りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




入谷の鬼子母神に行ったよ!

 

 

 
 

恐れ入谷の鬼子母神ってやつね!

 

 国立博物館と輪王寺の間を進みます。

 輪王寺は、両大師と呼ばれ、天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師)を祀ることから言われるそうです。

 鶯谷の駅に向かっては、新坂という坂道になっています。

 この道自体は、明治になってから作られた道で、だから新坂だとか。

 新坂を下りきり、入谷方面に曲がって少し行くと現れるのが、入谷の鬼子母神 真源寺です。

 鬼子母神というと、雑司ヶ谷を思い出します。2022年の第3期がそのあたりでしたね。

 もっともあちらは、鬼の角がない文字を書くのだそうですけど。

 ここ、入谷の鬼子母神と、雑司ヶ谷、あと何故か、市川の中山法華経寺の鬼子母神は、江戸三大鬼子母神と呼ばれるそうです。

 入谷の鬼子母神は、地口の「恐れ入谷の鬼子母神」というのが、有名です。寅さんが連発しているのが、印象的だったですね。

 境内には、福禄寿が祀られており、下谷七福神の一角にもなっています。

 今、浅草付近で、浅草名所七福神がらみの記事を書いていますが、下谷にも一度行ってみたいものです。

 最後のスタンプポイント、レボン快哉湯を目指し、歩みを進めます。

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平賀源内の墓に行ったよ!門の外だけだけど。

 

 

 
 

あ、平賀源内って、夏にうなぎを食べるといいと言った人でしょ。うなぎに恨まれてそうだよね!

 冒頭の写真は、吉原大門。今やただの街です。特殊浴場は並んでいますが、きらびやかな花街の風情はありません。

 見出し画像に載せたのが、東禅寺の江戸六地蔵。宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造のお地蔵様です。

 江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得、京都の六地蔵に倣って、江戸の出入口6箇所に作ったものとのこと。

 ということは、当時ここは江戸の出入口というイメージだったわけですね。

 街道としては、奥州街道だそうですから、大川を渡って、一つ目の宿場、千住というイメージだったんですかね。

 左の写真は、お化け地蔵。なぜ、お化けかというと、かつて大きな笠かぶっており、笠の向きを変えたからとか、ただ単に大きいからとか諸説あるそうです。

 このお地蔵様は、台石には、享保六年(紀元2381仏暦2265キリスト暦1721)に建立だそうです。

 地蔵菩薩は、釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされ、菩薩は如来に次ぐ高い見地だが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を退し、六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けているそうで。幼い子供が親より先に死ぬと、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら、石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされていますが、賽の河原に率先して足を運んでは、鬼から子供達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話があるとのこと。地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となっていた。

 六地蔵というのも、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたとも言われるそうで、6体並んでいるようなパターンのものはそれですね。

 隅田川も近くなってくるとある平賀源内の墓。

 平賀源内は、江戸時代の蘭学者。エレキテルで有名ですね。あるとき、うなぎやから、夏の時期、売れないと相談された平賀源内。うなぎ屋の主人に「明後日、土用丑の日」という看板を掲げるよう指示します。聞かれても御贔屓にとしか答えるなと指示し、土用丑の日を迎えると、閑散としていたうなぎ屋が大繁盛。江戸時代のコピーライターのような才覚を示したといいます。

 これは、風雲児たちという漫画に掲載されていたエピソードですが、今でも影響を及ぼしているといえますね。

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荒川区に行ったら、土砂降りだった!

 

 

 
 

ヤギはくるな!と言われたんじゃないの?

 

 続いてのアプローチは、三ノ輪から。土手通りを進み見えるのが「あしたのジョーの像」以前、三ノ輪付近を歩いた際、いろは会商店街に行った時にも見かけました。

 前回は、仮設テントの影に隠れていましたが、今回はちゃんと見えています。

 そして、土手の伊勢屋さん。

 前にも食べに行きたいと言っていたのですが、いまだに訪れられておりません。

 まだこの時は、雨は降っていなかったのですが。

 隅田川方面に足を進めます。

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芥川龍之介文学碑の近くに時津風部屋があるよ!

 

 
 

ふーん。でも、だから?

 

稽古見学も出来るみたいだよ。でも朝だけで、かつ行ってみないと、入れるかどうかわからないだって。

 

 
 

地元の方以外は、チャレンジだね。

 京葉道路を渡り、道を一本入ったところの小学校の一角にある芥川龍之介文学碑。

 芥川龍之介は、本所出身。今回も生育の地に触れましたけど。この学校のOBなんですね。

 そんなこともあり、芥川龍之介の文才を偲ぶものとして、両国小学校創立115周年の記念事業として、平成2年10月に建立したとの由。

 その近くにある時津風部屋。マンションにある相撲部屋です。だから何というのもあるでしょうが、一般の朝稽古見学も受け入れるそうです。が、予約はなし、当日、行ってみないという状況のようですね。まあ、巡業ではないのだからそりゃそうですね。

前の記事へ両国近辺?を歩きました!記事一覧



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プハー!日本酒フェア楽しかった!

 

ここに来る前に、池袋の御嶽神社にいったんだ!

 

 

どんな神社なの?

 

神武天皇が祀られているよ!

 

 

出た!ヤギの神武紀元好きが!

 

 かえる食堂に行ったあと、日本酒フェアに行く予定だったのですが、少し時間があるので、池袋御嶽神社にお参りしました。

 御祭神は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)、神武天皇(ジンムテンノウ)、武甕槌命(タケミカズチノミコト)。

 神武天皇が御祭神ならば、即位2700年祭か何かをやりますかね。

 まあ16年後の話になりますが。

 この神社の御鎮座の年代ははっきりしていないが、第百六代正親町天皇の御世天正年間(紀元2233キリスト暦1573~紀元2252キリスト暦1592)頃といわれ、その百年後の貞享四年(紀元2347キリスト暦1687)に社殿創建されたとのこと。

 武田勝頼の遺臣が甲州より逃れてきて、創建したという伝承もあるそうで。

 嘉永六年(紀元2514キリスト暦1854)に社殿が造営され、幕末明治期には絵師、堤等川による大絵馬が数面奉納されている。昭和13年(紀元2598キリスト暦1938)には村社に社格が昇格し、社名が三嶽神社から御嶽神社に改称されたとの由。

 入口から飾り付けがあり、茅の輪が設置されていました。

 こちらのお守りは、ふくろうがあしらわれており、結構かわいらしい感じです。

 境内の中にもふくろうの像がありました。

 阿吽の狛犬は普通な感じですね。

 手水舎には、手の洗い方がイラストで描かれています。

 地域の神社らしいですね。

 神楽殿もあり、神楽が行われることもあるようです。

 

 ガラス戸の神輿庫。日光が入ると劣化するでしょうから、展示との関係で難しいところだと思いますが。

 末社の子育稲荷神社です。

 鳥居が奉納されていますね。



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