マルコの福音書11章、12章(リビングバイブル1982年版)を、敬虔なる信徒とは似て非なる、俗世間でさんざんもまれ、すっかり心を歪めてしまった私の解釈です。マジメな信徒なら、どうしてこんな解釈になるのか、腹を立てられるでしょう。
そう読めてしまう私の悲しさなのです。歪んだ私の見解を述べた後、ネットで目に止まった牧師さんの見解で歪みを、一応、正そうと思います。
※教会の礼拝用バッグを持っていました。肩に掛ける式の。コロナ前のことです。新共同訳の聖書、讃美歌集3冊、その他、教会会員会費用紙袋、キリスト教信徒向けリーフレット等、一式つめ込まれたバッグなんですが、それがどこかの教会に置き忘れてきたのか、見当たらなくなってしまいました。どこの教会でも、聖書、讃美歌集は用意してますから、なくても、老眼鏡さえあれば不自由はないのですが気になります。こういうことや、特定の聖書だけでなく、いろんな聖書がありますので、それらの世界も覗いてみたいと、この度はブックオフで見つけた「リビングバイブル」をテキストにしてみました。
よく、聖書は世界トップのベストセラーだと言われていますが、長く出版しているから総数は多くなるのだと思います。瞬間的に100万部売れた、ということはないでしょう。それに、「リビングバイブル」のようにいろんなタイプの翻訳があり、それぞれは少部数の発行になるのではないでしょうか。タイプ別にすれば驚くほどの量ではないのではないでしょうか。
世界中で聖書が研究されていて、研究成果が蓄積されるたびに、また現代の日本語に合うようになどの配慮で満を持して装いを新たにします。そこが古典文学とは違うところです。それは神の言葉を神秘のベールで覆わないように、正しく分かりやすい理解を求めているからでしょう。
それでも分かりにくいところがあります。イエスは教義的に創作されたキャラクターではなく、実際に存在したという信憑性の由来にもなると思います。
イエスが本当に言いたかったこと、イエスの教えをより正しく、深く理解したいと、ネットには日夜、たくさんの解釈が、多くは説教の形でアップロードされています。
謎解きのように、聖書の文章をあれこれ解釈し、牧師さんや研究家の方たちの解釈と比べるのはおもしろいことだと思います。
・・・といういいわけを最初にしておきます。
マルコの福音書第11章(リビングバイブルによる)
ある分厚い本を「聖書」という。信仰を持つ人たちには聖なる書だろうが、外の人にとっては文字の羅列されたただの古典のような本でしかない。けれども、他に呼び方がないから、やはり「聖書」と仮に言うしかない。その中に登場するイエスという人物は旧約聖書を読みすぎた妄想家のように見えるときがある。信じる者には神の子に見える。イエスはフィクションとノンフィクションの境界に立つ人物なのだ。そんな彼に弟子入りして着いていく者たちも妄想家である。しかし、イエスほどではないので、最後は目が覚める。イエスが死んだ夕刻からは誰一人「イエスなんか知らない」と否定した。だが、処刑法が磔刑という衝撃から立ち直り、復活という新たな妄想によって立ち直り、弟子たちはいっそう堅い絆によってイエス亡き後、グループは再度結成される。妄想も100回唱えたころには本当のように思えてくる。
・・・ひどいことを述べてしまったが、教祖というのは見方を変えると、とてもうさん臭く見えるものだ。だから、誰もが入信するものではない。教祖がイチジクを呪ったことに大真面目に意味を見いだそうとする少数のマジメな人たちが教団作りに立ち上がったのだろう。
イエスは移動の途中、腹が減った。ちょうどイチジクの木が目に入った。イチジクの実を望んだが葉ばかりだった。イエスはイチジクの木に向かって「枯れろ!」と呪った。すると、翌日、その木は枯れていた。
弟子がイエスに報告すると、信仰の力があれば、「山も海に動かせる」と説教した。
聖書を初めて読み出した小学生だった頃から、このくだりは良く理解できなかった。何を言っても、それはごまかしで、空腹で苛立ちを抑えきれなかったとしか読めないところだ。
イチジクに何の罪があろうか。信仰の力さえあればイチジクを枯らすことが出来ただけでなく、山だって動かせるとイエスは豪語する。これでは呪ったことの照れ隠しのホラである。
このくだりをマジメに受け取った者がいれば、その人はペテンにハメられてしまう人物ではないだろうか。イエスはペテン師と紙一重の境界に立つ存在でもある。ペテン師はなによりも自分のことを真っ先に信じる者である。
そしてイエスのペテンに引っかかるような人物こそ、神の国に行ける人だとも思うところである。日本でも親鸞は師匠の法然が喩えペテン師で、地獄に落とされようとも信じると断言している。
エルサレムに入ったイエスは境内で商売をしている小さな商人たちの商売道具を神への冒涜だとばかりに蹴散らした。
