憔悴報告

All about 映画関係、妄想関係、日々の出来事。

思考のひとり歩きに浸ってみたり

2006年08月27日 | 世の中
映画を語る多くの文章の中に登場する言い回しについて。

○ハリウッド的
暗黙の了解のようにみんなが使っている。
しかし、それは具体的にどういうものなのか?
例えば、「アメリカ文化が都合よく埋め込まれている」ということなのか?
しかし、映画の中で(たとえそれがどんなものであれ)何らかの要素が都合よく登場することがそんなに悪いことなのだろうか?
ただ単に、みんなアメリカが嫌いだからイライラしているのだろうか?
思うに、ハリウッド的であることは全然悪いことではない。
悪いのは、それが「つまらない」場合に限る。
そのときに、ヒステリックにハリウッドを持ち出すのは問題で、本当につまらないと思うならもっと具体的に罵倒すべきである。
「映像が退屈」「お話が退屈」「特撮がよくない」、何でもいい。
「拳銃が主人公の助けになるのがダメだ」「主人公が都合よく勝つのが気に入らない」など。
果たしてそれが本当につまらなさの原因なのか、それともただ単にその人の好みに反するだけのことなのかは、読む人が決めればいい。
具体的であればあるほど、それは(あらゆる意味で)次に繋がっていく。

○深さ
馬鹿を露呈するようだが、「ドラマが深い」などという言い回しの意図がよくわからない場合が多い。
そもそも、深ければよいとも思わない。
なんだかものすごく特権的なイメージの言葉なので、つい避けてしまう。
例えば「深さ」とは、多義性のことだろうか?
あるいは、哲学的な、人生についてのいろいろを連想させるような表現のことだろうか?
それは本当に必要なのだろうか?
必要ではないが、あった方がよいものだろうか?
しかしここに問題が生じる。
多くの場合、人生を真剣に考えることは暗い結末を呼び込む。
ぶっちゃけて言えば、ドン詰まる。
間違いない。
人生を深く考えることは、見世物として楽しい映画であることと相反するということか、いや、そうではない。
これもまた抽象的な言い方になってしまうが、「論文」のように映画の物語を構成する必要などない。
必要なのは、それを背景にイメージさせつつ、どこかに「抜け道」を用意することではないだろうか。
なんとなく行き詰って悩んでいるような物語が多くて食傷気味な今日この頃だ。
悩むにしても、もっと多様に悩んで欲しい。

○物語の権力性
今に始まったことではなく、昔からよく考えること。
みんな気が付いているのかどうか分からないが、物語というのは一種の権力である。
どんな物語であってもそれは変わらない。
多くの映画では、物語という巨大な権力に追従するように、個々の出来事・キャラクターが右往左往する。
例えば、『スターウォーズ』の新三部作で最も大きな問題点はこれに尽きる。
ジョージ・ルーカスという大権力者が、物語という権力によってあらゆる映画の豊かさを蹂躙していくという構図に、まったく気づかなかったとは言わせない。
あの映画の息苦しさは、この点に集約されている。
しかし、映画作家は映画作家である時点で権力者である。
ゆえに、その権力をどのように使うかは映画作家という個人の裁量による。
個人的には、物語を破壊し、蹂躙していくような突出した要素を持った映画も好きで、それは自分自身がちっぽけな小市民であることの影響が大きいのだろう。
映画の中にある政治性というのは、こういうところに大きく見て取れるものだ。
物語にこだわることなかれ。
それはときに、あなたという無邪気な人間をひとつの場所に留まらせ、エネルギーの移動を躊躇させる。
それでも映画には物語がある。

