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烏鷺鳩(うろく)

切手・鉱物・文学。好きな事楽しい事についてのブログ

マダガスカル 恐竜切手 小型シート 1997年 (1)

2018-05-12 | 切手


大規模な噴火をしている火山の麓。
2匹のデイノニクスがテノントサウルスに襲いかかっている。鋭いかぎ爪がテノントサウルスの体に突き刺さり、流血している。生きながらエサとなっているのだ。
手前の草陰でコリトサウルスが身を潜めている。ストゥルティオミムスは別の獲物を探しに出たのだろうか。全てをトロオドンが冷徹に見つめている。
彼らのこうした日常を打ち破るように、空から脅威が迫っている。隕石が長い光の尾を引いて落下しているのだ。


1997年にマダガスカルで発行された、恐竜たちの生き生きとした姿を描いた小型切手シートである。
マダガスカルの通貨は「アリアリ(Ariary)」。額面は2500アリアリである。2004年12月31日までマダガスカルフランとの併用であったため、アリアリの上に12500FMG(マダガスカルフラン)も記載されている。
こちらは「スタンプショウ2018」の、ロータスフィラテリックセンターさんのブースで発掘した。


それでは、マダガスカル共和国(Repoblikan'i Madagasikara)について。

マダガスカル共和国(Madagascar)、通称マダガスカルは、アフリカ大陸の南東海岸部から沖へ約400キロメートル離れた西インド洋にあるマダガスカル島及び周辺の島々からなる島国である。
・・・
先史時代に存在した超大陸ゴンドワナは今からおよそ1億3500万年前に分裂し、「マダガスカル=南極=インド」陸塊と「アフリカ=南アメリカ」陸塊とに分かれた。その後マダガスカルは、およそ8800万年前ごろにインド亜大陸や南極大陸と分裂し、島に残された動植物は比較的孤立した状態で進化した。(ウィキペディア)


ワオキツネザルとバオバブで有名な島国である。ワオキツネザルも原始的なタイプのサルだ。8800万年前に大陸と切り離されたこの島の現生固有種の動物たちも、大変興味深い存在だ。実は私の「いつか行ってみたい国ランキング」1位の国である。


1枚のシートに5種類もの恐竜が描かれている。豪華海鮮丼のような切手である。それでは、それぞれの具材、じゃなかった、恐竜たちに注目していこう。



「植物食恐竜を肉食恐竜が襲う」という図は、昔からよく描かれてきた想像図である。恐竜と言えば、こんな風に戦っていたんだ、というむしろ当たり前の姿かもしれない。
この切手の図案も、そんな当たり前の想像図かというと、そうでもなかったのだ!

デイノニクス(Deinonychus)の歯が、大型の鳥脚類であるテノントサウルス(Tenontosaurus)と共に見つかったことから、前者が後者を食べていたことが示されていた。しかし、両者の大きさの違いを考えると、デイノニクスが集団で狩りでもしていない限り、大きな獲物を仕留めるのは到底無理な話である。これを受けて、恐竜が集団で狩りをしていたという説が、映画『ジュラシック・パーク』シリーズによって猛烈に広められていった。(『恐竜学入門』p.188)

実際に発見された化石の情報を元にした図案だったのだ。案外、恐竜同士が戦っていた証拠って少ないのかもしれない。化石に残された歯形だとか、化石に刺さってる歯だとか。プロトケラトプスとヴェロキラプトルの格闘している姿のままの化石なんていうのは、奇跡に近い発見だったのだろう。
ちなみに、デイノニクスは「恐竜内温説」(恐竜温血動物説)のきっかけとなった恐竜である。
1969年、イエール大学の古生物学者・J. H. オストロムがデイノニクスの学名記載をした。その彼の論文が、その後の恐竜学を一変することとなったのである。
彼は、デイノニクスの骨格を調べるうちに、「その骨格デザインは高い運動性能以外の機能があるとは思い当たらない」(『恐竜学入門』p.298)、と結論づけた。それまで恐竜はワニのように外温性(いわゆる冷血動物)であると思われており、それが一般常識だったのだから、オストロムの論文は画期的、革命的なものだったのである。