なぜ、商人たちは組合のような団体でもって止めなかったのだろうか。イエスは彼らにとっては権威ある「先生」であったからだろう。だから、代わって祭司長とユダヤ教徒のリーダーが恐る恐る抗議しにやってきた。この謙虚な抗議ぶりを見ると、イエスはすでに弟子や共鳴者たちを引き連れた一大勢力の会長のような人物のようだ。
イエスの引き連れている集団はどのようなものか。「私は病人を救いに来た」と言って集めた集団は、ひょっとして堅気の集団には見えにくいものではなかったか。世のはみ出し者たちの徒党である。弟子たちにおいては、親も家業も捨てた人物たちである。
勇気をふるって職責を果たそうとやってきた祭司長や信徒のリーダーたちに向かって、イエスは問いかけに応えず、話をすり替える。「バプテスマのヨハネは神の使いか」と。
イエスの罠を察知したユダヤ教徒は応えられないでいると「それなら私も答えない」とイエスはいうのだ。こういう駆け引きは古い日本人からみると胡散臭く見える。聖人なら駆け引きはしないと信じているから。だが、イエスの住む中東は駆け引きが当たり前の風土である。旧約聖書では、退廃しているソドムとゴモラを滅ぼそうと火の雨を降らせようとした。アブラハムはそうはさせまいと、神と駆け引きをし、契約をしようとする。旧約も新約も契約の話なのだ。契約こそ信用の基礎なのだ。日本もだんだんとそうなってきているとは思う。
なぜ、イエスは境内で商売人たちを蹴散らしたのか。父への冒涜だからか。むしろ、神なる父の慈愛によって生活の糧を得させてもらう許しを得ていたのではないのか。
神社のお祭りに境内で口上巧みに商品を売るフーテンの寅さんの商品をイエスが蹴散らしたら我々はどう思うか。
イエスはイチジクの木を枯らし、エルサレルムの境内でも了見の狭い行動を起こしてしまったのである。イエスやその集団は、ユダヤ教の過激派、原理主義者であることの描写であり、世俗の法や秩序の枠外に立っているのである。
死んだ者が3日で生き返って墓から出て行ったという話を信じる、信じさせるというのも過激な主張だろう。そんな思想がいつしか世界に普及するなんて、人間を縛るには必要な心的装置だったのだろう。日本の神話、古事記で語られる物語もかなり荒唐無稽である。それを実在の天皇家と結び合わせたのは、やはり権威を高めるための装置だったといえる。
12章 ぶどう園の小作農民たちの反乱という喩え話
農園主から借りた農民たちが、農園も収益の分け前も差し出さず、あろうことか請求に来た代理人たちを、最後は農園主の息子まで次々と殺害し、農園を占拠した。
「農園主は最後はどんなことをすると思いますか」
イエスはユダヤの祭司長やリーダーに問いかける。神殿を占拠し、私物化しているとの批判と受け止めた祭司長たちはなにもいえない。
さらにイエスは例え話をする。
「建築士たちの捨てた石が、
最も重要な土台石となった。」
なんとすばらしいことか。
主は、なんと驚くべきことをなさる方か」
この喩えは、人間の知恵では役に立たないと判断されたものが、建物の土台という重要な働きをした。神の思し召しは人間の理解のおよばないことである。だから神を讃美しなければならない、そういう文言である。
人間の知恵、判断力などでは到底思いおよばない知恵によって、神は人間の世を支えているのだ、と語っている。イエスのした乱暴行為の先に見据えている神の国構想をあなた方は見えているか、と、もはや説教に入っていくのである。
これも、イチジクの木と同じように、とっさにキレた行為を弁解しているようにしか見えない。境内の商人たちは豪商ではない。小さな商いをして日々の糊口をしのいでいる人たちなのだ。その人たちの商品を蹴散らしたことにはわびるしかないのではないかと思う。どんなに偉い人がやったことだからと、忖度して何でも良い方に解釈する。それでは小さな商売人たちの立つ瀬はどうなるのだろう。
心が歪んでいる私の悪魔の解釈に対し、ネットにアップしている教会の牧師様の見解を答え合わせのように、以下に書いておきます。
◎「なぜ罪もないイチジクの木をイエスは呪い枯らしてしまったのか」ネットの牧師さんの見解によると・・・
「不信仰の者たちに占領されているエルサレム神殿はすぐに滅ぶだろう。イチジクの木が一晩で枯れたように」
◎「農園の主と反乱農民たちの喩え」 「要らないと思われた捨て石が、じつは土台石に使える石だった」という喩え
農園はイスラエルのこと。農民たちはエルサレムを管理する祭司長やユダヤ教徒リーダー。農園主の息子を殺し、農園の外に放り出したのは、殺害の罪をイエスになすりつけようとしたから。実際、イエスは磔にされた。その後、違うユダヤ人たちに農園が引き渡されるというのは、イエスが再臨された後、イスラエルがキリスト教に改信したユダヤ人たちに渡され、千年王国となっていくこと。残念ながら、現在もユダヤ人たちはキリスト教に改信していないので、それは実現していない。
◎建築士たちが見極められなくて捨てた石が土台石になった
ユダヤ人たちが邪魔だと思って捨てた石、これは磔刑にされたイエスのこと。
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