『カルメン お美』
矢野晶子 昭和六十三(1988)年 有隣堂 定價 1,200圓
(鎌倉市中央圖書館地下書庫藏)
我が友 佐藤亞土チャンの事など。
これは、幼友達であった 佐藤亞土チャンの生母であり 聲樂家であった 佐藤美子の
壮烈かつ奔放な生涯を描いたノンフィクッションである。
縁深い横濱・有隣堂出版の帯に『10歳にしてオペラ歌手を志し、生涯をその道一筋に貫いた佐藤美子の、壮絶、華麗な生きざまを描き切る』とある。
著者は 美子の継母の姪であるが、多分 戸籍上は妹であらう、經緯は序章に詳しい。
美子は、税関吏であった父 佐藤友太郎と 生母 ルヰズの三男二女の末っ子として、
明治三十六(1903)年 神戸市山手通りの税関官舎で出生。
佐藤家の本貫は長崎であったが、友太郎の父、麟太郎は幕吏の英語通詞であった爲、
本籍は 京都市下京區麩屋町である。
戊申戰爭の後も 太政官 外國館判事に登庸される等、維新政府に仕え、明治九年、
内務省より 費府萬國博覧會審査官長を命ぜられ渡航の途次、桑港入港前夜、
反幕方に毒を盛られて船中にて死去。 西南戰爭前夜の 物情騒然たる頃である。
文久二(1862)年生まれの友太郎は 父を喪った翌年の明治十年、十六歳にして京都府の
官費留學生に撰ばれて渡佛。
留學先は 陶器で有名な 中佛リモージュ(Limoges)である。ここで七年間 陶藝を學ぶ。
一旦歸國した友太郎が 再度の渡佛の機會に連れ歸ったのが、ブルボン王家の血筋を引く、
慶應二(1866)年生まれのルヰズ(類子)・ラトーである。
明治三十年、語學力を生かして 神戸税関に職を得た 父・友太郎は 明治四十二年、 横濱税関に轉勤となり、ものごころついて後の
美子は 横濱ッ子として育つ。
紅蘭女學校在學中の大正五年、父・友太郎は 日本の植民地になったばかりの青島に轉勤となる。 病弱な生母ルヰズは 大正七年 この地で歿する。
大正九年、長女綾子の薦めで再婚。 本著者は 再婚相手の伊東夕子の姪にあたる。
翌年一月、一家は再び横濱に戻る。
美子は大正十一年の春、東京音樂學校聲樂科に入學。
大正十二年九月一日の關東大震災は 前年 退職した友太郎が新築した鶴見の丘の上の
新居でのこと。 大正十五年三月卒業まで この鶴見の家から上野に通學する。
曲折あって、昭和三(1928)年の暮れ 神戸解纜の日本郵船香取丸で渡歐。
その間の事情は 第三章 「留學までの逡巡」 に譲る。
昭和四(1929)年一月二十九日 マルセーユ着。
生母ルヰズの實姉マチルドに迎へられて 暫く リモージュで過ごす。
四月、憧れの巴黎へ。 セーヌ川を見下ろすアパルトマンは 香取丸で
一緒だった 高木東六が 先行して見つけてくれたものである。
巴黎での出來事は、第四章「巴里セレナード」、第五章「もう一つの『巴里セレナード』」に詳しい。
この中で 藤田嗣治の名前は出て來るが、後に 夫となる 佐藤 敬と面識があったのかどうか、つまびらかではない。
佐藤 敬は 東京美術學校西洋畫科本科學生のまま 昭和五(1930)年暮れから
昭和九(1934)年まで 藤田嗣治を筆頭とする エコール・ド・パリの仲間、猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳 らと共に、巴黎にゐたのだが。
昭和七(1932)年 滿洲事變の熱氣さめやらぬ中、西泊利亞鐵道を經由しての歸國である。
なぜ 危險をおかして滿洲經由歸國したのか? その理由は 第六章にある。
冒險心は 幕末戊申戰爭をくぐり抜けて來た、祖父麟太郎の血筋なのか?
