rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

それでも彼は非常に幸福だった、小川洋子”猫を抱いて象と泳ぐ”

2011-08-14 23:03:20 | 本たち
何かを欠く、または失うことが、大いなる贈り物を受け取るための一つの条件となることがある。
彼、リトル・アリョーヒンは、薄皮一枚で閉じられた唇を持って生まれた、つまり”話す”ことを封じられることによって、見えないものを見、聞こえないものを聞き、会話できないものと意思を酌み交わす能力を得た。
初めは、デパート屋上に見捨てられたように置いてある、錆び付いた象の足かせと。
次に、狭い壁の間にはまり込んでミイラになってしまった女の子の噂と。
それから、プールに浮いている死んだバスの運転手と。
そして、決定的な出会い、回送バスの宮殿に住む甘いものが大好きな元運転手にして管理人であるマスターと、その愛猫のポーン、テーブル型のチェス盤と駒たちだ。
また、彼は、マスターの悲劇的な死に直面して、自分の意思で成長も止めることすらしてしまう。
それは、一般的人の辿る道を捨てて、それを放棄し、いや生贄として大いなる贈り物に身を捧げたことになる。
その大いなる贈り物とはいかに?
チェスが指し示す、宇宙とその調べを聞き取り、盤上に紡ぎ出す能力だ。
リトル・アリョーヒンは、稀有な才能を持ちながら、その代償として彼の選んだ場所ゆえに、輝かしい表舞台でチェスを差すことはない。
しかしながら、彼の短い一生は、全てチェスとともにあった。
チェスの名手でも、そうでない凡庸な差し手でも、美しいチェスの調べをしるせた彼は、チェスの恩寵を受け取っていたのだ。

何かに魅入られのめり込む人にとって、リトル・アリョーヒンは、まさに羨望の人生であろう。
社会的、経済的成功を得なくとも、かかわった人々からの賞賛と、何より自分の目指すものとの幸福な交感を味わえるならば、一般的幸福と自分の持っている大切なものを捧げてでもいいと、思わないものはいないだろう。
若かりし頃の自分は、まさにそんな感じで生きていた。
負うものが多くなった今では、到底出来ないことなのだが、その気持ちは、まだ心の隅に残っている。
たとえ、救いようのないロマンチストといわれようとも。

戦争の悲惨さを、愚かさを、語り継がなくてはいけない:”硫黄島からの手紙”

2011-08-13 22:53:32 | 映画
昨夜、テレビで”硫黄島からの手紙”を放送していた。
中くらいの人の友人が、映画館のロードショーでこの映画を観て良かったとの感想を聞いていた彼は、観る気になったらしい。
そこで、家族みんなで観ることにした。

戦闘シーンで、被弾する人爆風で吹き飛ばされる人、死体となってそこここに横たわる人、また人。
不毛の硫黄島で、ままならない水に食料、過酷な塹壕堀に従事して心身ともに疲弊していく兵士達。
厳しい上下関係、理不尽に権力を振るう上官、兵士同士のいがみ合い。
ついに姿を見せた、アメリカの艦隊の圧倒的戦力の差を目の当たりにして絶望し、手榴弾で自決をする日本兵たちが、哀れな肉塊と成り果てる。
脱走投降する仲間の粛清、捕虜の非道な扱い(手厚く処置する場面もあった)、思想の統制。
中くらいの人には、ショッキングなシーンが多かったようで、観なければよかったとこぼしてた。

しかし、これはあくまでも史実に基づいてはいるが、作り物の映画だ。
本当の悲惨さには、程遠いのだ。
衝撃的なシーンを観て戦争を理解できるわけではないが、この程度の映像で気持ちが悪いとか、面白くないから観たくないとか、なんと情けないのだろうと思った。
SFなどで観ている戦闘シーンでは、生身の肉体を感じさせないし、設定が架空のものだから、人が戦い死ぬことを、軽くみていたのか。
確かに、幼い頃には残酷残虐なものを見せないようにしていた。
そろそろ、戦争といったものを知るにはいい頃と、考えたのに。
ただの1本の映画を観ただけで判断するのは、早すぎるかもしれないが、中くらいの人の反応に、不安を覚えたのだ。

戦争は、人が起こすもの。
今現在は、大きすぎた天災の爪痕からいまだ立ち直る道半ば、天災に人災でもある原発事故も一向に見通しが立たないでいる。
そんな最中ではあるが、100パーセント人の手によって成される戦争の愚かさと悲惨さを、有耶無耶にしてしまっていいものなのか。
世界各地で起こっている内戦も戦争だ。
ちょっとしたきっかけで、ある日突然起きる戦争。
戦争体験者が少なくなる中、子供達に戦争がどういうものであったかを語っていただき、直に話を聞けたなら、また違うかもしれない。

