rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

トウモロコシとスイカ

2011-08-07 23:02:12 | 食べ物たち
トウモロコシとスイカ、夏の田舎のおやつの定番。
たいていの農家では、必ずといっていいほど毎年作る。
今年も、我が家の畑ではトウモロコシが作られている。
スイカは、親戚の家からもらうので、数年前から作られてはいない。

我が家の小さい人と中くらいの人は、スイカを食べてもトウモロコシは食べない。
トウモロコシの食べにくさと地味な甘さが、好きでないという。
自分の子供の頃には、トウモロコシのおやつがうれしかった。
勢いよくむしゃむしゃと食べる、きれいに実を取って食べる、など、その食べ方を遊びながらしたものだ。
地味だが、滋味に富んだ味を口いっぱいに感じて、太陽と大地の恵みに感激した。
特に、もぎたてのトウモロコシのジューシーな甘みは、スーパーで売っているものとは二味も違う。
もしかすると、我が家の子供達は、贅沢すぎるのかもしれない。
今まで、値の張るものを買って食べさせてはいない。
祖父母か丹精込めて畑で作った野菜、田んぼで育てた米を当たり前のように食べているだけ。
その、当たり前に食べていることが、この上ない贅沢なのではないか。
彼らは、生まれてこの方当たり前の食べ物に、何の疑問もなく恩恵を受け取っていた。
まだ心が幼い彼らに、いくら言って聞かせても実感できはしない。
これからの人生のなかで、当たり前のように食べていたものがどれほど幸運だったかを、学んでいくだろう。

もぎたてのトウモロコシとスイカは、素晴しく美味い。
この自然の恵みを、ありがたく頂かなくては、罰があたるというもの。
たとえ、人の手で汚された大地の恵みであったにしてもだ。

70年代アメリカのメロディーメーカー、トッド・ラングレン

2011-08-05 23:48:32 | 音楽たちーいろいろ
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トッド・ラングレンの音楽を聴いた。
アトリエの整頓と掃除が、ほぼ終わりに近づいた息抜きに。
”ラント:ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン”のアルバムを聴いていたのだが、”サムシング/エニシング?”が彼を知るなら最良のアルバムだろうと思う。
彼は、70年代アメリカの優れたメロディーメーカーの一人だ。
いろんなテイストの曲を、巧みに美しく作り上げる。
しばらくぶりに聴いたトッド・ラングレンの音楽、そういえば、彼のPVを見たことがなかったので、YouTubeで検索してみた。
そして、驚いた。
ストレートの長髪なのはアルバムのジャケットから知っていたが、そのコスチュームの奇抜さに息を呑んでしまった。
確かに、あの時代、サイケデリックでグラムなファッションが流行ったにしても、その曲調と歌声とのギャップに目が点になる。
それと同時に、あるミュージシャンを思い出した。
ミシェル・ポルナレフ。
彼は、フランスのメロディーメーカーで、やはりそのファッションは非常に個性的である。
二人とも、ほぼ同時期に華々しい活躍をした時代の寵児だ。
彼らを包み触発した時代そのものの権化なのか、時代に影響されただけの小さき小舟なのか、どちらにしても、同時発生とは、音楽にしろ芸術にしろ社会形態にしろ、不思議でならない。
見えざる何かに導かれている、見えない手によって動かされている将棋・碁・チェスの一駒、一手なのかもしれないのかと、無常を感じてしまうのだ。
トッド・ラングレンやミシェル・ポルナレフは、時代の一翼を担ったものとして、今どう思っているのだろうか。


ピカピカ光るブラックベリー

2011-08-04 23:09:17 | 植物たち
ブラックベリー

我が家のブラックベリー。
作り物みたいに光沢のある実が、重そうにぶら下がっている。
その名の如くに、実が赤から真っ黒に熟すまでじっと待つ。
口に頬張ると、弾力のある実から爽やかな酸味のある果汁が、ジュワッと弾けて広がる。
酸のしっかりとあるものが、ジャムにすると大変美味しくなる。
一度にジャムが出来るほど収穫できないので、きれいに洗って冷凍保存をする。
今しばらく待たないと、まとまった量にはならないようだ。

あの日から、毎日排出される放射線物質。
直ちに健康被害が及ぶ線量でないとされているが、日常的に空間に存在する放射線物質と、植物や土壌に付着し積算されていく放射線物質がある。
ここは、首都圏の食を支える農村地帯。
おそらく、安全基準値以下の放射線量なのだろうが、自分の家の畑で採れる自家用の野菜たちを食卓に乗せるとき、少し胸がちくちくと痛む。
子供が、喜んで自ら熟した実を採り食べるブルーベリーやイチゴ、ラズベリーにブラックベリー、それらを食べる姿を手放しで見守っていられない。
「大丈夫」「安全」といわれていても、100パーセントの確証などないのだから。
この先、何十年となく放射線に晒されていく、子供達。