昭和九(1934)年春、伴奏の高木東六を伴っての 青島への演奏旅行の途次、大分に立ち寄る。
西比利亞鐵道の因となった問題が解消濟であることを確認した高木は歸國早々、別府で個展を開催中の 巴黎時代から舊知の佐藤 敬を紹介する。
二人とも お互い 興味があるのかどうか、傍目にははっきりしなかったという。
この辺の仕草は 二人の血を受け継いだ長男の亞土を彷彿させる。
既に出來上がってゐた證據に、敬は すぐに後を追いかけて、本牧に古びた小さな洋館を借りて住みはじめる。
華燭の典は昭和十年六月十六日、明治神宮記念館。 媒酌は「大分縣知事 木下郁夫・夫妻」だったとある。
戰後 革新系知事として大分縣知事を四期勤めた 木下 郁(かおる)であろう。
當時 まだ弱冠、別府で辯護士を開業してゐた。
この縁組み 双方の實家に異論ありて、結局、敬の實父 佐藤 通も 美子の實父佐藤友太郎も缺席してゐる。
木下 郁を引っ張り出したのは、最後に折れた敬の實母 佐藤祥子であろう。
敬 二十九歳、美子 三十二歳。
「また 敬の母の祥子も、別府では女傑といわれ、・・・」とある。
女傑・祥子。 別府の有閑マダム連を順へて よく茶會なぞ催してゐたようである。
有閑マダムは、藤本眼科、伊東内科、鶴田ホテル、それに 明治三十九年、丙午生まれの猛女 我がゴッド・マザーも末席を汚してゐたようで、よく噂話を聞かされたものである。
マダム鶴田とは 後に、我々が海外勤務で日本を留守にしてゐた頃、向こう三軒両隣に住む
孫の鶴田真由さんの生家にちょくちょく遊びに來られ、舊交を暖めてゐたようだ。
真由さんの父親は 藝大油繪科の出身で、私の高校の一年先輩であり、同じ英語塾で熟知の間柄である。
昭和十一(1936)年十二月二十三日 長男 亞土誕生。 僕より 三日後の生まれである。
敬は「子供は自分の家で育てたい。」と 後々 有名になる、鶴見の美子の實家の近くの「亀の甲山」に一軒家を買う。
つかの間の平和な時代であったが、半年後の 昭和十二年七月七日廬溝橋の一發に端を發っした 泥沼の八年戰爭の勃發である。
昭和十五年一月には十年來の宿痾の末 父友太郎が逝く。 美子自身も 妊娠腎の爲
死線を彷徨った末、未熟の長女を出産。 繪子と名付けるも八日目に死亡。
後に、亞土が 妻ジャックリーヌとの間になした次女を「絵子」と名付けたのは、
顔を見る事のなかった亡き妹を追慕しての事であらう。
世は揚げて戰時色一色で、敬も 徴兵を遁る爲、いや 生き殘る爲 昭和十六年五月報道班員として支那戰線に從軍する。
續いて、海軍報道班員として比島戰線へ。
戰後、これが 藤田嗣治らとともに戰爭協力者として非難、糾彈されるもととなる。
昭和十八年十月二十二日 次女眞弓を授かる。
昭和十九年に入ると、藤田嗣治の呼びかけで、藤野に疎開。
疎開先で藤田が描いた、『サイパン島同胞臣節を全うす』の母子モデルは 眞弓を抱いた美子だと謂う。
この辺り、本文の記述と 僕の記憶に 多少の齟齬を生じる。
亞土チャンが別府市立野口國民學校二年生の阿部静子先生のクラスに編入して來たのは昭和十九年春の事だったと記憶する。
乳幼児の眞弓チャンは両親と藤野に疎開し、亞土チャン一人 親元を離れて 別府の祥子おばあちゃまに預けられる。
食糧難の時代、多くの方が 東京・大阪から疎開して來られてゐた。
その中の一人が ブエノスアイレス生まれの 宮岡千里君で 亞土チャンと二人だけハイカラ頭に紺の半ズボン、長靴下に黒の革靴。
僕らは 丸刈頭に長ズボン、下駄履き。
國民學校では敵性容姿だと 長髪は絶對に許されなかったが、この二人だけは例外で なんとなくそれが當たり前のように黙認されてゐた。
戰後、高學年になると、さすがに 紺の半ズボンも 黒の革靴も手に入らなくなり、我々と同じ服装になったけど。