もっとも、中くらいの人にも、戦争に行った曽祖父がいなかったわけではない。
接する機会もあった。
しかし、その経験の重さに、語られることは僅かだった。
南方の、たしかレイテ島だったか、戦友のこと、その風土、行軍の辛さ、食べるものに困ったこと、あとは、若かった自分を懐かしむことを語るぐらいだった。
自分の祖父では、満州の風土、戦友、軍歌、そのほか,辛く大変だったことは胸に秘めたままであった。
戦争体験者にとって、その体験を語ることは辛い思い出に向き合わなくてはならない。
語りたくなくて当然かもしれない。
もし、その辛さを押しても語っていただける方がいらっしゃるのであれば、是非とも子供達に語っていただきたく思う。
二度と日本が、それから世界の人が、戦争などという愚行に走らない為にも。

※レイテ島ではなく、ラバウルだったと思い出しました。

遠くに稲妻の走る一見牧歌的な絵画、ジョルジョーネ:テンペスタ

2011-08-11 23:35:43 | アート
  テンペスト(嵐)

イタリア・ヴェネツィアで活躍した、盛期ルネサンスの夭折の画家ジョルジョーネ。
彼の代表作”テンペスタ”(嵐)は、その画面の密度にそぐわない小ぶりな作品だ。
ヴェネツィアのアカデミア美術館に、何気なく飾られていた。
真冬の曇り日の白く冷たい光が満ちたようなその展示室に、ひっそりとその作品はあった。
急いで観て回っていたなら、作品の印象で勝手に思い描いていた大きさとは違う、見落としそうな小さな作品。
だから、思いもかけないでふっと目の前に現れて、不意を衝かれたように驚いてしまう。

”テンペスタ”には、唐突に、稲妻と、乳を赤子に含ませている裸婦と、槍を持った兵士が、三角形を形作っている。
意味を考えると、何かの寓意か、それとも構図上の分かりやすいポイントとしてそれぞれのモチーフを配置させたのか、様々な解釈が出てこよう。
絵を読み解くのも面白いが、その画面の美しい構成を、絵から漂ってくる雰囲気を、味わうだけでも充分な絵だろう。
土や建物に兵士の赤い服の暖色系の色と、岩の陰から草木の緑に空の雷雲の寒色系の色が、ジグザグに絡み合い、兵士と母子の衣服や布と稲妻の白が、そこに点となり三角形を浮かび上がらせている。
または、兵士と母子の表情を見るのも面白い。
意外と穏やかな顔をしているのだ。
色の交差、点と線、人の表情など、見るべきものがたくさんある。
それが多すぎず少なすぎないバランスが、鑑賞者を飽きさせない絶妙さがある。
説明していない、想像を刺激する素材を与えつつ、絵を描くとは、ジョルジョーネ、只者ではない。
そういう意味で、異色の画家といってもいいのではないか。

彼の押し付けがましくない絵に、深く魅了されている。
このスタンスを自分も見習いたいと、常々思っている。
ぎりぎりナンセンスと袂を分かち、描き出す詩情の世界。
素晴しきかな、ジョルジョーネ!

今夜は、美しく輝く月と涼しい夜風に、遠雷が鳴り続ける。
ジョルジョーネ的夜だ。

 田園の楽奏

夏になると必ず思い出す、デビッド・ホックニー

2011-08-10 23:34:08 | アート
 ある芸術家の肖像
 スプラッシュ

日差しが照りつけ、暑く焼けるような日には、ホックニーのプールの絵を思い出す。
きれいに手入れされた清潔なプールに張った水は、水色に輝き、ひんやりとした清々しさを与えてくれそうだ。
そこは、別天地に違いないだろうと思わせる。
さっとローブを脱ぎ去って、清涼な水にすっと入り込み、水中に漂っていたくなる。
ホックニーは、プールを題材に何枚もの絵を描いた。
ほかにも肖像画、室内画、フォトコラージュなど、いろいろ制作しているが、プールの絵が一番好きだ。
多分、ホックニー自身もプールが好きなのだろうと、絵が生き生きと語りかけてくる。
明るく軽いホックニーの絵は、夏の開放感を、日差しに焼かれ人気のなくなった昼下がりを、存在の軽薄さを暴いている。
彼の絵を一度でも目にしたなら、これからの夏はホックニーが必ず脳裏に立ち現れること、間違いなし。

のびねこ

2011-08-08 22:35:41 | ねこ
この数日間、アトリエの大掃除、今日より旧母屋の念を入れた片づけをしている。
人と物が行き交い、埃の舞うそんななか、ねこはコンクリートのたたきに死んだように伸びて寝ている。
”ねこ”と呼ぶと、耳をピクッとさせ薄目を開けて見るともなしの仕草。
よほど、うるさくて落ち着かなければ、その場を離れるのだろうが、ある程度なら人の気配があったほうが、落ち着くと見える。
だから今日は、片付けの間中、ねこはその場所にいた。
ねこのその弛緩ぶりを写真に撮ろうかと思ったが、土埃で茶色がかったコンクリートの上では、あまりの保護色ぶりに、写真栄えしないので止めにした。
今夜は、どこにいるのだろう。
最近の定番は、玄関前の上がり階段に置物のようにうずくまっている。
昼間に、伸びるだけ伸びたから、ねこらしく丸くなっているのかしら。