光のかけ橋

心と癒しの世界

教外別伝

2011-09-03 07:14:41 | Weblog
お釈迦様が霊鷲山の集まりで、何も言わずに、蓮の花をすっとお示しになりました。

しかし、その意味は誰にもわかりません。

その時に、それを見て摩詞迦葉尊者お一人がにっこり微笑まれました。

今からおよそ2500年前にお釈迦様が悟りを開かれて、時空を超えて、人の心から心にと伝わったと言われがあります。

この摩詞迦葉尊者ただ一人だけが微笑まれたと言うものでした。

このお釈迦様が一輪の蓮の花をお示しになり、見てにっこりされたと言う事は、

お釈迦様の悟りが摩詞迦葉尊者の心に伝わっていったものだと思います。

お釈迦様の時代に沢山の修行者がいても、ただ一人の摩詞迦葉尊者だけがお釈迦様の蓮の意味を理解できたと言う事なんですね。


光のかけ橋 日記より

釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません

心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。

したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、

師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。

また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。

弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。

何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができます。

また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。

言葉や文字では、究極のところは伝わりません。

我々は改造中の仏だ?

2011-09-02 19:21:31 | Weblog
悟り(見性)とは本来の自己、仏に出会うことだと思います。

本来の自己とは仏です。

我々は改造中の仏だとインドの覚者が言っていましたね?

改造中の仏だと知っているが、まだ他の方は知らないだけだと語っていますね


これらの体験は開祖などが経典などに残しているものです。

今の時代では悟り(見性)を開くのは難しいかもしれませんが、

でも、正道を歩んでおられる師の下で坐ったり、行を行えば、

きっとそれなりの体験はできると思います。


八正道は小乗っていって、仏教の教えの中にありますが、大乗のほうが素晴らしいと説いてある方がいます。

それはそうかもしれません。

でも、小乗と言われている八正道の実践も出来ていないのに、大乗の実践はできないと思います。

禅やメイディションを行っている方は八正道の大切さをよく解かっていると思います。


上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)・旧名称<小乗仏教>
  小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずであります。
「乗」とは教えの事で、乗り物にたとえられ、小乗とは小さな乗り物です。なぜなら、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけがさとりを開き救われます。したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われません。釈迦の没後の、長い間この思想が定着していました。

★ 小乗仏教(小さな乗り物)という名称は、大乗仏教からつけた差別語なので、  最近では「上座部仏教(じょうざぶ)」といわれています
る、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教です。大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。
教えの違いにより「顕教(けんぎょう)」と「密教(みっきょう)」とに分かれています。


尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん』 新訳 聖書「マタイによる福音書」にもありますからね。、

自分の信じるものを信じて、求めて行ったらいいと思います

座禅をしたいと思ったら座禅をすればいい。

瞑想をしたいと思ったなら瞑想をすればいい。

今は能力を持ちたいと思えば、能力を持つようにすればいい。

そこで留まりたいと思えば、留まればいい。

でも、その奥に行きたいと思ったなら、始めればいいだけの事です


それらの体験をできたのは、他の兼ね合いをやめて、計算をやめて、批判(ジャツジ)しない

それはそれにふりまわされず、世間の一切、その風景として手放しをして行ったことが結果的に良い方向に行ったと思います。

ここで言う、正しい道とはお釈迦様の仏教、キリスト様の聖書、沢山の開祖が説いておられる正法です。


眼の前にあるのは壁、正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐(ただ座禅)して行く事が大事だと思います。