家が近かったので、内藤喜之を加へた四人で よくつるんだものだ。
亞土の家は、實業家のおじいちゃまの佐藤 通が素封家であり、油屋熊八が亀の井ホテルを建てる際 祥子おばあちゃまが一生 無償で別館に住める事を條件に、土地を提供したとある。
宮岡の父親は 船旅全盛時代のOSK大阪商船BuenosAires支店長 等を歴任して、
別府では 亀の井ホテルの支配人。 母親は 聲樂家と謂うハイカラ一家。
小學校時代の僕は 何とも華麗なる一族に囲まれてゐたものだ。
亞土チャンは 戰後、朝鮮からの引き揚げ者だった 藤永先生のご指導で 人形劇に嵌り込んでゐた。
その頃、妹の眞弓チャンも おばあちゃまのところに來て、國鐵日豊線流川踏切の踏切番(昔は 大きな踏切には 必ず踏み切り番がゐた。)の娘 糸永のサッチャンと遊んでゐる姿を よく見かけたものである。
亞土チャンは 昭和二十四(1949)年春、中學進學を機に 鶴見・亀の甲山のご両親のもとへ。
湘南高校から 昭和三十一 (1956) 年春、 三田山上での入學式に偶然 邂逅、久闊を叙す。 六年間の時間の空白も、クオーターの彼(母親がフレンチ・ハーフ)を見間違える事はない。
この年、衆樹、中田を擁した慶應は 秋の慶早戰に勝ち 九シーズンぶりに優勝。 神宮から三田まで 提燈行列。
銀座に塲所をかえて、亞土チャンと二人、その夜 飲み明かす。
日吉での一年間を共に過ごした後、文學部美學美術史科の彼は三田へ、僕は小金井キャンパスへと 別れ別れになった。
在學中から東宝映画に出たり、卒業後は 麻生れいこ と 五木寛之原作の映畫
『變奏曲』に主演したりと活躍してゐたが、昭和三十七年に渡佛。
版畫家として 數多くの作品を遺すも 平成七年一月一日 五十八歳で早世。
昭和十一年十二月二十三日生まれの彼とは、生まれたのも 僅かに三日ちがいである。
さて、話を 美子の事に戻そう。
戰後の美子は、古典歌劇への拘りを捨て、創作オペラから民謡まで幅廣く こなしたようである。
昭和二十七(1952)年 敬が 巴黎へ去って後、かなり 自由奔放に生きたらしいことが 義妹の筆で 遠慮勝ちに書いてある。
美子が敬の訃を電話で知らされたのは昭和五十三(1978)年五月のことで、二十六年間の 永い別居生活の後の事である。 享年七十一歳。
敬は 老齢の老母の たっての願いで 見舞いのため一時歸國中であったが、急性心不全で先立つことになる。
亞土も 巴黎から驅けつけるが、葬儀の手配一切は 老衰の床から立ち上がった 氣丈な 猛女・祥子が采配を振るったと謂う。
祥子は執念のように昭和五十七(1982)年の暮れまで生き延びて、結局 嫁の美子より半年も長生きをする事になる。
葬儀一切は 孫の 亞土 と 眞弓が執り行った。
晩年の美子は、引退は 滿八十歳を迎へる 昭和五十八(1983)年五月の誕生日、
唱ひ納めは創作オペラ『安達ヶ原の鬼女』だと決めて突っ走りはじめる。
昭和五十六(1981)年秋、亞土を訪ねる名目で巴黎に渡り、ピエール・カルダン小劇塲と
翌年九月の 創作オペラ『虎月傳』公演を取り決めて歸る。
美子が倒れたのは 昭和五十七(1982)年六月三日のことで、横濱青少年センター・ホールで上演する『虎月傳』のリハーサルが終はろうとする時である。
救急車で 昭和大學藤が丘病院へ運び込まれる。
息を引き取ったのは 七月四日。 享年七十九歳。
密葬は七月六日 通い慣れた 鶴見のカトリック教會で。
フローレンス・佐藤美子の音樂葬は 七月十六日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行はれた。
佐藤 亞土の 訃を知ったのは 平成七(1995)年正月。 享年五十八歳。 若死にである。
僕は 北米に出張中の事で、葬儀には參列出來なかった。