テノントサウルスはイグアノドンティア類というグループに属する。
彼らは、植物の多様化と関係が深いと言われている。

鳥脚類の多様性の進化は裸子植物と被子植物の多様性と平行しているように見えるのだが、おそらくこれは偶然ではなく、恐竜と植物が(あたかも二人舞踊の“パ・パ・ドゥ”のように)ある種のパートナー関係を結んでいたせいかもしれない。すなわち、裸子植物は捕食から逃れる方向に発達し、そして鳥脚類はますます効率的に栄養素を抽出する方向に発達した、ということだ。(『恐竜学入門』p.138)


というわけで、まだまだ具材、じゃなかった、注目すべき恐竜たちが残っているので、次回へと続く。



【参考サイト・文献】
・ウィキペディア「マダガスカル」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%80%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB 
・『恐竜学入門』 Fastovsky, Weishampel 著、真鍋真 監訳、藤原慎一・松本涼子 訳 (東京化学同人、2015年1月30日)

休日の切手剥がし

2018-05-06 | 切手
ゴールデンウィーク後半、関東地方は好天に恵まれた。
からっとした爽やかな風。初夏を思わせる日ざし。咲き乱れる花々。目にまぶしい新緑の青。鳥の歌声・・・。


「そうだ、切手剥がそう」。


というわけで、せっかくの連休なので、先日の「スタンプショウ2018」にて、ごっそりつかみ取ってきた使用済み切手を、延々と剥がし続けることにした。
空気が乾いているので切手の乾きも良さそうだ。


まず、トレーにぬるま湯をはる。人肌くらいの温度、ぬる燗ちょっと低めくらいの温度である。あまり熱すぎても良くないらしい。



切手を投入。
念のため、「書留」とか「速達」の赤いインクの印字部分は切り取った方が良い。
まずは分類した普通切手のうち、年代の古そうな物から始めることにする。その方があとで整理しやすいとふんだ。


5分くらいで剥がしてみる。
と、まずい。くしゃくしゃにしてしまった・・・。失敗である。
せっかくの年代物が若干損なわれてしまった。軽くショックを受ける。
以前に剥がした時はどうしたっけなあ、と、インターネットにて情報収集する。All Aboutの特集を見てみると、なんと、20分ほど水に浸しておけ、と書いてある。
短気は損気、である。


気を取り直して、次の切手を投入。



15分経ったところで自然に剥がれてくる切手が出てくるので、回収する。くるっと縁が内側に丸まって、封筒や葉書の切れ端からずれてくるので、そこが回収時である。



タオルに並べて軽くはさみ、水分を吸収する。
このまま少し放置する。表が若干乾いたところで、裏返しにすると良いことが分かった。残った糊によってタオルにくっつき、繊維が切手の裏側に張り付いてしまうのだ。ご注意あれ。


こうして失敗を重ねながら、だんだんとコツがつかめてきた。
裏側が乾いたら、きれいな紙、コピー用紙などにのせてさらに完全に乾かす。
ここまで、実に1日半。



念のため一晩おいたが、この陽気だと半日でも大丈夫だったかもしれない。
しかし、ストックブックには他の切手もいるから、完全に乾燥するにこしたことはない。念には念を入れる。
乾かすついでに、大体の発行年毎に分類しておいた。




ついにストックブックへ!!長い道のりであった。
一番古い物で、普通切手の「第3次動植物国宝切手」(1962~1963年発行)の「ソメイヨシノ」と「タンチョウヅル」を発見した。1967年の「ホトトギス」、「コブハクチョウ」、「カブトムシ」などがいたのも嬉しい。
1980年シリーズの「梵鐘」が懐かしい。私の子どもの頃、封筒には必ずといっていいほど「梵鐘」が付いていた。
これだけ並ぶと圧巻である。一つずつ打ち鳴らせば、私の煩悩の大半も吹き飛ぶかと思われるほどの数である。



「平成切手」の1994年も懐かしい。
鳥や花々がたくさん並んで賑やかである。「ヤマセミ」の大群である。意外にもキジバトが少なかったようだ。
普通切手も面白い。


ちなみにこの後、記念切手、ふるさと切手も剥がし続けた。まる2日、こうした作業を続けたわけだ。


こうして私は、実に数百枚の切手にまみれるというゴールデンウィークを満喫したわけである。



【参考サイト】
・All About 「切手のはがし方、キレイにはがすなら“水はがし”で」 
https://allabout.co.jp/gm/gc/468719/ 

「東ドイツ 恐竜(化石)切手 1990年」と「世界最大の恐竜展」の思い出(2)