自己が自己をする、ただ座禅が座禅を座禅するということかもしれません。

正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思います。



仏性を見る。

2011-09-01 11:04:23 | Weblog
芭蕉が松島を見たとき、「松島や あ、松島や松島や」松島以外の言葉がでていませんでした

「花は紅、柳は緑」といいます。きのうなずなの花を見、柳の木を見ていたのですが、きょうは全然違って見えたというのです。

白秋は「ばらの木にばらの花咲く何事の不思議なけれど」
歌っています


見性成仏

直ちに指し示される人心とは、私たちの心の奥にある仏心にほかなりません。

この仏心、つまり真の人間性に出会い、まみえて、自分が、ほんとうの自分になることを「見性成仏」といいます。

仏というのは真実の人間のことですから、成仏とは人間完成であり、人間成就のことなのです。

見性の「性」とは「心」と同じ意味で、人間の本性のなかに、仏となるべき仏性がひそんでいるということです。

借りに、迷いに満ちている醜い心であっても、その心に成仏の因である仏性があり、

煩悩(一切の妄念)の心に仏となる功徳が宿っているとみすえるのが見性成仏ということになります。

心というのは、求めても求めてもつかめるものではないし、決まった形がないという事実を、

みずから観念ではなく体験として知ることが「安心」を得ることであり、成仏することなのです。


祗管打坐(座禅している)

2011-08-30 09:44:50 | Weblog
主体と客体の合一

眼の前にあるのは壁、正しい坐相をねらって筋肉と骨格で、思いを手放し

雑念にふりまわされず、祗管打坐して行く事が大事だと思います

主体とは自分自身のことであり、また客体とは対象物を指します。

それが正しい坐相によって、自分が対象物に溶け込み一体となることが、主体と客体の合一な体験であります。


座禅修行や瞑想においては、スカッとする時もありますし、気分が滅入る事もあります。

曇りには曇りなりに、雨の日には雨の日なりに、晴れの日には晴れなりに、

その時、その時の生理現象、心理状態がある事が当然であり、

それはそれにふりまわされず、その風景として手放しをして行くことが大事だと思います。


内山興正禅師は思いを浮かばなくするというよりというより、因果関係を静かな目で見ていながら、

それにふりまわされず、じっと座っていることこそが大切で、祗管打坐(座禅している)ということなんだそうです。

居眠りせぬよう、考え事にならぬよう、いきいきと覚めて、骨格と筋肉で、正しい坐相をねらって、行くことが大切ですね。

道元禅師は座禅することによって、特別な悟りを開くというより、そのための座禅であってはならない。

つまり座禅する、そのことこそが悟りそのものであり、身心脱落であり、

座禅するということは、この悟りを今ここで実際に修行し、実物するのみだそうです。

まず、きちんとした実相をねらって、座禅をするという事が求められると思います。

他の兼ね合いをやめて、打算をやめて、自己が自己をする、ただ座禅が座禅を座禅するということかもしれません。

聖フランチェスコの悟りとは?

2011-08-28 08:50:26 | Weblog
聖フランチェスコは愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らないというジレンマ・・・・。