フロリダの宿舎で 阪神淡路大震災のニュースを知ったので、その前後の事はよく憶へてゐる。
後に トリニトロンの發明者として ソニーの社業發展に おおいに貢献した
宮岡千里も、
東京工業大學の學長を勤めた 内藤喜之も いまは亡い。
2018/11/06 初稿
矢野晶子 昭和六十三(1988)年 有隣堂 定價 1,200圓
(鎌倉市中央圖書館地下書庫藏)
我が友 佐藤亞土チャンの事など。
これは、幼友達であった 佐藤亞土チャンの生母であり 聲樂家であった 佐藤美子の
壮烈かつ奔放な生涯を描いたノンフィクッションである。
縁深い横濱・有隣堂出版の帯に『10歳にしてオペラ歌手を志し、生涯をその道一筋に貫いた佐藤美子の、壮絶、華麗な生きざまを描き切る』とある。
著者は 美子の継母の姪であるが、多分 戸籍上は妹であらう、經緯は序章に詳しい。
美子は、税関吏であった父 佐藤友太郎と 生母 ルヰズの三男二女の末っ子として、
明治三十六(1903)年 神戸市山手通りの税関官舎で出生。
佐藤家の本貫は長崎であったが、友太郎の父、麟太郎は幕吏の英語通詞であった爲、
本籍は 京都市下京區麩屋町である。
戊申戰爭の後も 太政官 外國館判事に登庸される等、維新政府に仕え、明治九年、
内務省より 費府萬國博覧會審査官長を命ぜられ渡航の途次、桑港入港前夜、
反幕方に毒を盛られて船中にて死去。 西南戰爭前夜の 物情騒然たる頃である。
文久二(1862)年生まれの友太郎は 父を喪った翌年の明治十年、十六歳にして京都府の
官費留學生に撰ばれて渡佛。
留學先は 陶器で有名な 中佛リモージュ(Limoges)である。ここで七年間 陶藝を學ぶ。
一旦歸國した友太郎が 再度の渡佛の機會に連れ歸ったのが、ブルボン王家の血筋を引く、
慶應二(1866)年生まれのルヰズ(類子)・ラトーである。
明治三十年、語學力を生かして 神戸税関に職を得た 父・友太郎は 明治四十二年、 横濱税関に轉勤となり、ものごころついて後の
美子は 横濱ッ子として育つ。
紅蘭女學校在學中の大正五年、父・友太郎は 日本の植民地になったばかりの青島に轉勤となる。 病弱な生母ルヰズは 大正七年 この地で歿する。
大正九年、長女綾子の薦めで再婚。 本著者は 再婚相手の伊東夕子の姪にあたる。
翌年一月、一家は再び横濱に戻る。
美子は大正十一年の春、東京音樂學校聲樂科に入學。
大正十二年九月一日の關東大震災は 前年 退職した友太郎が新築した鶴見の丘の上の
新居でのこと。 大正十五年三月卒業まで この鶴見の家から上野に通學する。
曲折あって、昭和三(1928)年の暮れ 神戸解纜の日本郵船香取丸で渡歐。
その間の事情は 第三章 「留學までの逡巡」 に譲る。
昭和四(1929)年一月二十九日 マルセーユ着。
生母ルヰズの實姉マチルドに迎へられて 暫く リモージュで過ごす。
四月、憧れの巴黎へ。 セーヌ川を見下ろすアパルトマンは 香取丸で
一緒だった 高木東六が 先行して見つけてくれたものである。
巴黎での出來事は、第四章「巴里セレナード」、第五章「もう一つの『巴里セレナード』」に詳しい。
この中で 藤田嗣治の名前は出て來るが、後に 夫となる 佐藤 敬と面識があったのかどうか、つまびらかではない。
佐藤 敬は 東京美術學校西洋畫科本科學生のまま 昭和五(1930)年暮れから
昭和九(1934)年まで 藤田嗣治を筆頭とする エコール・ド・パリの仲間、猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳 らと共に、巴黎にゐたのだが。
昭和七(1932)年 滿洲事變の熱氣さめやらぬ中、西泊利亞鐵道を經由しての歸國である。
なぜ 危險をおかして滿洲經由歸國したのか? その理由は 第六章にある。
冒險心は 幕末戊申戰爭をくぐり抜けて來た、祖父麟太郎の血筋なのか?
