りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




 両国から錦糸町に向かう道は、北斎通りといいます。見出し画像のとおり、昔は、本所割下水(ほんじょわりげすい)と呼んだようです。

 暗渠となって、長いのにいつまでも下水では、街づくり的には確かに。

 でも下水も大切なインフラですけどね。

 ローマは墓づくりに血道をあげずに、道路、上水、下水の3大インフラを作り上げたことが世界帝国となったとかそうでないとか。

 葛飾北斎はこの下水の傍で生誕したとことで、生誕の地の看板が、北斎美術館の敷地に立っています。

 左の写真は、その近くにある絵付きのマンホール。

 2重のマンホールになっているのは、初めてみました。

 どんな機能があるのでしょうか?

 北斎美術館は以前、訪れています。

 さて、もう少し錦糸町側に進むと現れるのが、野見宿禰神社。

 ここの東に以前、高砂部屋があり、明治18年(キリスト暦1885紀元2545)に高砂浦五郎が相撲の神様である野見宿禰を祀ったとか。

 本場所前には相撲協会の神事が行われるとのこと。

 野見宿禰は、日本書紀に出てくる相撲の始祖。日本書紀が編纂された当時、古墳造営や葬送儀礼にかかわった土師氏(はじし)の始祖。

 垂仁天皇の世。当麻蹴速という男が「この世に俺に並ぶ強い者はいない。強い者に会って、命をかけて力比べがしたい!」と豪語していたそうです。

 天皇は、出雲の国の野見宿禰を召喚。当麻蹴速と戦わせます。

 

  野見宿禰は瞬く間に当麻蹴速の腰を踏み折って勝ち、これが相撲の始まりだとか。 

 また、野見宿禰は、皇后の葬儀の際、当時行われていた殉死に代わり、埴輪を用いることを進言し、土師臣の姓を与えられて、土師氏は代々、古墳の築造や葬送儀礼にかかわるようになったとか。

 土師氏は、その後、葬送儀礼以外の役割も担うようになり、大江氏などに分かれていき、大江氏は、毛利家などの祖となったとのこと。

 左の写真は歴代横綱の石碑です。

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各地のマンホール: りぞあかぶろぐ (cocolog-nifty.com)

 

 

 



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