何日も苦しみが続き、不安が増し、イライラと絶望がつのり、ついに・・・・フランチェスコは悟ったそうです。


愛したいけど、どうして愛したらいいのか解らない。全身が疑問のかたまりのようになって、

そういう普通の意識状態を超え、意識の限界に達した時、

最後に一瞬の飛躍があり、意識の境界線を越えて、本来の自己が現れたのでしょう。

我をわすれて、そのものそれになりきった時、何らかの感覚の縁にふれて、

そのとき初めて、本来の自己を悟ると言うものかもしれません。

そのものになりきって、(ものになる)ところに本来の自己が現れるものだと思います。


もうすぐ夜が明ける頃、外窓の向こうで、一羽の鳥が鳴いたそうです......。

その鳴き声をフランチェスコは今までとは全く違うように聴こえました。

その鳥の歌声のパワーによって、フランチェスコは悟ったのです。

フランチェスコが悟ったのは神を愛する唯一の方法は、神の声を全ての中に聴く事だと言います。

死にゆく者の泣き声の中に、きちがいの叫びの中に、

らい病の絶望の中に恋人達の抱擁の中で、これこそが神を愛する道だと思ったそうです。

これらの音と神の声を分けるものは何もない

この音こそが神の声そのものだとフランチェスコは悟りました。

バーソロミューの書物によると、若いときのフランチェスコはあなたがたと同じ情欲や金銭欲を持ち、

酒や女や快楽や権力への欲望を持っていたそうです。

自分の求めていた喜びが、思ったほど得られないと気づいたみたいです。

多くの罪深い行いをし、自分の欲望を追求し始めました。

私は欠陥の多い人間である。

善人になるなど不可能。

それなら完璧な罪人になろう。

自分の欠陥を無限におしひろげよう。

その完璧のなかから、自分の人生に喜びと調和が見出せるのではないか、

けれども最後には自分が求めていたものを与えてくれないことを理解しました。


フランチェスコはジレンマに陥り、善人にもなれないし、欲望に身をまかせても幸せをもたされない。

フランチェスコは、意思の深いレベルで、死の現実と対決する事を選択しました。

常に思い病気を選び、その病気によって死にかけました。

その病床で、心の境界線が少しずつ崩れ、高熱にうなされる状態ののなかで、悟りを得たみたいです。

善であること、神の愛が同じであると信じようとしました。

けれどもその二つは同じことではないと解ったそうです。

非常に善い人でも、神への愛を全く持たない人もいます。

神への愛は神を愛したいと思う気持ちによって決定される。

それまでの自分の考えのあやまちに気がついた瞬間は、フランチェスコの人生にとってこの上もなく重要なものになったそうです。


高熱のなかで、ある問いが繰り返し彼の頭に浮かびました。

神を愛することができるだろうか。どうやって?

神を愛することなくして、生きていくことはできないと思うのに、どうしたら愛せるか解りませんでした。

愛したいけど、どう愛していいか解らないというジレンマをはっきり自覚す。

これは非常にフランチェスコにとって喜ばしい意思の状態だとそれます。

何日も苦しみが続きました。熱が上がり、不安が増し、イライラと絶望がつのりました。

ある朝、まだあたりが静かで物音もせず、もうすぐ夜が明ける頃、窓の向こうで一羽の鳥が鳴きました・・・・・。

さしてその泣き声ょフランチェスコは今までとは全く違うように聞いたそうです。

その鳥のかなでる歌声のパワーによって、彼は悟ったのです。

バーソロミュー  マホロバアート
ヒューイ陽子=訳

仏は自然現れる。

2011-08-28 08:42:03 | Weblog
また黄檗禅師は思念をやめ思慮なくせば、仏は自然現れると説いていますね。

この悟り(見性)とはどんなものなのか?

一つのものを二つ見ているのが迷いで、一つと見るのが悟りだと言われがあります。

我を忘れて、無になり切る、三味そのものになり切る事が、何らかの感覚にふれて、本来の自己を悟る事だと思います。

何らかの感覚にふれて、初めて仏性を悟ることかもしれません。


「尋常一様窓の月、僅かに梅花あってまた同じからず」と言う句がある見たいですが、いつも見ている窓辺の月に変わりはないけれど、

きょうは梅一輪の匂いのために、
同じ月が、まったく違って見えるみたいです。

自己を忘れて、無心になずなの花を見て、軒の雨ざれを聞いて、自己がそのものになった。

花や軒のあまざれになりきる三昧のとき、自己を悟られされ、本来の自己(仏)現れる。

心も妄念とかある間は見るものも歪んで写ります。

人の心も同じようで、風がふいて波が立つとそこに写っている対象物もぐにゃぐにゃに揺れ写ると思います。

妄念や雑念に支配されなくなるとちょうど、月が湖面に映し出されるように空にもお月さんが浮かんでいるように心そのものだけが現れてくると思います。、

本当の自分をはっきりとつかめないとしてもうっすらぼんやりとかいま見る事ができるかもしれません。


悟り(見性)とは?

