●[ 江 戸 時 代 ] ●大江戸泉光院旅日記
★野田 泉光院 http://p.tl/oI9J
(のだ せんこういん、宝暦6年(1756年) - 天保6年(1835年))
江戸時代の修験僧(山伏)。本名は「成亮」(しげすけ)。俳号は一葉。
野田氏は代々佐土原藩に仕えており、当山派修験安宮寺の住職を務めた。
泉光院は文化9年9月3日(1812年10月8日)、全国の諸山を巡る修行に出て、全国各地を訪れ、文政元年11月7日(1816年12月4日)佐土原に帰った。
その6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。これは当時の風俗を生き生きと活写している貴重な史料として、歴史家より高く評価されている。
●著書
・野田泉光院『日本九峰修行日記』杉田直編、私家版、1935年
・野田泉光院『日本九峰修行日記』鈴木棠三校注『庶民生活史料集成2』1969年、三一書房
・宮本常一『野田泉光院』(未來社、1980年)
・石川英輔『泉光院江戸旅日記』(講談社、1994年)
・石川英輔『大江戸泉光院旅日記』(講談社、1997年)
★大江戸泉光院旅日記 著者 石川英輔 講談社文庫 http://p.tl/x4r0
★山伏(やまぶし)http://p.tl/DIOd
山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者。「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。
奈良吉野山地の大峯山(金峯山寺)を代表に、大山(鳥取県)や羽黒山(山形県)など日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破(抖擻)し、懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。
頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ。袈裟と、篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏う。
山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持つ。
天狗や烏天狗は、山伏の装束を身に纏う。
★修行(しゅぎょう、異音:すぎょう)http://p.tl/DlZ5
仏教における精神の鍛錬に関する用語の一つ。
財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。
この仏教用語を元に、古代インド宗教における同質の行為や、他の宗教における精神鍛錬にも、固有の用語が無い場合にはこの語が用いられる(例:イスラーム修行)。
また一般的には、世俗的な習練、習い修めを表す語である「修業」と混同されて呼ばれることも少なくない(詳しくは後述する)。
★修験道(しゅげんどう)http://p.tl/qtDM
山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という。
★行者には、次の意味がある。http://p.tl/faw3
1.行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意であり、本来は仏教に限らず、広く古代インド宗教全般に見られ、特に断食行や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名であり、釈迦も悟りを開く前に苦行をしていた事で知られる。中国・日本に於いては、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道の開祖である役小角は「役行者」と呼ばれている。修験道の行者については山伏も参照。
2.行者(あんじゃ)とは、仏教寺院において僧侶のように出家をせず、俗人のまま、米搗きや薪拾いなど寺の雑務を行う労働者の事である。特に中国禅宗に多く見られ、禅宗六祖の慧能が、五祖の弘忍のいた黄梅山で「盧行者」として米搗きに従事していた時に弘忍から六代目として認められた事例が有名である。これが転じて、現在の日本の禅宗寺院では、高位の僧侶の身辺の世話をしたり秘書的な仕事を行う僧侶を行者と呼ぶ場合がある。
3.『西遊記』において孫悟空のこと。「悟空」という諱を避ける避諱のため「孫行者」とか「行者」と記されている。この名前は、『西遊記』の元となった宋代の説話「大唐三蔵取經詩話」で三蔵法師(玄奘三蔵)を守護した猴行者に由来する。
★山岳信仰(さんがくしんこう)http://p.tl/DQfE
山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であると思われる。
山岳地に霊的な力があると信じ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出される。
★自然崇拝(しぜんすうはい)http://p.tl/IVhT
自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称。
「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。
自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を神格化した神が登場することから、古くは普遍的であったと思われる。
万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとも関係が深く、その原初的な形とも捉えられる。
しかし自然崇拝では精霊でなく自然物・現象そのものを崇拝対象とする(自然と超自然的存在を区別しない)場合も多く、またしばしば特定の自然物・現象だけを尊重する点で区別される。
★磐倉・岩倉・磐座(いわくら)http://p.tl/oHuK
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)である古神道のなかの一つの信仰をさす。
★鎮守の森(ちんじゅのもり)http://p.tl/yEEN
日本において、神社に付随して参道や拝所を囲むように設定・維持されている森林である。
鎮守の杜とも。
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで神代・上代(かみしろ)ともいう。
★古神道(こしんとう)とは、http://p.tl/-EWM
1.仏教以前の日本の宗教。原始神道。