今では、もうこの状況を受け入れ共に生きていくしかないのだと、深い悲しみと諦めを持つようになった。
時間をあの日以前に戻すか、地下1メートルより上の全ての土・植物など存在するものを取り払うか、そんな不可能なことが出来ない限り、この放射線禍を逃れることは出来ないだろう。
全ては起こってしまったこと。
人は、その業禍と共に、生きていかなくてはいけない。
子孫に負の遺産を残しながら。

ピカピカ光るブラックベリーは、尊い天の恵みであるにもかかわらずに汚染された。
その無垢さが、人間の罪深さを糾弾しているように感じる毎日である。


給食

2011-08-03 00:04:31 | つぶやき&ぼやき
飽食の日本にあって、いまや学校給食のありがたみが薄くなってしまった。
好きなものを好きなだけ食べる習慣を持った現代人には、栄養バランス重視の食事は、嫌いなものが入っていて、我慢がならない。
しかも、食に対する切迫感がないために、一食くらい抜いても困ることがない。
だから、残菜が大量に出る。
ときどき聞こえてくるのが、「味付けがよくないから」とか「メニューが地味で食欲をそそられない」などの声だ。
塩分・油分の一日あたりの摂取量を考え、幅広い年齢に合うような調味となると、味がぬるめになる場合があっても仕方がないのでは。
見た目が地味なメニューこそ、栄養素のバランスが取れる場合が往々にしてあるだろう。
もちろん美味しく楽しんで食べることは、とても大切なことだ。
そうすることで、消化吸収もよくなる。
もしかしたら、給食を美味しく食べられない原因に、偏った食生活による味蕾の未発達でキャッチできない味があること、正しく空腹を感じられないこと、食わず嫌いなどの先入観があること、などがあるのではないか。
何より、食べられることのありがたみを分かっていないことが。

また、給食は、大勢の仲間と一緒に食事が出来る機会だ。
家庭での家族の生活時間帯の一致が、困難な現代社会。
各自ばらばらに食事をし、仕事や学校へと出かけていく。
一日のうちで、家族全員が食事する機会が一回でも持てる家庭が、どれほどあるだろう。
もっと範囲を広げて、何人かの親しい人と一緒に食事をする機会を毎日持てる人が、どのくらいいるだろう。
子供達に、給食だけしか人と共に食事を出来る機会をもてない子が、どのくらいの割合で存在するのだろう。
親もそうだが、子供達も親に負けず劣らず分刻みのスケジュールをこなしているときがある。
誰かと楽しく食事を共にするなんて、できないのかもしれない。
悲しいことだ。
食べなくては、その命を永らえることが出来ないのに、食べることを楽しみ感謝できないでいるのは、不幸で恥ずべきこと。
まずは、子の庇護者である親と食事をするのが基本。
そこで、愛情と、食べる楽しさ大切さを学ぶのだ。
それから、仲間と一緒に食事をし、それぞれの差を環境の違いを食を通して知っていく。
かくして、人生の基礎を学ぶだろう。

給食の歴史には、政治的思惑も多く絡んでいるが、何より子供達が健やかに育つ為のバランスの取れた食事を得られたことが、一番の功といえよう。
発展途上国において、毎日食べることにも事欠く状況下、給食が子供達の命を繫ぎとめている。
経済的先進国でも、発展過渡期を過ぎ、貧富の格差が開き始めた今、給食が低所得者層の子供達の発育を担っているケースが出てきた。
子供は、人類の未来。
健やかに子供達が生きていけるように、給食制度はセーフネットとして存続させて欲しい。
蛇足だが、しかるべき教育の権利と機会も与えるべきである。
人類が、宇宙の営みの中での失敗作とフォローの余地なく断罪されることがないように。

8月だというのに

2011-08-02 00:44:25 | つぶやき&ぼやき
台風6号がもたらした北風が、涼しい空気を運んできてからというもの、過ごしやすい日が10日以上も続いている。
この3日ばかりは、肌寒くもある。
台風が去っても、停滞する低気圧と前線によって、新潟・福島では、集中豪雨で甚大な被害を受けた。
田畑も家屋だけではなく、尊い人命も奪った災害。
人は、自然の猛威の前ではなす術もないひ弱な存在だ。
しかし、身の程をわきまえない傲慢な存在でもある。
そして、愚かなぐらいに我儘である。
涼しいと無邪気に喜んだかと思えば、作物の出来を心配したりもする。
電気を思うように使えないと不満を漏らせば、温暖化は嫌だ、恐ろしいから原子力はもうごめんだと言う。
差別はいけないといいながら、様々な偏見を捨てきれないでいる。
いったいどうしたいのというのだろう、どうすれば満足なんだろう。
誰もが満足できる世界なんて、できっこない。
みんな求めるものが違うのだし、置かれている条件が違うのだから。
他を思いやって、みんなが少しずつ譲り合い我慢しあっていくようだろう。
8月だというのに、肌寒い。
8月だというのに、被災者と被災地の状況が改善されていない。
8月だというのに、世界は争いをやめはしない。
8月だというのに・・・