2011-08-27 10:27:17 | Weblog
悟ったものでない古庵がいうのもおかしいですが、

香りを少し伝えられたらと思いまして、自分なりの見解を書きます。

弁道話を味わう 内山興正禅師にも記載されていますが、

開悟の〔開〕も〔現成公案〕の現も同じです。

現とは、今までなかったものが現れるという意味での現ではない。

どっちへ転んでも陰顕在没にかかわらぬものをいまここでやるというのが現です。

〔開〕も、これまで閉まっていたものが、いま開くいう開ではない。

開悟といっても、迷っていたのがいま悟りをひらいたいうのではない。

本来ひらいている悟りをいまここでひらく。これが開悟です。


道元に、聞くままに、心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水という歌があります。

自己を忘れて、無心に聞く時、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。

三味の話が出ましたが、心の安定・集中の境地と言われています。

座禅をさらに続けて行きますと、だんだん座禅が身についてくると思います。

無心で座禅をしていると雨だれの音を聞いて、

聞くままに、心身にしあれば。己りなりけり軒の玉水。

自己を忘れた時、方法に証せられる。

無相の自己を悟らされる。

これは修行しないと現れないと思います。

ここで言う修行とは?座禅です。

本来めいめい持っていると言われています。

本来の自己すなわち仏です。

悟って仏になったらと言っても何もなにないと、何もプラスされたわけではない。

何もならない思いますが、その何もならないのなら、

何もしない方が良いと思って言っている方がいますが、もっと何もならないと思います。

仏性というものは人間のすべてめいめいの上に豊かに具わっているもので、衆生は本来仏です。

けれども修行しないと現れないし、それを自覚体験しないと攫む事は出来ないと言う事だと思います。

修せざるには現れず。


この悟りの見性とはどんなものなのか?

秋山さと子さんの悟りの分折を参考にしたら少し感じが解かるかもしれません。

非常に情動的なもので、エックスタシーといえるかどうかわかりませんが、

見性の寸前には、自分がどんな状態であるのかまったくわからないような、一種の忘我状態に入ることはたしかです。

以前、南禅時の柴山老師にうかがったら、最後には師のいる独参の部屋まで歩いて行くのに、

壁に突き当たってやっと曲がり角がわかるというような状態だったと話しておられました。

鈴木大拙先生は、最初の見性のときはなんだか無我夢中でさっぱりわからなかったけど、

後でアメリカに行かれてから、掛軸に〔腕外に曲がらず〕と書いてあったのを読んで、はっと思いあたられたということです。

山田無門老師もこう述べられています。

隠室に独参して、門答する為に入室しての帰りに、本堂のイチョウを見たときに、飛び上がるほど驚いた。

私の心は忽然ととして開けた。

無は爆発して妙有の世界が現前したのです。

隠寮に走って、参禅したら、公案の問題は出せれたが、その場で解決された。

すべては新しい。すべては美しい。すべては真実です。

すべては光っている、そしてすべては自己である。

メディテーション

2011-08-23 19:52:18 | Weblog
メディテーション

前の日記にこんな事を書いています。

ドリーン・バーチューも言っていますが、多くのアースエンジェルは片方の耳だけに響く鈴のような高い音を聞くという体験をするといっています。

それとドリーンの言うように天使の生まれ変わりという(アースエンジェル)によってそのような甲高い鈴の音として聞こえてくるものもあると思います。

前の日記に実は自分の見解は2通りあると書いてあると思います。

一つは沈黙の声といって、修行とかしているとチャクラが芽生えたり、それにチャクラが活性化するとアストラルの音がする。

二つめはドリーンのように天使の生まれ変わり(アースエンジェル)によってそのような甲高い鈴の音として聞こえ場合がある。


アースエンジェルの生まれ変わりの方は何の前触れもなく突然聞こえてくることもあるそうですが、

自分なんかは眼を瞑っていてもあけてもサードアイといわれる位置に第三の眼が渦を巻いて見えますし、

耳からは甲高い鈴のような高い音も鳴り止まぬ音として、自分の感覚器官の一部になっています。

そのかん高い音を意識すると不思議に糸を引いたようにもっと音が大きくなってきます。

耳さわりであることも目障りな事も事実ですが、それは諦めというよりもあまり囚われないようになっていくと思います


第三の眼に紫色の渦を巻く光はクンダリ―二覚醒があったからなんとも言えませんが、

その瞬きが現れたのは瞑想中に深い瞑想に入った時に現れました。

初期の段階ではお風呂に入った時にポッリ、ポッリと白いはんてんのような光が現れたりしていたように思います。

瞑想していたらサソリとか蛇とか進化を邪魔をすると言われている魔境も現れましたね

修行が進んでいくと、そのようなものが現れてきますからね。

それに振り回されず、手放しをして行くことが大切ですね。


瞑想中は澄みきったように深い瞑想に入っていたところ、眼の中の暗闇から

一筋の光が現れ、それがアメーバのように回転して、グルグルと紫色の光が瞬きました。

これがよくいう明けの明星だと言われるものと後から解かりました。

この明けの明星が現れて以来、ずっと自分の眼の中には渦を巻いてある眼があります。

自分の一部になっていますね。

この澄み切った時に表れてきた明けの明星といわれるものは筆舌にはとても表せられないものです。

人間とは何か?