2.江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教以前の日本の宗教を理想としている。通常はこちらを古神道という。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。
大本などに影響を与えた。
★神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)http://p.tl/KeIO
神霊(神や御霊)が神留る(かんずまる)場所としての御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を無数に擁した領域の事や、自然環境を神体(しんたい)とした神代(かみしろ)のひとつの在り方。
神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山(霊峰富士、山岳信仰)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいう。
神籬と磐座の総称でもある。
依り代となる森林や岩などが見られない神奈備も存在し「神奈備野」と呼ばれる。
★神代(かみしろ)http://p.tl/DHV3
宗教上において神の化身または神そのものと扱われること。
日本人の姓のひとつ
★依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)http://p.tl/hYyd
神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域をしめす。
★神体(しんたい)http://p.tl/rw98
神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。
大神神社では三輪山が神体とされ[2]、皇大神宮では三種の神器の一つの八咫鏡とされるなど様々である。
その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。
★神域(しんいき)http://p.tl/QNym
神社の境内または神が宿る場所(依り代)のこと。
あるいは、それから派生して重要な場所という意味でも使われる。
★社(やしろ、しゃ)http://p.tl/jkgf
社 - 神社
★神社(じんじゃ・かむやしろ)http://p.tl/2DiS
神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。
すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会や寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
★祭祀と祭礼 http://p.tl/XZ4n
祭祀と祭礼に厳密な区分はない。便宜的な区分である。
「まつり」は、超自然的存在への様式化された行為である。
祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた(祭祀の段階)。
祭祀は定期的に行われるとは限らないが、年中行事や通過儀礼と関連して定期的に行われるものが多い。
このことによって、「まつり」は、日常生活のサイクルと深く結びつき、民俗学でいう「ハレとケ」のサイクルのなかの「ハレ(非日常性)」の空間・時間を象徴するものとなった。
社会的に見れば、共同体全体によって行われ、共同体統合の儀礼として機能した(祭礼の第一段階)。
★「ハレとケ」http://p.tl/XyLq
柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
もともとハレとは、折り目・節目を指す概念である。ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=折り目・節目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。
これ対し普段着を「ケ着」といったが明治以降から言葉として使用されなくなった。
また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代までさかのぼると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。
ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった。
また、そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられなかった。
★ハレ、ケ、ケガレ http://p.tl/5cP0
★縁日(えんにち) http://p.tl/czZU
神仏との有縁(うえん)の日のことで、神仏の降誕・示現・誓願などの縁(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日である。
この日に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられた。
特に、年の最初(または月の最初)の縁日を初(はつ)○○(初天神、初観音、初不動など。干支を縁日とする場合は初午、初巳など)と称し、年の最後の縁日を納め(おさめ)の○○または終い(しまい)○○と称される。
近代以降では、神社などで行われる祭り(露店などが多く出る)の日のことを指す場合も多い。
★縁(えん)http://p.tl/MuH5
・巡り合わせとしての「縁」は、運命を参照。
・血縁的つながりとしての「縁」は、親族・続柄を参照。
・日本の住宅構造の「縁」は、縁側を参照。
・仏教における「縁」は、因縁・縁起を参照。
・縁(ふち)
・物の端の部分。
・眼鏡のふち
・額縁
★運命(うんめい)、宿命(しゅくめい)とは、元から定められている巡り合わせのこと。
http://p.tl/hh3R
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???★相対的幸福(そうたいてきこうふく)???
創価学会内部で用いられる、第2代会長・戸田城聖が提唱した概念で、物質的充足や社会的地位などによって得られる幸福を指す。具体的には、財産、名誉、権力などがこれに当たる。
これらが適度に満たされていれば、天界の状態であり、一応は幸福な状態であるといえよう。
しかし、物質的充足や社会的地位は永遠不変のものではありえないため、それらを失えば、人は容易に不幸を感じる状態へと転落する。
これに対し戸田は、日蓮の教えである「南無妙法蓮華経」を信仰することにより得られる絶対の安心と確信の境涯を指して、絶対的幸福と称した。
???★絶対的幸福(ぜったいてきこうふく)???
