ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

女子ガイコク人列伝 (第2話)ミルドレッド・バーク

2008年11月18日 19時23分04秒 | 女子ガイコク人列伝
      1915年8月15日生まれ、米国カンサス州カフィールビル出身。156cm、60kg。 (得意技)アリゲータ・クラッチ、クルック・ヘッドシザース
 女子プロレス界の草分け的存在で、日本で初めて女子プロレスを披露した歴史上の人物。私自身はファン時代、全女に来日した晩年に接した記憶はあるが、頑丈なお婆さんという記憶以外、あまりに古いことなので資料がない状況だ。しかし、バークをこのコラムから外すわけにはいかない。それほどの別格的な大物なのだ。
 17歳で結婚し、19歳でシングルマザーとなったバークは、ビリー・ウルフというレスラーと知り合い女子レスラーになったが…ウルフはバークの人並みはずれた強さを利用し、一般人の男性との対戦を画策。これを売り物に「15分以内にバークをフォールすれば賞金25ドル」という言わば賞金マッチをプロモートした。当時の25ドルは労働者階級の月収よりも高い金額。バークはカーニバルのテントで、力自慢の大男を相手に連戦連勝を続けた。バークはウルフと出会って6年後には年収5万ドルを稼いだという。メジャーリーグの野球選手の平近年棒が6千ドルの時代だから、もう破格の稼ぎだったことになる。
 37年1月28日にはテネシー州チャタヌーガでクララ・モーテンソンを破って世界王座を獲得。同王座は3度獲得し、38年から54年までの16年間不敗のまま引退していった。その間、49年(昭和29年)に来日し、米国兵慰問のチャリティー大会に出場。蔵前国技館のリングに上がり、日本で初めて女子プロレスを公開した。それから日本人女子レスラーが誕生という足跡になっている。
 23年間の現役生活では6000戦を行った。その後、ファビュラス・ムーラがチャンピオンになる時代が訪れるが、世代的には前後し1度もリングで交わることはなかった。またウルフとは夫婦関係から、離婚に発展していく。以降、バークは西海岸のロスに住み、レスリング・スクールを開講し、70年から全女に選手をブッキング。自らを初代としたWWWA世界王座を、2代目マリー・バグノンに託し日本に送り込んだ。その王座は京愛子が奪取し、全女の歴史の中核を築いていった。
 70年代、バークはスクール出身者を毎シリーズ4~5名ずつ全女に送り込んだ。バークは選手を育成、ブッキングをしていたが、キャット・ファイトまがいの映像を製作し、専門誌などで販売もしていた。当時の全女・渉外担当の黒川部長は、私の直属の上司だったため、よくバークの話をしてくれたものだ。デビュー間もないマッハ文朱に技を伝授したり、クイーン・エンジェルスの海外遠征の橋渡し役や、ミミが「カルフォルニア・ドールス」という米国映画に出演したのもバークの手腕だった。全女とは深い繋がりがあったが、バークの力が衰えてくると、ブッキングはサウスカロライナのムーラに取って代わってしまった。ムーラの方がビジネスではやり手だった。不世出の大レスラーだったバークは89年2月21日、73歳の生涯を閉じた。


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