人間とは何者か?とつくづく思い知らさせられましたね。


耳の聞こえる甲高い鈴の音は何時頃かあまり覚えてないんだけど、

たしかクンダリ二―が覚醒して、感覚器官の障害が出てきたのではないかとその当時は思っていました(涙)

鈴以外にフルートや太鼓を叩いているような音も聞こえた事がありましたが、

各チャクラが活性化されたら、そのような対応している音が聞こえると本には記載されていましたから

安心した事がありました。

でも、実際はそんなたやすい事ではないんですよ

心臓チャクラが活性化した時などは、心臓が痛くてとても不安なった事があります。

そりゃ~ふつう心臓に100かかっていたエネルギーが1000にも1万にもエネルギーが入ってくるんだから、

たまったものではないんです。

それを乗り越えたものが聖者だと言われるゆえんかもしれないですが、ほんと死に通じるものがありますね

だから信仰心が試される時がかならずやって来ると思います。


修行という言葉はあまり好きではないんですが、自分は坐るという言葉をよく使っています。

修行といいたくないのは、修行自体の言葉に手垢がついてあるような感じがありますし、

世間では言葉自体に拒否反応を持たれる方もいます。

それに自分みたいに生半可な者には真の修行者に失礼だと思っていますからね


沢山のスピリチャルなものを目指している方と出会ったり、有名どころのティチャ―とも話をしたりしましたが、

自分は思うんだけど、セミナーやワークを通して、瞑想しているのはいいんだけど、霊能力を追い求めたなら、

能力はついてくると思います。

そこに留まりたかったならいいんですが、

もし、次を目指して行こうと思ったなら、座禅のように全て手放しをして、筋肉と骨格にまかせて思いを手放しをする事も大切だと思います。

宗教界の開祖が悟りを目指して修行して行った事を心にとめておいてほしいですね。

その足後を辿ってゆけば開祖が昇って行った山頂を目指して、昇っていけると思います。

その足跡を残しておいてくれていますよ。

お釈迦様やキリスト様やそれに宗教界の開祖が正法を残しておいてくれていますからね。

スピリチャルを目指している方はその手本を真似て、学ぶ事が正道を歩むことなれると思います。

今の時代には宗教みたいなものは古い言っているティチャ―もいますが、そんな事はありません。

その時代にそった真理があると思いますが、真理自体は変わらないものですよ。

















内なる存在と決別した日

2011-08-21 21:01:38 | Weblog
若い時にこんな体験がありました。

神仏と決別したのも丁度、内なる存在が現れて、道を誤るなと警告された事があります。

無視続けることで、少しずつその内なる声は聞こえなくなりました。

その内なる存在の声を聞くと、直視できないような苦しい、苦しみの感情が蘇って来ました。

小さい時に封印していた、自分の嫌いな感情でした(汗)

自分で言うのは可笑しいですが、小さい時の素の自分はとても繊細で、

もろくてガラス細工のような壊れやすい心を持っていました。

直視出ない出来事に出会った時にはなかなかその感情から立ち直る事ができなかったです。

それが嫌で、子供の頃は心を隠していて、別なものを演じていたように思います。

自分はいつも普通ではない、自分は○○の生まれ変わりではないかと実際思っていました(笑)

普通ではないですよね(笑)

でも、人生の曲がり角には必ず内なる存在は道標を示してくれました。


学生の頃でしたかね?

体験したい、何でも体験したい、体験したいと衝動にかられていました。

何が良いのか?間違っているのか?

体験しないと解からないと内心思っていました。

バンドをしたり、バイクを乗り回したり、もちろん茶髪で、眉毛も線香のように小さくて(笑)

近所ではドラ息子と呼ばれていたことでしょう。

でも、自分のやりたい事をやっているのだから気にしないようにしていました。

それと神仏と決別して、スピリチャルな事も捨てて、それ以外の事で生きて行くと決めていました。

心の中では自分は普通の人間ではないといつも思っていましたが、それでも現実はコントロールできずにいました。

神は何もしてくれない、自分は〇〇世界から生まれて来ているのに、どうしてちゃんとコントロールできない?

