田舎の老後生活

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馬ではなくロバにまたがることを選んだのは、救済の方法にふさわしかったから マルコ11

2024-02-28 21:56:11 | 日記

西日に輝く七差古山(南陽市金山地区)

馬ではなくロバにまたがることを選んだのは、救済の方法にふさわしかったから

一冊の聖書に固執しないで、いろんな聖書を読んでみると、理解も深くなるか、そうでなくても違う理解が得られるかなと「リビングバイブル」なるもので「マルコの福音書」を読んでみている。
 私の基本書は、一応、新共同訳。でも、違いが分かるほど読み込んではいないので、比較はできない。分かることは「リビングバイブル」は、少し説明が加わっているかな、それに会話が親しみやすくしようと思ってのことだと思うけど、品が悪くなっている残念なところがあるな。でも、かなりつじつまの合う訳になっているようだな、という感じだ。

さて、今日の読んだ箇所でメモしようと思った所は、マルコの福音書11章のところ。

マルコ11:1・2
イエス一行はエルサレムにいよいよ目と鼻の先まで来た。エルサレムの郊外、オリーブ山の麓、ベテパゲとベタニヤという村の近く。どういうわけか、イエスはエルサレムに入場するのにロバに乗って行きたくなった。ダビデはたしか、裸で踊りながら入場したという記憶があるが、イエスの入場の演出はロバにまたがることのようだ。

それで、弟子に先に走らせ村のロバを調達させようとする。黙ってロバを連れてくるわけにいかない。イエスは弟子の2人にことづける。
「誰かに尋ねられたら『先生が入り用なのだ』といいなさい」

これは、当たり前の釈明である。だが、聖書の中で読むとまるで神様から託された合い言葉に聞こえる。この通りに言わないと、相手はけっして納得せず、ドロボウ呼ばわりしそうである。だが、弟子たちは守って、いわれたとおり言った。ロバの近くにいた人たちはその言葉で納得した。

聞かれたら釈明するというのは当たり前なのだが、すごく不思議感があるのは、イエスはロバの持ち主がいたら、といわず、誰か近くの人に尋ねられたら、といったことだ。
ロバの持ち主はいなく、近くの人が見知らぬ者たちがロバの持ち出しすることを良心的に咎めることをお見通しになっているのだ。

これは、イエスの予言である。聖書で頻繁に語られる「預言」ではなく、まるで占い師のような「予言」みたいなのだ。

だが、やはり、これは預言だと思う。
エルサレムに入場するにはロバに乗ってでなければならない。これは旧約聖書にでも書かれていることを成就させるためなのだろうか。Copilot (ChatAI)によるとゼカリヤの預言にある。

 「ゼカリヤ書9:9に次のように記されています:「『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者で、高ぶることなく、雌ろばの子であるろばに乗って来る。』」

イエスはこの預言をよく知っていた。どの本かは忘れたが、イエスは旧約聖書をものすごく読み込んでいた、という説明があった。だから、ロバにした、というのは、私は間違いだと、今となっては思う。

イエスが学習熱心な人というなら、ただの秀才である。私はそうではなく、イエスは神の子だと思っている。神の子は、神の思し召しはなんでも身に備わっているのである。

イエスをユダヤ教改革派やがてキリスト教という新興宗教を立ち上げた人たちの創作だという人がいる。史実としてのイエスが旧約聖書を勉強したのではなく、教義としてのイエスを創作した人たちの知恵によるといえるからだ。そして福音書に描かれたイエスは、神の子であり、学習などしなくても身に備わった直観で行動し発言しているという形になるのである。

 
福音書はイエスの行動の記録とか伝記などではない。神の子が人間の社会に出現したことを証言する預言の書なのだ。「イエス」のモデルになったイエスの存在は否定はしない。

私は、人間が水の上を歩いたり、死人を生き返らせたりすることは荒唐無稽だと思う。それらの奇跡は神の子でなければあり得ないと思うのだ。

 
神の子のイエスはこれから起きることはすべて、台本をすでに読んだ者のように承知している。嫌でも逃げることは許されず、シナリオ通りの道を歩まねばならない。自分が最後にはどうなるか、すべて見通しながら、逃げ出さず、レールの上を歩み進まねばならない。
人間たちが気づき変わってくれれば自分の運命も変わる。けれども人間たちはイエスが最期を迎えるまでは何一つ気づかず、変わることはなかった。そして、イエスは予定通り、人間たちの罪を1人でかぶって死ぬのである。

 たとえ、三日後には生き返ると知っていても、人間に見放されて死ぬのはとても孤独で辛いことだ。イエスは何度も祈り、弟子たちに最後のことを預言するが苦しみからは最後まで逃れられない。だが、三日後の彼は罪汚れをすっかり浄化して清廉な姿と心で復活し、死を克服する。

イエスは神の子。神の思し召すままに歩むしかなかった。すべてを知っている者が何も知らない人間たちの無理解の前で、磔刑という最低の死に方で昇天した。この刑を受け入れる勇気に感動したり、共鳴したりするのがキリスト教信仰というのだと思うのだ。

イエスほどではないが、かのマザー・テレサも「私は神様の鉛筆だ」といっていた。神様の思し召すままに、愚直に、逃げずに彼女もまた道を歩んだのだ。

さて、神の子であり、メシアなら、なぜロバではなく馬ではないのだろう。馬にまたがっての入場なら颯爽としてかっこいい。けれども、ダサダサのロバでの入場を望んだ。世俗的には全然、王としての風格はない。しかし、イエスは馬ではなくロバを探させた。あえてロバの格付けで人類救済の宮に入場したのだ。

 人間の多くは見た目で判断する者が多い。ほとんどだろう。それなら、いかにもクールな装いで世俗を幻惑させればよかったろう。彼は底辺からエルサレムでのデビューを望んだ。

救済について少し眺めてみる。高みから手を差し伸べて引き上げてあげる。これこそ、奈落の底に落ちた難民を救済するイメージだ。
 それでは、底辺での救済はどうか。ともに困難を味わい、自らも傷つきながら、励まし合い助け合い、手を取合って難局の底から這い上がる。イエスの、つまり神の望んだ救済の方法は救済者も底に下りるというものではないのだろうか。ロバという乗り物はそれにふさわしいのである。

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