたじゃん。
 私のドレスを作ってくれるって言ったじゃん。」

神様お願いです。
どうか事故が起きたあの日に戻してください。
後5分でも時間がずれてたら・・・
私に母を返して下さい。

毎日、毎日どれだけ涙を流したか・・・。
毎日、どれだけ母にかたりかけているか・・・。
毎日、どれだけ祈っているか・・・。

こんなに深い悲しみがあるなんて私は知りませんでした。
自分が病気になった事よりも、もう歩けないかもと思ったときも
こんなに悲しく涙は出なかった

でもね、悲しみに本当は身をゆだねいつまでも泣いてたいけど
現実は悲しみにくれてばかりはいられないのです
日常は流れていくのです。もの凄い勢いで変化していくのです