○「社会派映画」というジャンル
今一番頭を抱えている問題。
というのも、どうもこの「社会派」なるものは、他のどのジャンルとも決定的に異なり、特権的に映画を束縛する要素を備えているように思えるのだ。
恋愛、ホラー、SF、コメディ、それらは、そのジャンルである時点で映画と仲良く共存できる。
しかし、社会派となるとどうだろうか。
なにかこれは、映画のジャンルではないような気がする。
重要なのは、ジャンルというのはある「おもしろさ」の形式である、という点だ。
物語の形式だとは限らない。
ほとんど同じ物語が、ホラーにもコメディにもなりうることを皆知っている。
しかし、社会派だけはそうとは言えないのかもしれない。
社会派とは、どうやら物語性に大きく依存したジャンルであるらしい。
社会派という言葉が、物語という権力と連動した現在の状況が、何かとてつもなく不穏なものに思えるのは気のせいか。
つまりこういうことだ。
『スタンドアップ』や『ミュンヘン』や『ジャーヘッド』は、映画のジャンルとしては「社会派映画」ではない。
別の何かのジャンルであるものが、それでもなお「社会派」と呼ばれるということが、この言葉の特権性を如実に表している。
何か別の言葉では代替できないものか。
事実を基にしているなら、「事実映画」とでも呼べばいい(それはそれで問題がありそうだが)。
しかし、世に流通して都合がいいのは「社会派映画」の方である。
要するに、おれが困っているのは映画のメディア性についてなのか。
そう言えば、たまたま通りすがった複数のサイトでは、今テレビが本当にひどいと嘆かれていた。
では映画はどうか。
そもそも、「ひどい」とはどのようにひどいのか。
権力に対する寄りかかりか。
流通原理の崩壊か。
「おもしろいもの」が「流通する」のではなく、「流通するもの」が「流通する」というアレか。
ところが、そのような状況はもうずっと前からそうだったような気がするのはおれの気のせいか。
根本的なところで、やはり世の中はずっとおかしかったのだ。
最近始まったことではない。
そして、多分これからもおかしいだろうという雰囲気が、とてもつらい。

業務報告
●しょうがないので『ラフ』を観てきます。


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6 コメント

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僭越ながら… (trichoptera)
2006-08-28 03:58:48
言葉の意味するところってのは人、時、文脈によって随分違うんじゃないかと思います。



“ハリウッド的”というのは記事で仰っている“アメリカ文化が都合よく埋め込まれている”だとかの他に、“お金がかかったスペクタクルな”とか、“ポップコーン映画”とか、いろいろな意味を含んでいると思います。

で、“ハリウッド的”という言葉を使うとき、常にこれらの意味全てを内包するわけでなく、時や文脈によってそのうちのどれかを指し示すのではないかと。

時にはポジティブな意味でも使われ、例えば ベン・ハー、スパルタカス、グラディエーターなどの歴史巨編はポジティブな意味でハリウッド的スペクタクルだと言っちゃったりするんじゃないでしょうか。

語意が曖昧ということは言えるでしょうね。書いてる本人もはっきりした定義がなかったりして。いかにも日本語らしい言葉だなとは思います。



ユナイテッド93は社会派らしいですが、単純にノンストップアクション?としておもしろかったですよ。正直、見終わって悲しくなったとか、涙が出そうにとか、厳粛に受け止めたりは決してなかったですが。観客がそういった感情を持つというのは映画の外の話でしょう。

そもそもユナイテッド93便の“最後”は知りませんでしたので“隣人は静かに笑う”的衝撃を受けました。



長文失礼しました。
曖昧さというか (ryodda)
2006-08-28 07:59:13
コメントどうもです。

おっしゃっていることはとてもよく分かりますし、ここで挙げたような言葉の使い方をする人の感覚も分かることは分かるんです。

ただなんというか、映画についてだけではなく、儀礼的ですらある単調さ、何の具体的思考も誘発しない安堵のための言葉、そういった感じを、どうしても受けてしまいます。

言葉を介さずとも共通の感覚で繋がっていられる「常識」の内部での議論しかないというか。

非常識に振れることを無意識に避けているような感覚は、やはり「日本人だから」なんでしょうか?

映画は非常識の領域のものだと思うんですが、つまり映画すら常識に引きずられているような気がします。

「社会派」という言葉にもそういった「常識」の抑圧を感じます。

やはりこれはメディア論でしょうか?



『ユナイテッド93』は、なんだかんだで8月に観た中では一番おもしろかったです。

その前提で言っちゃうと、まず長い。

長いというか、「どうだ、ドキュメンタリーみたいだろ」みたいな無意味なカットが無駄に多いです。

しかし、この映画での「情報の遅れ」や、司令室(って言っちゃまずい?)のモニターに無数に表\示される緑色の点をグロテスクに見せてしまうところなどは、さすがにうまいです。

グリーングラスのプチファンとしては、次回も期待できます。
すみません… (trichoptera)
2006-08-28 22:10:49
ちょっと言葉の定義自体に固執したコメになってしまいましたね…



突き詰めれば、ハリウッド的という言葉の使い方のことを仰ってるということでいいですか?あまりに使い所も、自分の意図するところも考えないで使う場合が多いので、“儀礼的ですらある単調さ、何の具体的思考も誘発しない安堵のための言葉”という性質を帯びてしまったと。表現の一部ではなく、それで全てを片付けてしまう言葉として使われていると。かなり勝手な解釈ですがw

