1961年9月6日生まれ、米国オクラホマ州ロートン出身。175cm、75kg (得意技)カウガール・ラリアット、ギロチン・ドロップ
その昔、米マット界では「日本帰りは出世する」というジンクスがあったが、ウエンディ・リヒターはまさに、その女子版を地で行く選手だった。カントリー・ガールそのものといった田舎娘の雰囲気をかもし出していたウエンディは、80年9月に全日本女子プロレスに初来日。この時は先輩のレイ・ラニ・カイが一緒だった。ウエンディは日本におけるファイトスタイルの基盤をこのラニ・カイから学んだと言っても、けして過言ではないだろう。
テンガロンハット、ロングブーツという典型的なウエスタン・ファッション、その上、若くて、体も分厚くパワフルなファイトはスタン・ハンセンばり。荒削りで一直線の試合運びは、まさに未完の大器だった。だから、試合巧者のラニ・カイが、いつも試合後に叱咤激励をし、たった1回の来日で逞しく成長していった。当時はハンセンとハルク・ホーガンが外国人選手の人気を二分していたが、ならばこの二人を足して割ったような外国人女子を目指すしかない。そう思っていた私は、全女の広報担当という立場ながら、来日のたびにウエンディにはアドバイスを試みた。得意のラリアットも、カウガール・ラリアットと名付け、相手をロープに飛ばすたびに「カウガール・ラリアット~!」と叫ばせた。ホーガンが「アックス・ボンバ~!」と叫ぶようにだ。
またプロレス専門誌の「デラックス・プロレス」の一日編集長という企画にも抜てきしてもらった。後年、女子の専門誌になった同誌だが、この時は男子が中心だっただけに、これはかなりのインパクトがあった。そうやって日本で売り出そうとしていたが、82年秋の来日を最後にウエンディは、なぜか日本に来ることは無かった。AWA圏で活躍したりするニュースは入っていたが、そうこうしているうちに、84年にはWWF入り。エンターテイメント路線の草分けであるロックン・レスリングの旗手として、ホーガン同様に女子部門のエースとして大プッシュされたのだ。
何といってもウエンディが名を上げたのが、「第1回レッスル・マニア」だ。ロック界のスーパースターであるシンディー・ローパーをマネジャーに従えて、ラニ・カイからWWF王座を奪取。このジョイントは大当たりし、ウエンディはMTVやトーク番組にと出演。一躍、WWFスーパースターズの仲間入りを果たしたのだ。まさにシンデレラ・ストーリーのような快挙だったが、1年も経たないうちにWWFマットを後にした。
87~88にかけてはAWAでメドゥーサの持つ世界王座に挑戦したりしたが、90年代にはその話題がまったく出なくなったのだ。3年前に「リユニオン」というレジェンドのイベントで引退試合を行ったが、その際の写真を見ると随分、ふっくらしたが、昔の面影を多少残していたのが実に懐かしかった。
私がもう1度、逢いたい外国人女子レスラーの筆頭がウエンディなのである。