仏教用語で「相対的幸福」に対する価値として想定された幸福の概念である。
創価学会第2代会長・戸田城聖によって強調され、学会では現在まで重要な概念、信仰の目標となっている
★野田 泉光院 http://p.tl/oI9J
(のだ せんこういん、宝暦6年(1756年) - 天保6年(1835年))
江戸時代の修験僧(山伏)。本名は「成亮」(しげすけ)。俳号は一葉。
野田氏は代々佐土原藩に仕えており、当山派修験安宮寺の住職を務めた。
泉光院は文化9年9月3日(1812年10月8日)、全国の諸山を巡る修行に出て、全国各地を訪れ、文政元年11月7日(1816年12月4日)佐土原に帰った。
その6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。これは当時の風俗を生き生きと活写している貴重な史料として、歴史家より高く評価されている。
●著書
・野田泉光院『日本九峰修行日記』杉田直編、私家版、1935年
・野田泉光院『日本九峰修行日記』鈴木棠三校注『庶民生活史料集成2』1969年、三一書房
・宮本常一『野田泉光院』(未來社、1980年)
・石川英輔『泉光院江戸旅日記』(講談社、1994年)
・石川英輔『大江戸泉光院旅日記』(講談社、1997年)
★大江戸泉光院旅日記 著者 石川英輔 講談社文庫 http://p.tl/x4r0
★山伏(やまぶし)http://p.tl/DIOd
山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者。「修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。
奈良吉野山地の大峯山(金峯山寺)を代表に、大山(鳥取県)や羽黒山(山形県)など日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破(抖擻)し、懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。
頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ。袈裟と、篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏う。
山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を持つ。
天狗や烏天狗は、山伏の装束を身に纏う。
★修行(しゅぎょう、異音:すぎょう)http://p.tl/DlZ5
仏教における精神の鍛錬に関する用語の一つ。
財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。
この仏教用語を元に、古代インド宗教における同質の行為や、他の宗教における精神鍛錬にも、固有の用語が無い場合にはこの語が用いられる(例:イスラーム修行)。
また一般的には、世俗的な習練、習い修めを表す語である「修業」と混同されて呼ばれることも少なくない(詳しくは後述する)。
★修験道(しゅげんどう)http://p.tl/qtDM
山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という。
★行者には、次の意味がある。http://p.tl/faw3
1.行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意であり、本来は仏教に限らず、広く古代インド宗教全般に見られ、特に断食行や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名であり、釈迦も悟りを開く前に苦行をしていた事で知られる。中国・日本に於いては、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道の開祖である役小角は「役行者」と呼ばれている。修験道の行者については山伏も参照。
2.行者(あんじゃ)とは、仏教寺院において僧侶のように出家をせず、俗人のまま、米搗きや薪拾いなど寺の雑務を行う労働者の事である。特に中国禅宗に多く見られ、禅宗六祖の慧能が、五祖の弘忍のいた黄梅山で「盧行者」として米搗きに従事していた時に弘忍から六代目として認められた事例が有名である。これが転じて、現在の日本の禅宗寺院では、高位の僧侶の身辺の世話をしたり秘書的な仕事を行う僧侶を行者と呼ぶ場合がある。
3.『西遊記』において孫悟空のこと。「悟空」という諱を避ける避諱のため「孫行者」とか「行者」と記されている。この名前は、『西遊記』の元となった宋代の説話「大唐三蔵取經詩話」で三蔵法師(玄奘三蔵)を守護した猴行者に由来する。
★山岳信仰(さんがくしんこう)http://p.tl/DQfE
山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であると思われる。
山岳地に霊的な力があると信じ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出される。
★自然崇拝(しぜんすうはい)http://p.tl/IVhT
自然物・自然現象を対象とする崇拝、もしくはそれらを神格化する信仰の総称。
「自然への崇拝」ではなく、「自然」という概念ができる以前の崇拝形態である。
自然崇拝は世界各地に見られ、また各地の神話にも自然物・現象を神格化した神が登場することから、古くは普遍的であったと思われる。
万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとも関係が深く、その原初的な形とも捉えられる。
しかし自然崇拝では精霊でなく自然物・現象そのものを崇拝対象とする(自然と超自然的存在を区別しない)場合も多く、またしばしば特定の自然物・現象だけを尊重する点で区別される。
★磐倉・岩倉・磐座(いわくら)http://p.tl/oHuK
日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)である古神道のなかの一つの信仰をさす。
★鎮守の森(ちんじゅのもり)http://p.tl/yEEN
日本において、神社に付随して参道や拝所を囲むように設定・維持されている森林である。
鎮守の杜とも。
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで神代・上代(かみしろ)ともいう。
★古神道(こしんとう)とは、http://p.tl/-EWM
1.仏教以前の日本の宗教。原始神道。
2.江戸時代の復古神道の流れを汲み、幕末から明治にかけて成立した神道系新宗教運動。仏教以前の日本の宗教を理想としている。通常はこちらを古神道という。神道天行居や出雲大社教、神理教、古神道仙法教などの教団が存在している。
大本などに影響を与えた。
★神奈備(かむなび・かんなび・かみなび)http://p.tl/KeIO
