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アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ボージョレー・ヌーヴォーと新米

2011-11-18 11:41:39 | 食べ物たち
昨日の11月17日木曜日は、ボージョレー・ヌーヴォーの解禁日だった。
498が定番の我がワイン状況では、980円以上するボージョレーの新酒祭りに参戦できない。
店頭に並んだボージョレーに羨望のまなざしを投げかけながら、棚の下に辛抱強く並んでいる498のワインを手に取った。
それでもかつて、シャンゼリゼのビストロにおいてボージョレーの祭典で、新酒の喜びに与ったときもある。
大地の豊饒に皆が酔いしれ、浮き立っていた。
体の芯から湧き立つ、食への強い衝動が、街中を支配して、大気をどよめかせている感じがする。

これと似たものに、日本における新米への根強い期待感がある。
新米の時期になると、店先に”新米”のシールを張った米の袋が積み上げられ、外食店ののぼりにも新米の文字が躍る。
そして、家庭の食卓では、「今日のご飯は、新米なのよ」と、誇らしげに炊き立てのご飯を茶碗に盛り、新米の輝きに目をそ褒め、艶やかに光った米粒を口に頬張る光景が、いたるところで見られるに違いない。
我が家でも、今年収穫した自家新米に舌鼓を打っている。
こうして1~2ヶ月は、新米の美味さを思う存分味わうのだ。

フランスにおけるボージョレー・ヌーヴォーと日本の新米は、似たところがある。
おおよその人たちが口にし、それに寄せる依存度が高いもので、大地から一年の労で購われ口にするものは、共通項として成り立つ。
新酒と新米は、”食”として人の命を繫ぐシンボリックなものになりうる。
だから、それを口にできる時期に人々が歓喜するのだろう。
”これが、今年の恵みなのだ!”と。

しかし、なんと幸せなことなのだろう。
生きる基本”食”の安定、その豊かさよ。
ニュースの映像で、ボージョレーの解禁日に沸く人々の様子が映し出されていた。
世界でもっとも幸せな人の顔が、そこにはあった。
美味しいものを口にし、他の人々とその喜びを心の底から分かち合う、至福ではないか!
けれど、これ以上を望んで、悶々とする人の愚かさ罪深さよ。
欲を完全否定するわけではないが、多くを手にできる者は、できない者、足りない者を追い立ててはいけない。
より奪ってはいけない。
自らの恵まれた資質を、不足している世界の補完に傾けてもいいのではないだろうか?
あるとおもえなけれど、善意の連鎖に期待し縋りたい、閉塞した危機的な世界。

”人は、生きるために食べる”だけではなく、”食べられる喜び”を皆が分かち合える世の中になって欲しいと、強く強く願っている。

それなのに、小さく心貧しい自分は、今年こそボージョレーの恩恵に与りたいと密かに考えている。
498ワイン生活者でも、間違いなく美味しさを堪能できる身の丈ボージョレー・ヌーヴォーは、何処にありますか?