2018-05-05 | 切手


1989年、「ベルリンの壁」が崩壊した。テレビの向こうで、大人達が壁によじ登り、ハンマーのような物を壁に打ち下ろす度に、大きな歓声が上がっていたのを覚えている。
ドイツ民主共和国(DDR)、通称東ドイツでは1990年7月1日まで切手が発行されていた。1990年10月3日の東西ドイツ統一に伴い、10月2日をもって東ドイツの切手は使用が終了。この恐竜化石切手は1990年4月17日に発行されている。


「世界最大の恐竜展」は、冷戦まっただ中の時代に開催された。今考えると、どちらかというと「西側」に所属していたはずの日本において国宝級の化石を展示するというのも、なんだか不思議というか、すごいことだったのかなあ、とも思う。
その辺の事情が、当時のフンボルト大学学長のヘルムート・クライン氏のメッセージにみられるので、是非ご紹介したい。

1973年5月、日本と我が国とに間に国交が樹立し、1981年5月に、ホネッカー第一書記が訪日して以来、両国相互の交流は多方面にわたり深まりつつあります。
フンボルト大学創立175周年の前夜とも言うべきこの年に、当大学の歴史的業績と今日の学術研究の成果を、広く日本に紹介する機会を得ました。また、当大学付属自然史博物館が誇る世界的財産がこのたびはじめてドイツを離れ、外国初公開の地に貴国が選ばれましたことは、私の大きな喜びであります。
科学者アインシュタイン、ハーン、医学者コッホ、哲学者フィヒテ、ヘーゲル、フォイエルバッハ等、歴史に名を残す偉大な学者達が、当フンボルト大学で教鞭を執り、又、1836年から1841年まで、カール・マルクスがここで学んだことは、日本でもよく知られていることでありましょう。現在では、ファシズムと第二次世界大戦という精神的、物質的に困難な時代を乗り越え、ひとつの新しい社会体制の下で社会主義的教育、研究の場として発展、完成されつつあります。
今回のこの企画、開催に当たり御尽力下さいました関係各位に心から敬意を表すると共に、この記念事業が世界平和と学術交流に大きな功績を残すことを願ってやみません。

いわば西側へのアピールの玄関口として日本が選ばれたということだろう。背景にアメリカがいることを意識しての、国家的事業だったわけだ。社会主義国家としての優位性を誇る文章に、時代を感じる。


さて、肝心の恐竜たちについてはどんなことが書いてあるのか。懐かしのパンフレットからの記述をさらにご紹介しよう。現在の説とは違っているところも面白いのではないかと思う。



〈ブラキオサウルス〉
ブラキオサウルスについては、その発見の様子からフンボルト大学自然史博物館で骨格を組み立てるまでが詳細に紹介されている。
発見されたのはタンザニアの「テンダグル」という場所である。1909年から4年がかりで掘り出された。復元骨格のサイズも細かい。
・頭から尾までの長さ   22.65m
・頭までの高さ      11.87m
・肩までの高さ       5.83m
・尾の長さ         7.60m
・一番長い肋骨       2.63m
ここまで計測してあるデータもなかなか見ない。大概は全長と頭までの高さくらいのものだろう。
しかし、どのように生活していたかの説明がなかったのだが、それは表紙が全てを語るということなのだろうか。


他の恐竜たちについても記述があった。



〈ケントルロサウルス〉
ヤリをつけた戦車のような、最も奇妙な形の恐竜。アメリカのステゴサウルスと同じように、首から背中にかけて骨盤が出ているが、背中のまん中から尾の先まではトゲに変わっている。ほかに腰にも1対のトゲが出ている。頭は小さくて細長く、角質の口が付いていた。骨格は長さ4.7m、高さ1.6m。(p.35)

現在では、「腰に1対のトゲ」ではなく、「肩に1対のトゲ」で復元されている。また日本語表記は「ケントロサウルス」が一般的である。


〈ディサロトサウルス〉
鳥盤目鳥脚類。非常に細長い骨でできたきゃしゃな体つきをしている。やはり前足は短く、2本足で立って、えりまきトカゲのように速く走れただろう頭は小さく、角質のくちばしがあったらしい。イギリスのヒプシロフォドンやアメリカのカンプトサウルスと似ている。
骨格は長さ2.35m、高さ1.10m。
東アフリカ・タンザニア国テンダグル産。(p.37)