不思議な出来事や境遇によって、自分は特別な存在だと小さい時から思っていましたが、

霊や自分の感情に対処できなくて、コントロールもできなくて、失望していました。

世の中には実際こんな変な人間もいるんですよ?

実際は低級霊の憑依現象と正常な者との境界線が紙一重ですと言いたくなるようなものですよね(笑)


学生の頃に神仏や内なる存在とも決別をしました。

その神仏に決別した者が聖者の体験や○○○○の生まれ変わりとか言われたりするんですよ。

そんな自分に間違いを犯したからといって、神様は裁いたり、罪を与えたりしませんでした。

まぁ~実際は体験と言うことならば間違いはなかったと思いますよ~

それがあるから正道の道を目指す事になりましたからね(汗)


光のかけ橋の日記に書いてあります。

山頂を目指して、登るのにどの方角から登っても結局は同じ山頂にたどりつけると思っています

真っ直ぐに登りつける者やいつまでも道に迷っている者やそれに間違っている道だと気がついて引き返す者

それでもいつかは同じ山頂に登りつける事ができると思います。


また遊園地に入ると決まっている時に、ジェットコースターから乗るのか?

それともメリーゴーランドや観覧車から?

乗る順番は自由ですが、遊園地に入ると決まっているのは変わりがないですからね。

それとどれから乗るのか?乗る順番は自由意識にまかされるだろうと思いますが、

それも偶然ではなくて、乗る順番も必然かもしれませんね。

犬が鎖に繋がれている範囲の自由があると言えそうです。


運命というものは自分で道を切り開き、転んだら自分で立ちあがって、正しい道を歩まないといけません。

お釈迦様やキリスト様が残されている正法を学び、正道にそって生きて行く事が幸せな道だと思います。

間違った道というものはないと思いますが、転んでもう立ちあがる事が出来ないと思った時には

お釈迦様やキリスト様の正法を学んでほしいです。

絶望の淵から立ちあがり、その時に苦を滅する道があるそれはハ正道であると気が付きましたからね。

それから悟りを目指して行きました。

だから間違いを犯したからといっても、間違いから教訓を学んで次回にはもっとうまくやっていくように神様は道を示してくれますからね。

神仏に求めてください。神仏は必ず道を示してくれます。


(マタイによる福音書7章7~11節)

神様が造られた宇宙の法則であり、約束です。

求めなさい、積極的に探しなさい、どんどん門をたたきなさい。

求める者は受けられ、探す者は見つけられ、門をたたく者には開かれるのではないでしょうか?
 

求めなさい。そうすれば、与えられる。

探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

想念体の紐が解かれる時

2011-07-22 18:40:05 | Weblog
高橋信次先生の言われているように、想念体の紐が解かれた時はテープレコーダーのように、

今まで体験したすべての想念と記憶したものがエネルギーとして理解できるようになります。


人の深層意識はテープレコーダーと同じように、二十四時間、テープが回転し、その方の想念と行為を記憶し続けています。(高橋信次著 『心の発見 科学篇』 113頁)


