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『アクト・オブ・キリング』 (2012) / デンマーク・ノルウェー・イギリス

2014-04-16 | 洋画(あ行)


原題: The Act of Killing
監督: ジョシュア・オッペンハイマー
出演: アンワル・コンゴ 、ヘルマン・コト 、アディ・ズルカドリ 、イブラヒム・シニク
鑑賞劇場: シアターイメージフォーラム

公式サイトはこちら。


1960年代インドネシアで行われた大量虐殺を加害者側の視点から描いたドキュメンタリー。60年代、秘密裏に100万人規模の大虐殺を行っていた実行者は、現在でも国民的英雄として暮らしている。その事実を取材していた米テキサス出身の映像作家ジョシュア・オッペンハイマー監督は、当局から被害者への接触を禁止されたことをきっかけに、取材対象を加害者側に切り替えた。映画製作に喜ぶ加害者は、オッペンハイマー監督の「カメラの前で自ら演じてみないか」という提案に応じ、意気揚々と過去の行為を再現していく。やがて、過去を演じることを通じて、加害者たちに変化が訪れる。(映画.comより)


インドネシアという国は外向けの顔しか日本にはまだまだ伝えられていないのではなかろうかという気がする。近年は特に観光大国として口当たりの良い印象が先に出ているし、日本との外交関係も特に表立った問題もないだけに、親しみやすいイメージしかないかもしれないが、生活している人たちにとっては恐らく相当暮らしにくい、自由がない社会なんじゃないかというのは想像できる。あるいは民衆が自由と信じて慣れきっているものは「かなり限定された自由」と思われる。

インドネシア共産党 wiki

特定の政党を非合法化しているということ自体がもう専制国家的である。1965年当時壊滅させられた政党であっても恐らくはその残党はどこかでひっそりと息をひそめているのかもしれない。共和制国家であっても実態は政府に逆らう者には容赦しない背景は推測できる。その証拠に今回映画に出てきた、虐殺を行った側の人間たちの尊大で威圧的な態度がある。ああやって圧力をかけながら民衆から搾取してきて生き残っているのが彼らなのだろう。

当然ながらそんな悲惨な国家レベルの過去は漏れ伝わり、そこからオッペンハイマー監督は大虐殺で生き残った被害者側の取材をしていたが、当局から被害者との接触を禁じられて、それでは逆に加害者側へと取材対象を向けていった。そこから偶然にも思いついたアイデアから本作ができている。
クーデターを発端とした大虐殺。当時の詳細な映像があるかないかはわからないが、それを再現してみよう、しかも生き残った加害者たちにやらせてみようという発想はかなり大胆だ。 まかり間違えれば監督が逮捕されたり邪魔されたりしかねない。そこを逆手に取って、体制側にすり寄る形で取材を続けて映画を完成させてしまったのはお手柄だろう。

圧政の一端を担った者たちの話であり、英雄気取りで自慢げに語る彼らをうまくヨイショし、持ち上げている。ここは監督のコミュニケーションスキルが問われるところだと思うが、相手がいい気になっているのでご機嫌さえ取ればホイホイと何でもしてくれるというところを監督は狙ったようで、乗せ方がうまい(笑)
信頼関係ができてから「それでは、その虐殺を再現してみませんか?」と誘い込むのもまたやり方としては巧妙で、相手のプライドを落とすことなくできる作業なのでうまく行った。あくまでも「映画を作るから」というアプローチがよかった。何故なら映画とは撮影したものをどう編集するかによってどうとでも変化していくからだ。

自分たちの大虐殺を再現する。その過程で彼らの心情に変化が訪れる。被害者役になった者は一様に「もうやりたくない」と言う。しかしそれはあくまでも作り物の世界、虚構の映画であって本当に殺されることはない。最初はふんぞりかえっていた加害者たちは、撮影が進むにつれて死んで行った者たちへの想いを口にするようになり、自分の子孫をそういう目に遭わせたくないと語る。映画の最初とは異なり、驚いたことに表情まで柔和になってきている。それは観客にもそれがわかってくる。同じ人間でもこうも違うものなのかと。それでは当時のあの狂気とは何だったのか。何故そんなことをしたのかの説明は恐らく彼らにはつかないだろう。

実際死んだ人の苦しみがわかるわけはないが、それでもしかしながら、わずかかもしれないが変化があることは収穫かもしれない。無念にも殺されていった人にとってはまだ救われようがあるかもしれない。
でもそれは生きている側から見た話だからであって、死人は何も語れない。虐殺される役で恐怖は味わったとしても、それはあくまでも抜け出すことのできる恐怖のはずだ。

すぐに元の生活に戻れる、逆に言えばその申し訳なさも簡単に覆すことができてしまう。逃げようと思えばいつでも逃げられる彼らと、永遠に死の世界に閉じ込められたり、消えることのない心の傷や恨みと共存しなければいけない被害者とでは全く重みが異なるはずだ。内容はノンフィクションであっても、フィクションとして扱うことができる映画の世界にとどまらず、では実際に被害者たちに何かをするのかという気配は感じられない。生き残った側からは済まないという言葉は出ても、贖罪や補償という方向に行かないのが何とも都合の良い生き方なんだなと思う。人は誰でもずるがしこい、自分が大事だからそこまではしない。済まないと思ったとしても、今更責任は取らないよというずるさも垣間見えるが、表立って何かしなくても生涯自分がしたことに対して苦しみながら生きることが代償なのだろう。


★★★ 3/5点








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4 Comments

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こんにちは ()
2014-04-21 12:19:30
インドネシアはスハルト以後民主化されたということになっているけれど、共産党は非合法化されたままなんですね。ということはroseさんおっしゃるように、一見自由のようでも「限定された自由」にすぎないのでしょう。加害者は今も「国民の英雄」という、外からは伺いしれない複雑怪奇さをグロテスクに描きだした作品でしたね。

映画で主人公は懺悔するけれど、日常に戻ればまた元の生活をつづけるのでしょう。突き放したラストが印象的。心にずっしり重い1本でした。
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雄さん (rose_chocolat)
2014-04-22 09:31:28
>外からは伺いしれない複雑怪奇さ
社会の慣習、生活基盤を脅かされないようにしたいという民衆の想いもあるでしょうし、
なかなかこういった問題は反省する機会もないように思いました。

>主人公は懺悔するけれど、日常に戻ればまた元の生活をつづけるのでしょう
私が感じたのもまさにその矛盾で、こうして懺悔していたとしても結局映画の中だけなんじゃないかというのが透けて見えるんです。
いくら想定外のものを引き出せたとしても、それは結局言い訳に過ぎないんじゃないかと。
いい作品ではありますが、そこは引っかかりましたのでそんなに高評価ではないんですが。
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映画のせいで俺達の立場が変わるだろう (とらねこ)
2014-05-07 17:09:15
この映画のおかげで実際に状況は変わっていくかもしれませんね。
韓国の幼児虐待のドラマ、『トガニ』も映画が現実を変える力になりました。
出演者達は、これまでヌクヌクと生きていて、それどころか英雄扱いもされて来ていたという。
良くもまあこうした姿を収めることが出来たものだなあと、驚きます。
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とらねこさん (rose_chocolat)
2014-05-10 17:09:51
『トガニ』は未見だけど、社会を動かす原動力に映画がなるといいでしょうね。
英雄扱いされて生きる、一体何が基準なのか理解に苦しみますが、
彼らはこれを機に変わってくれるのか?変わってくれればいいかなとは思うけど難しいかも。
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