こちらの復元図もゴジラ型だから、高さに関しては現在では異なる数字が出るかもしれない。


〈ディクレオサウルス〉
ブラキオサウルスと同じ竜脚類の仲間だが、前足の胞が短く、背中が盛り上がっている。筋肉やジン帯を支える背骨や首の骨の突起が二つに割れているのが特徴。頭がい骨や、ほっそりした体つきはアメリカのディプロドクスに似ているが、首は比較的短い。やわらかい水草や小魚も食べたという。
骨格は長さ13.2m、高さ3.2m、東アフリカ・タンザニア国テンダグル産。(p.34)

懐かしい恐竜の姿を御一読頂いたところで、実は決定的に当時と現在で異なる点がある。
それは、なんと、ブラキオサウルスは「ブラキオサウルス」ではなかったというのだ。
どういうことかというと、ブラキオサウルスは1903年にアメリカで発見された竜脚類につけられた名前だった。タンザニアで見つかった方は別種の亜種だったのだ。こちらの化石の方が圧倒的に状態が良かったので、このフンボルト大学の標本の方がブラキオサウルスの代名詞となっていた。
しかし、詳細を調べるにつれ、アメリカで先に発見された物とは異なる点がいくつもある。その結果、タンザニア産の標本は「ジラファティタン(もしくはギラファティタン、巨大なキリンの意味)」という名前がつけられている。


私の思い出のブラキオサウルスは実は「ジラファティタン」だったというのである。ちょっぴり切ない。でも、名前が変わったからといって、あの時の感動が色あせるわけでは決してないのである。



【参考サイト・文献】
・JSPドイツ切手研究会のホームページ http://www.doitsukitte.com/index.html 
・『現代思想 2017年8月臨時増刊号 恐竜 古生物研究最前線』(青土社 2017年8月10日)
・『フンボルト大学創立175周年記念 世界最大の恐竜展』図録[1984年7月7日~10月14日、新宿駅南口イベント広場 特設パビリオン](読売新聞社)

「東ドイツ 恐竜(化石)切手 1990年」と「世界最大の恐竜展」の思い出(1)

2018-05-04 | 切手


フンボルト博物館100年を記念した東ドイツの切手である。
ケントロサウルスの小型シートと、単片が一枚。その隣はディサロトサウルス。中段がディクラエオサウルス、下段はブラキオサウルスの全身骨格と頭部の骨格である。
ドイツ自然博物館(通称フンボルト博物館)の化石標本を図案としており、まるで博物館を見学しているかのような気分になる切手である。
小型シートの耳がかわいい。
アンモナイトと三葉虫はなんとなく分かるが、その他は何を表しているイラストだろう。なんだろう、なんだか懐かしい。


私は幼い頃、ドイツ(当時は東ドイツ)からやってきたブラキオサウルスと始祖鳥の化石を、両親に連れられて見に行ったことがある。
その頃すでに恐竜好きだった私は、本物の「恐竜の骨」(実際、化石は骨そのものではないのだが)が見られる、と大興奮だったのを覚えている。会場に入って、天井高くまで伸びたブラキオサウルスの全身骨格を見上げた時の感動は今でも忘れない。今よりも小さかったから、あまりの大きさに首が痛くなるほど見上げていたに違いない。
そして始祖鳥の美しい化石標本。翼を左右に広げ、首を後ろに曲げた姿が目に焼き付いている。



その時に買ってもらったパンフレットは今でも大切に持っている。宝物である。
あの頃のブラキオサウルスは水棲だと思われていた。あまりにも大きな体を地上で支えるのは不可能ではないかと考えられたからだ。だから、表紙のブラキオサウルスは水から首だけ出して、始祖鳥にご挨拶しているのである。いきなり大きな生物が湖から出てきて、始祖鳥はびっくりである。
現在の恐竜研究は大分進んでいて、当時のブラキオサウルスとは復元図が全く違ってはいるけれども、このパンフレットを見ると、初めて恐竜の化石を見た時の感動がいつでもよみがえってくるのだ。今ではブラキオサウルスは地上をのっしのっしと歩いている姿が描かれている。


切手の耳(周りの余白のような部分)に描かれたイラストが、なぜこんなに懐かしいのか。思い出に浸りながらパンフレットを開くと、生命進化の歴史を表した年代表が載っている。
と、またもや素敵な発見。
なんと、各時代の代表的な生物を描いたイラストだったのだ。





