「山は逃げない」と言われています。いつもそこに在って、いつでも私たちを受け入れてくれます。だから天候や体調が悪い時は無理をするな。山は逃げないからと。本当にその通りです。
でも、やっぱり山は逃げます。正確には私たちの体力の方が少しずつ衰えていくということでしょう。若い時には考えも及ばないことでした。20代の頃に初めて朝日岳を縦走し山形側にある桃源郷のような村に降り立った時、「TEMPLE」と書かれた無人の小さなお寺が出迎えてくれたのを今でも思い出します。あ~、またいつか来てみたいと思いつつ月日は流れ、いつの間にか還暦の峠を越えてしまいました。
30代40代の頃は福岡住まいだったため、まだ小さかった子供達と九州の山々を巡り、高千穂の峰には3度も足を運びました。国民の祝日としての「山の日」は今年から施行されましたが、当時我が家には毎月「山の日」がありました。学校が週休2日になったため、月に一度は家族揃って山登りをすることにしたのです。九州の山々は高くはないのですが、小中学生が歩くにはちょうど良い山がたくさんあります。日帰りの時は愛犬ペスも連れて、それはそれは楽しい山行でした。あの頃は今ほど山歩きがポピュラーではなかったためか子連れの山行は珍しがられ、3人の娘たちはすれ違う山男、山マダムたちによく声をかけていただきました。
下山途中で雷雨にあい小さな神社で雨宿りをしたり、1月の由布岳に登り、強風の中、あまりの寒さゆえ9合目で引き返したりしたこともありますが、大抵は大汗をかいて下山し、その後の温泉を堪能したものでした。今ほど、山のファッションも快適な下着も普及していませんでしたので、綿のシャツやTシャツで平気で歩き、背中中びっしょりになりました。それを防ぐために、あらかじめタオルを背中に入れておき、頂上に着いてそのタオルを引き抜いたときの爽快さと言ったらありません。 今のように汗冷えのしないジオラインやメリノウールなど思いもよらない頃のことでした。
子供たちが高校生や大学生になるにつれ、「我が家の山の会」は自然解散となり、この頃から仕事が忙しくなりました。 山に行くのも年に数回という状況で貴重な50代を終えてしまいました。あの頃はまだ「山が逃げる」とは思ってもみなかったのです。
そして昨年、「あ~、山が確実に逃げていく」と実感し、地元のハイキングクラブの仲間に入れていただきました。 やはり身近に仲間が居るということはいいですね。例会で山行の話を聞いたり、クラブの月刊誌の感想文を読んだりしていると、まだまだ行きたい山がたくさんあることに気づきます。飯豊連峰の縦走などは夢の域に入ってしまいましたが、それでも少しずつ行ける山域を広げて、新潟県の浅草岳、北海道の暑寒別岳などには「山が逃げないうちに」是非行きたいと思っています。新しい年は筋トレからスタートです。