光のかけ橋にも載せていますが、この世はあっという間に終わりがやって来ます。

誰であろうともいつかは死を向かざるおえません。

私達がこの世を去るときには、経済も地位も名誉も持っていくことができないんです。


この世に生まれて来る目的は、自分の欠けている課題を克服する為に生まれて来ていると言われもありますね。

多くの人々は、心の宝を眠らせたまま、五官に振り回され、一生過ごしてしまうと言われています。


今世の原因が清算されない時には、あの世に持ち越し、来世でおさらいしなければなりません。

もう一度、今世と同じような環境の下で修行し、己の魂をもう一度テストしなければならないのです。

こうしたところ原因があり、悪循環からなかなか抜け出せないのですね。

高橋信次先生などは、悪循環の最たるものは、愚痴、怒り、足る事をしらぬ欲望だと言っています。

この心の山毒をよくよく心してしなければなりません。


宗教やスピリチャルな名前に手垢を付けられたと非常に残念です。

本来の仏教は本来明るく誰でも理解できる広いものです。

一部のよこしまな団体やオカルトによって、聖なるものに手垢が付けられてしまったと思いますが、

それらに惑わされず、心の進化・心の浄化を努めてほしいんですよ。

何故なら動物的習性を取り除き、人間的あることを超越して、進化した完璧な人間としてまた戻って来なければなりません。

精神的に感情的に霊的に自由を持った存在にならなければなりません。

誰であろうとも例外はなく、同じ目的地・神の懐に戻る事を目指すものと思います。

進化の旅は終わる事無く、常に常勝して行くものかもしれません。

人は皆、あらゆる時代を通って学び体験し、少しずつ人間完成に近づいていけるものだと思っています。

何にしても本物と偽物がある思います。

その本物を見る心を養ってほしいんです。

宗教という名前にあまり囚われて、心を置き去りにしていると、

あの世に帰って、シマッタと気ずいても遅いのです。

だから私達は一日一日を最善の努力で悔いなくすごすべきだと思います。

片寄った考え方、ものの見方が執着となり、苦しみの原因を作ってしまいますから、

明るく調和された生活をして行く事が大事なんですね。


高橋信次先生の心の発見にも記載されていますが、

常に反省する心は、人間を執着から放して行き、魂の浄化にもなるということである。

私達は日常の生活の中から、怒り、そしり、むさぼり、愚かな心を離れ、一切の苦しみの原因を断ち切らなくてはならない。

心の中に悪にとらわれないことが大切なのだ。

心の中の悪にとらわれから離れるということは、利欲、栄華に惹かれる煩悩を捨て、

一念三千の心を常に光の世界すなわち調和の世界におき、利害損得、情欲、地位、名誉、などの執着から離れることである。

すべて、自ら求めることなく、自然な人徳によって与えられる人々は、己に厳しく、常に謙虚であり、誤りのない正法を実践している人々と言える

高橋信次 心の発見(科学篇)
三宝出版



瞑想から三昧へと心のカラをを破って機が熟したなら

想念体に亀裂が入り、

その想念体の中から、カルマ〔因縁〕がサイダーの泡如く湧き出してきます。

そのチャクラに対応しているカルマの影響で不純物のエネルギーがいっぱい詰まっています。

そのサイダーの泡如くカルマ〔因縁〕の泡如く噴出しているものをほったらかしにしていたら、

いつかは綺麗な湖面のように、月を移す鏡のように綺麗になれば、想念体にある想念も澄んでくると思います。

それによって、本来の自己が現れてくると思います。、

原因不明の病気とか今の科学では立証できないカルマ〔因縁〕エネルギーの解消などを取り組む事がとても大切だと思っています。


 (光のかけ橋)

深層意識の内部には日頃溜めつづけたネガティブなもの(恐怖、悲しみ、不安、怒り、)あまりお目に関りたくないドロドロしているものをいっぱい積め込んでいます。

このネガティブなものをいっぱい積め込んでる者は疲れやすいと言われています。

なんにもしなくても疲れやすいですし、または原因不明の病気とかあるいは自律神経に影響を及ぼし(心身の不調)誤魔化して生きていかないといけなくなると思います。

この深層意識の積め込んでいるネガティブなものを意識上に開放してあげて、ほったらかしにしておけば心の掃除にもなりますし心が澄んできます。

例えば炭酸の入った瓶の蓋を取ったらいっぱい泡が出てきて、出っ放しにしておけば泡もなくなり、

だんだん弱いあぶくのようになり、全て出尽くしてしまえば、

波のたたない湖面のように穏やかになります。

この想念体の紐をとき意識上にあげるのはなかなか難しいと思います。

自分の体験上、瞑想(他のワーク)とかしていて機が熟したなら

想念体に亀裂が入り(見性、悟り)とかいわれている事が起り深層意識から今まで生きて来て、

集めたものが意識上の表れてきます。

これは自分と向き合わないといけないから辛い体験だと思います。

瞑想、座禅とか(座り)修業していればおのずと表れ消えて行くものだと思いますから瞑想、座禅の本道目的にそって、行うようにしてください。