ちょっと関係ないかもですが、ユナイテッドの感想がどこもかしこも“悲しい”だとか“忘れてはいけない”ばっかりなのが、社会派という言葉で片付けて思考停止しているように見えてしまいます。“社会派”の使いどころが違うだろうと。



う~ん、メディア論ですか…全く分かりませんが、少なくとも“映画の周りのメディア”の話な気はしますね…ただ社会派を作り手が標榜した時点で“映画のメディア性”の問題かなとは思いますが。

なんだか全般的に論点を外してますね…ごめんなさい



ユナイテッドは良く思い出したら前半ほぼ寝てましたw

前半見てないのに言うのはちょっと反則臭いですね。



>物語にこだわることなかれ



耳が痛いです
Unknown (ryodda)
2006-08-29 06:01:01
いやそんな、こっちこそすみませんって感じですが。笑

そうですね、言葉の使い方、それと映画の語られ方についての話ってことになるのかなと。

いわゆる普通の人たち、つまり映画マニアじゃないってことですけど、そういう人たちの映画の感想が、ずいぶん変わってきたような気がします。

まあメッセージ性とか教訓性、そういうのを重視する傾向があるようで。

正論を言って欲しいんでしょうけど、これが政治とか、あるいは「社会派」の枠ではただ正論だからいいってわけにはいかないはずで、そのへんなんか危ないなあって。

おとぎ話の正論は子供向け、みたいな雰囲気感じちゃうんですけど、どうなんでしょうね?
この記事に貼りつけるしかない、と (taka)
2006-09-10 00:51:28
この上の記事については

読んで以来、自分の中でその答えを

模索中なんですが、



それはさておき

この記事を見てどう思います?

http://www.be.asahi.com/20060909/W13/20060

831TBEH0011A.html



スタートがどうであれ、

出来た映画が面白ければそれで

いいんでしょうか。



でも、「子ギツネヘレン」が

面白くない理由がわかったような気がしますよ。

(見てないけど。)



ちなみに

このページの裏は

「ゲルマニウムの夜」を上映するため

映画館まで建ててしまった

自分の思いむき出しのタフな人の記事でした。

編集方針がよくわかりません。

http://www.be.asahi.com/20060909/W14/20060830TBEH0004A.html
これは (ryodda)
2006-09-11 12:29:35
タフな話題を突きつけてきますね。笑



まず言えるのは、これは個人的な映画制作観なんですが、「すべてを適切に計画し、そのプラン通りに撮影・編集すればそれはよい映画である」という、まさにビジネスライクな考え方に断固として反対です。

そんなものはゴミだと。

このことは、今まで何度となく触れてきた「脚本主義」的な考え方への反発ともおおいに関係しています。

高橋洋が言うところの「脚本でしかない映画」、また「彼らは、このフィルムで出来た脚本をもとにもう1本映画を撮るべきだったのだ」というやつです。

脚本とストーリーと物語。

すべて同じようでいて、実はまったく別の概念である、というのがポイントだと思います。

まず、このことに対してあまりに無防備な人たちが多すぎる。



takaさんが引用された記事については、いわゆる「ハリウッド方式」の映画制作のことだと思いました、単純に。

で、韓国映画なんかはまさにこのやり方で産業的成功を収めたわけです。

だから何だ、それがうらやましいのか、と思う反面、別にこのやり方が間違っているとも思いません。

なぜなら、このやり方においても、やっぱり製作システムの間隙を巧妙に、したたかに利用した傑作というものは製作可能だと思うからです。

それを、監督だけのせいにするわけにはいきません。

とにもかくにも、いったい何のために映画は作られるのか、という一点に、この問題は集約されるのではないでしょうか。



人はなぜ映画を観るのか。

お金を払った分の「喜び」や「満足感」を得るため?

確かにそれはそうです。

しかし、実はそれはそうたいしたことではない。

資本システムの中で、産業として生存していかねばならない映画というジャンルの中において、しかし資本のため、観客の満足度のためだけの映画なるものが存在したとして、それもやはりゴミなのではないでしょうか。

自分としては、素朴に、単純に映画を楽しみたいと思っています。

しかし一方で、そのときの自分を満足させてくれるだけの映画なんてまっぴらごめんだとも思うのです。



映画は、もはやはっきりと世界単位で動いています。

興行、各映画賞、観客の反応。

しかし、映画の目指すべき地点は実はそのどれでもない。

自分はこれを、まさに映画の「暴力性」だと思っています。

映画は暴力であり、反逆であり、だからこそ娯楽であり、そしてすさまじい需要がある。

だから映画はおもしろい、と、そう言っておきましょう。