シートの上辺に注目して頂きたい。
4角に描かれているのは「アンモナイト」だ。細長い、先のくるっと丸まったのは「オウムガイ」、その隣の角のような形のは「四斜さんご・床板さんご」のイラスト、その隣には「三葉虫」がいて、右に「筆石」、最後は「殻をもった動物」のイラストだった。


ここで、それぞれの生物について調べてみたくなる。
●オウムガイとアンモナイトは頭足類に属する。オウムガイはオルドビス紀に現れ現在まで生きており、アンモナイトはデボン紀にオウムガイから分離して白亜期末に絶滅している。いわば親戚同士だ。
●「四斜さんご」というのは、現在では四放さんごと呼ばれるグループの、「トラキフィリア」というのを指しているのだろう。
●「三葉虫」はダンゴムシみたいに体を丸めることができたらしい。
●「筆石」類は「漂移する群体性の小さな海生生物で、カンブリア紀に現れ石炭紀に絶滅した。軸の片側、あるいは両側に個虫が生息する胞が枝分かれしたキチン質の外骨格を持ち、植物の化石と見間違われやすい」(図鑑p.338)のだそうだ。奇妙な生き物だ。
●そして、「殻をもった動物」というのは、どうやら「プラティストロフィア」という腕足類の生物を指していると思われる。


切手の図案に採用しているくらいだから、フンボルト博物館でも年代表に同じイラストを使っていたのかもしれない。


さて、切手そのものに描かれた恐竜たちにも焦点をあてたいので、次回へ続く。



【参考文献】
・『フンボルト大学創立175周年記念 世界最大の恐竜展』図録[1984年7月7日~10月14日、新宿駅南口イベント広場 特設パビリオン](読売新聞社)
・『岩石と宝石の大図鑑』 青木 正博 翻訳 (誠文堂新光社 2007年4月10日)

イギリス 恐竜切手 1991年:Owen’s Dinosauria 1841

2018-05-03 | 切手


上段左から、イグアノドン、ステゴサウルス、ティラノサウルス。下段左から、プロトケラトプス、トリケラトプス。
それぞれの骨格にカラフルな彩色が施されている。X線写真の様な雰囲気もある。まるで実際に目の前にいる恐竜を、X線カメラごしに見ているかのような気分にもなる。
図案の左下には、実際の大きさと人間の大きさを比較する図が示されていて興味深い。
なにより、恐竜の骨格デザインがカラフルで美しい。おしゃれだ。


こちらは「スタンプショウ2018」にて捕獲した恐竜切手のうちの1シリーズである。念願の「オーウェン ダイノサウリア 1841」である。こういうのがあると、コレクションもちょっと大人っぽく見えるに違いない。箔が付くというか、なんというか、権威主義は嫌いなのだけれど、ちょっとまあ、有名どころも押さえておいて損はないよね、的な。


この切手は、リチャード・オーウェンという19世紀イギリスの古生物学者であり解剖学者が、「恐竜類:Dinosauria」という言葉を初めて提唱してから、150年目にあたる年に記念して発行された。

世界で最初に命名された恐竜は1842年にウィリアム・バックランドが命名したメガロサウルスで、続いて1825年にギデオン・マンテルが命名したイグアノドンである。これらと、1833年に命名されたヒラエオサウルス(よろい竜類)を合わせて、1842年に、のちに大英自然史博物館の初代館長となるリチャード・オーウェンが、「恐竜」という分類群を提唱したのが恐竜という名称の始まりである。(『現代思想・2017年8月臨時増刊号』p.52)


そう、「恐竜」という言葉が史上初めて登場したのが1842年である。恐竜学の歴史に関して書かれた本や、その記述にも出てくる記念すべき年は「1842年」である。
おやおや、150周年記念の切手ならば、1992年に発行するのが筋だろう、そう思われた方々も少なくはあるまい。この私も、「なぜ1991年に発行されたのか?」「1841年というのはどういうこと?」というもやっとした疑問を抱き続けていた一人である。
数え方の問題? 数え年なんて概念イギリスにあるの? それとも前もって前年に発行してみたとか?
色んな疑問がもやもやっとわいてくる。