神霊(神や御霊)が神留る(かんずまる)場所としての御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を無数に擁した領域の事や、自然環境を神体(しんたい)とした神代(かみしろ)のひとつの在り方。
神が「鎮座する」または「隠れ住まう」山や森の神域をさし、神籬(ひもろぎ)磐座(いわくら)となる森林や神木(しんぼく)や鎮守の森や神体山(霊峰富士、山岳信仰)をさし、または岩(夫婦岩)や滝(那智滝)などの特徴的な自然物がある神のいる場所をいう。
神籬と磐座の総称でもある。
依り代となる森林や岩などが見られない神奈備も存在し「神奈備野」と呼ばれる。
★神代(かみしろ)http://p.tl/DHV3
宗教上において神の化身または神そのものと扱われること。
日本人の姓のひとつ
★依り代、依代、憑り代、憑代(よりしろ)http://p.tl/hYyd
神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や場合によっては神域をしめす。
★神体(しんたい)http://p.tl/rw98
神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。
大神神社では三輪山が神体とされ[2]、皇大神宮では三種の神器の一つの八咫鏡とされるなど様々である。
その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。
★神域(しんいき)http://p.tl/QNym
神社の境内または神が宿る場所(依り代)のこと。
あるいは、それから派生して重要な場所という意味でも使われる。
★社(やしろ、しゃ)http://p.tl/jkgf
社 - 神社
★神社(じんじゃ・かむやしろ)http://p.tl/2DiS
神道の信仰に基づき作られた、恒設の祭祀施設。一方で神社によっては式年遷宮の習わしがあり(代表例は伊勢神宮)、必ずしも同じ社が恒設される物ではない。
古くは社殿がなくとも「神社」とした。山、滝、岩、森、巨木など多く自然を畏れ「カミ」(=信仰対象、神)とみなしたのである。
すなわち現在の社殿を伴う「神社」は、これら神々が祭祀時に御神体から移し祀られた祭殿があって、これが常設化した物だと考えられている。教会や寺院といった礼拝堂や説法・布教する場とは趣が異なるのが特色である。
現在では参拝用の施設の他に、結婚式の設備(斯様な近代的建築としては明治神宮外苑が顯著)などが造られることも多い。戦前にはいわゆる「国家神道」のことを単に「神社」と称した。
★祭祀と祭礼 http://p.tl/XZ4n
祭祀と祭礼に厳密な区分はない。便宜的な区分である。
「まつり」は、超自然的存在への様式化された行為である。
祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従の意思を伝え、意義を確認するために行われた(祭祀の段階)。
祭祀は定期的に行われるとは限らないが、年中行事や通過儀礼と関連して定期的に行われるものが多い。
このことによって、「まつり」は、日常生活のサイクルと深く結びつき、民俗学でいう「ハレとケ」のサイクルのなかの「ハレ(非日常性)」の空間・時間を象徴するものとなった。
社会的に見れば、共同体全体によって行われ、共同体統合の儀礼として機能した(祭礼の第一段階)。
★「ハレとケ」http://p.tl/XyLq
柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。
ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
もともとハレとは、折り目・節目を指す概念である。ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=折り目・節目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。
これ対し普段着を「ケ着」といったが明治以降から言葉として使用されなくなった。
また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代までさかのぼると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。
ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった。
また、そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられなかった。
★ハレ、ケ、ケガレ http://p.tl/5cP0
★縁日(えんにち) http://p.tl/czZU
神仏との有縁(うえん)の日のことで、神仏の降誕・示現・誓願などの縁(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日である。
この日に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられた。
特に、年の最初(または月の最初)の縁日を初(はつ)○○(初天神、初観音、初不動など。干支を縁日とする場合は初午、初巳など)と称し、年の最後の縁日を納め(おさめ)の○○または終い(しまい)○○と称される。
近代以降では、神社などで行われる祭り(露店などが多く出る)の日のことを指す場合も多い。
★縁(えん)http://p.tl/MuH5
・巡り合わせとしての「縁」は、運命を参照。
・血縁的つながりとしての「縁」は、親族・続柄を参照。
・日本の住宅構造の「縁」は、縁側を参照。
・仏教における「縁」は、因縁・縁起を参照。
・縁(ふち)
・物の端の部分。
・眼鏡のふち
・額縁
★運命(うんめい)、宿命(しゅくめい)とは、元から定められている巡り合わせのこと。
http://p.tl/hh3R
★
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???★相対的幸福(そうたいてきこうふく)???
創価学会内部で用いられる、第2代会長・戸田城聖が提唱した概念で、物質的充足や社会的地位などによって得られる幸福を指す。具体的には、財産、名誉、権力などがこれに当たる。
これらが適度に満たされていれば、天界の状態であり、一応は幸福な状態であるといえよう。
しかし、物質的充足や社会的地位は永遠不変のものではありえないため、それらを失えば、人は容易に不幸を感じる状態へと転落する。
これに対し戸田は、日蓮の教えである「南無妙法蓮華経」を信仰することにより得られる絶対の安心と確信の境涯を指して、絶対的幸福と称した。
???★絶対的幸福(ぜったいてきこうふく)???
仏教用語で「相対的幸福」に対する価値として想定された幸福の概念である。
創価学会第2代会長・戸田城聖によって強調され、学会では現在まで重要な概念、信仰の目標となっている
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