お風呂からあがって、なにげなくテレビを見たら、
ニュースで、児童文学作家
灰谷健次郎さんの訃報が流れていて、驚きました。
まだまだお元気でいらっしゃると思っていたのに・・・。
灰谷さんとの出会いは
『兎の眼』です。
短大の時、授業で勧められました。
当時、灰谷さんは教師を目指すものの間では、いまでいうカリスマ的な存在だったようなところがありました。
わたしも当然読んで感動し、灰谷さんのファンになりました。
幼稚園に就職して、4年目くらいでしょうか、同じ仕事をしている友人から、『今度灰谷さんが妹の大学で講演するから行かない』と誘われました。
友人は前日から妹さんのところに泊まっており、
わたしはひとりで福岡から熊本の大学まで車を運転してでかけたのですが、初めての道で迷ってしまい、着いた時はすでに講演は始まっていました。
受付で、実行委員長と名乗る学生が、
『先生に失礼になるのでなかにいれることはできない』というのです。
『どうしても先生の話を聞きたくて、福岡からきました』と食い下がったけど、いれてはくれませんでした。
友人はすでに中にはいっていて、そのまま帰るわけにもいかず、外で待つことに。
そろそろ終わるという頃でしょうか、先ほどの実行委員長が近寄ってきて、
『お話は聞かせることはできなかったけど、先生にあわせてあげます』というのです。
彼女なりに気を使ってくれたのでしょう。
内心、灰谷さんに直接会うより、話を聞かせてほしかったと思いましたが、そのまま案内されて控え室へ。
わたしのほかに、手紙を持った親子がいました。
その人達が先生と話し終わられ、わたしの番になったのですが、突然のことになにを話していいかも分からず、さっきのいきさつを話したら、『それは気の毒なことをした、入ってもらってもよかったのに』と言ってくださり『わたしは福岡に戻るので、あなたよかったら送ってくれませんか』とおっしゃるのです。
これまた唐突な話によく考えもせず『ハイ』と答え、事情を聞いて驚いている友人も一緒に乗せて、福岡に戻ることに。
でもわたしの家は佐賀寄りで、先生の福岡の定宿は天神だったのです。
またまた慣れない高速をどうにか運転してホテルへ。
『お礼に食事をご馳走しますよ』と鯨料理のお店に連れて行っていただきました。
その時に、毎年夏に淡路島から沖縄までゆっくりクルーザーを使って行くのだけど、いろんな人が、好きな場所から乗船してきて好きなところで帰っていくのであなた達もよかったらどう?って誘ってもらったんですね。
結局休みが取れなくてクルーザーでの旅にはいけなかったんですが、お見送り方々、友人と淡路島の先生のご自宅に遊びにゆくことに。
1泊させていただいて、船を見送って帰ってきました。
その後も福岡に講演でいらした時、2度ほどお会いして、また食事をご馳走になったりしました。それからしばらくして結婚した友人には、祝電を送ってくださいました。
でも月日が流れるうちに、自然に疎遠になり、
わたしの中で、何年か仕事を続けていくと、灰谷さんの作品がなんとなく綺麗事のように思えてきて、あんなに読んでいたのに、ある日を境に全く興味を無くしてしまいました。
たまたま、なにかの雑誌で、灰谷さんが、東京足立区の女子高生コンクリート詰殺人事件の加害少年を庇う発言をされているのを目にしたのです。
わたしはどうしても納得できなくて、抗議めいたことを手紙に書き灰谷さんに送りました。
今考えてみれば、よくあんなことをしたな~と思います。
返事はいただけませんでした。
それからまた数年後、今度は神戸児童殺傷事件の加害少年の顔写真をフォーカスが掲載したとして、それに抗議すべく版元である新潮社のご自分の版権を引きあげるということをなさいました。
その後結婚したわたしは、夫の転勤で東京にでてきて、パートにでることになります。
その会社が偶然にも『兎の眼』を見出し、出版した会社だったのです。
『兎の眼』の出版社がどこかなんて知るはずもなく、その出版社がどんな本を出しているか等調べもせずに、ただ児童書の会社とだけ聞いて応募したのです。
わかった時、つくづく不思議なご縁だな~と思いました。
もしまたお会いできるなら、あの手紙での失礼を謝りたいと思っていたのですが、
在職中そういう機会もなく、そしてこれでとうとう永遠に機会を失いました。
『兎の眼』を読んでからもう20年以上の月日が流れました。
今のわたしが読んだらどのような感想を持つのでしょうか。
また久しぶりに手に取ってみようと思っています。
先生、ご無礼をお許しください。
そしてどうぞ安らかにお眠りください。
合掌