そんなもやっとした問題を抱えつつ、久しぶりにヒサ クニヒコさんの『新・恐竜論 地球の忘れものを理解する本』を読もうと、ぱらぱらページをめくっていた。「ヒサ クニヒコ」さんの本は、幼い頃何度も何度も読み返した。ぼろぼろになって汚くなっても現在手元に残しているくらい、大切な本だったのだ。
当時最新の研究に裏打ちされた恐竜のイラストは、「本物もきっとこんな風だったに違いない」と思わせてくれるほど、生き生きとしたものだった。「ヒサ クニヒコ」という名前は幼き頃の私にとって恐竜情報の最前線を意味していたのである。
2000年代初頭までの研究をまとめたこの『新・恐竜論』に十数年前に出会った時には、懐かしさを感じると共に、恐竜に対するあこがれやわくわくする気持ちが一気によみがえったものである。ヒサさんのイラストはやっぱりヒサさんらしくて。子どもの頃の恐竜に関する知識が刷新され、新たに興味が増すきっかけになった。だから今でも「ヒサ クニヒコ さん」と呼んで親しんでいるのである。


すると、なんという奇跡。
ヒサさん、さすがである。このイギリスの恐竜切手に関する私の疑念を払拭してくれる記述がこの本からみつかったではないか!!
(ていうか、私、読んだのに忘れてたのか・・・。おいおい、である。)



次々みつかる大型の絶滅した爬虫類化石に対して、はじめて「恐竜」というカテゴリーに集約、分類がなされたのが1842年のことである。ロンドンにあるイギリス自然史博物館の初代館長でもあるリチャード・オーエン(1804~1892)によるものだ。彼は古生物学者であり解剖学者でもあった。原生の爬虫類やさまざまな化石動物と比べて、イグアノドンやメガロサウルス、さらに当時発見されていたいくつかの絶滅爬虫類化石は、あきらかにトカゲとは違った大きな特徴を持っていると考えたのだ。

そして1841年の夏にプリマスでおこなわれた英国科学振興会の学会の席で、この絶滅した巨大な爬虫類グループに対して恐ろしいトカゲ、ダイノサウリアという分類を提唱したのである。そのことを記念して、1991年には恐竜命名150周年の記念切手がイギリスで発行されたほどだ。

ところが最近の書物では恐竜の命名は1842年と記載されているものも多い。1841年でも、1842年でも、たった一年違いで本当はどうでもいいのだが、物のはじまりというのには、どうもけじめをつけたがるようなのだ。イギリスではもちろん1841年の学会発表説をとるのだが、実は恐竜という名が印刷物で出てくるのは、1842年に発刊されたプリマスでの学会の報告書の中なのである。41年に口頭で発表したのを42年に印刷したのだから「恐竜」の誕生は1841年というわけだ。

ところがどうでもいいことを研究する輩もいるもので、当時の文献や報道を細かく調べ、実は41年の学会当時は、まだオーエンは恐竜という概念をまとめきれておらず、翌42年になってはじめて恐竜という言葉をつくり印刷物の中に入れたのだということをつきとめたのである。こういうのも恐竜研究というのかどうかわからないが、ゆえに恐竜の本の中では、1841年と書かれたものも1842年と書かれたものも併存することになったのだ。(『新・恐竜論』p.15)


というわけで、もやっとした疑問、すなわち、なぜ「1841年」から150周年に切手を発行したのかが無事解決したのである。
切手はある意味、国の威光を前面に押し出したり、国のアピールに使われるものでもある。イギリスの威信をかけて発行された切手は、イギリスの結構高いプライドによってより早い年代に合わせられていたのである。


それにしても、この辺の事情までお調べになっているヒサさんも、ある意味すごいなと思う。
そして自分の記憶って、結構いい加減というか。他の話題に関する記述は覚えていたのに、切手の部分というか歴史の部分がすっぽり抜け落ちていたことが、びっくりである。
かつて、恐竜はのろまで馬鹿な生き物だった、と言われていた。とんでもない誤解である。そりゃ人間のエゴである。記憶力の弱さでいったら、私の方が大分弱い可能性があるのだ。他の動物を人間の基準で馬鹿にしちゃいけないのである。



【参考文献】
・『現代思想 2017年8月臨時増刊号 恐竜 古生物研究最前線』(青土社 2017年8月10日)
・『新・恐竜論 地球の忘れものを理解する本』 ヒサ クニヒコ著 (PHP研究所 2004年3月10日)