昭和九(1934)年春、伴奏の高木東六を伴っての 青島への演奏旅行の途次、大分に立ち寄る。
西比利亞鐵道の因となった問題が解消濟であることを確認した高木は歸國早々、別府で個展を開催中の 巴黎時代から舊知の佐藤 敬を紹介する。
二人とも お互い 興味があるのかどうか、傍目にははっきりしなかったという。
この辺の仕草は 二人の血を受け継いだ長男の亞土を彷彿させる。
既に出來上がってゐた證據に、敬は すぐに後を追いかけて、本牧に古びた小さな洋館を借りて住みはじめる。
華燭の典は昭和十年六月十六日、明治神宮記念館。 媒酌は「大分縣知事 木下郁夫・夫妻」だったとある。
戰後 革新系知事として大分縣知事を四期勤めた 木下 郁(かおる)であろう。
當時 まだ弱冠、別府で辯護士を開業してゐた。
この縁組み 双方の實家に異論ありて、結局、敬の實父 佐藤 通も 美子の實父佐藤友太郎も缺席してゐる。
木下 郁を引っ張り出したのは、最後に折れた敬の實母 佐藤祥子であろう。
敬 二十九歳、美子 三十二歳。
「また 敬の母の祥子も、別府では女傑といわれ、・・・」とある。
女傑・祥子。 別府の有閑マダム連を順へて よく茶會なぞ催してゐたようである。
有閑マダムは、藤本眼科、伊東内科、鶴田ホテル、それに 明治三十九年、丙午生まれの猛女 我がゴッド・マザーも末席を汚してゐたようで、よく噂話を聞かされたものである。
マダム鶴田とは 後に、我々が海外勤務で日本を留守にしてゐた頃、向こう三軒両隣に住む
孫の鶴田真由さんの生家にちょくちょく遊びに來られ、舊交を暖めてゐたようだ。
真由さんの父親は 藝大油繪科の出身で、私の高校の一年先輩であり、同じ英語塾で熟知の間柄である。
昭和十一(1936)年十二月二十三日 長男 亞土誕生。 僕より 三日後の生まれである。
敬は「子供は自分の家で育てたい。」と 後々 有名になる、鶴見の美子の實家の近くの「亀の甲山」に一軒家を買う。
つかの間の平和な時代であったが、半年後の 昭和十二年七月七日廬溝橋の一發に端を發っした 泥沼の八年戰爭の勃發である。
昭和十五年一月には十年來の宿痾の末 父友太郎が逝く。 美子自身も 妊娠腎の爲
死線を彷徨った末、未熟の長女を出産。 繪子と名付けるも八日目に死亡。
後に、亞土が 妻ジャックリーヌとの間になした次女を「絵子」と名付けたのは、
顔を見る事のなかった亡き妹を追慕しての事であらう。
世は揚げて戰時色一色で、敬も 徴兵を遁る爲、いや 生き殘る爲 昭和十六年五月報道班員として支那戰線に從軍する。
續いて、海軍報道班員として比島戰線へ。
戰後、これが 藤田嗣治らとともに戰爭協力者として非難、糾彈されるもととなる。
昭和十八年十月二十二日 次女眞弓を授かる。
昭和十九年に入ると、藤田嗣治の呼びかけで、藤野に疎開。
疎開先で藤田が描いた、『サイパン島同胞臣節を全うす』の母子モデルは 眞弓を抱いた美子だと謂う。
この辺り、本文の記述と 僕の記憶に 多少の齟齬を生じる。
亞土チャンが別府市立野口國民學校二年生の阿部静子先生のクラスに編入して來たのは昭和十九年春の事だったと記憶する。
乳幼児の眞弓チャンは両親と藤野に疎開し、亞土チャン一人 親元を離れて 別府の祥子おばあちゃまに預けられる。
食糧難の時代、多くの方が 東京・大阪から疎開して來られてゐた。
その中の一人が ブエノスアイレス生まれの 宮岡千里君で 亞土チャンと二人だけハイカラ頭に紺の半ズボン、長靴下に黒の革靴。
僕らは 丸刈頭に長ズボン、下駄履き。
國民學校では敵性容姿だと 長髪は絶對に許されなかったが、この二人だけは例外で なんとなくそれが當たり前のように黙認されてゐた。
戰後、高學年になると、さすがに 紺の半ズボンも 黒の革靴も手に入らなくなり、我々と同じ服装になったけど。
家が近かったので、内藤喜之を加へた四人で よくつるんだものだ。
亞土の家は、實業家のおじいちゃまの佐藤 通が素封家であり、油屋熊八が亀の井ホテルを建てる際 祥子おばあちゃまが一生 無償で別館に住める事を條件に、土地を提供したとある。
宮岡の父親は 船旅全盛時代のOSK大阪商船BuenosAires支店長 等を歴任して、
別府では 亀の井ホテルの支配人。 母親は 聲樂家と謂うハイカラ一家。
小學校時代の僕は 何とも華麗なる一族に囲まれてゐたものだ。
亞土チャンは 戰後、朝鮮からの引き揚げ者だった 藤永先生のご指導で 人形劇に嵌り込んでゐた。
その頃、妹の眞弓チャンも おばあちゃまのところに來て、國鐵日豊線流川踏切の踏切番(昔は 大きな踏切には 必ず踏み切り番がゐた。)の娘 糸永のサッチャンと遊んでゐる姿を よく見かけたものである。
亞土チャンは 昭和二十四(1949)年春、中學進學を機に 鶴見・亀の甲山のご両親のもとへ。
湘南高校から 昭和三十一 (1956) 年春、 三田山上での入學式に偶然 邂逅、久闊を叙す。 六年間の時間の空白も、クオーターの彼(母親がフレンチ・ハーフ)を見間違える事はない。
この年、衆樹、中田を擁した慶應は 秋の慶早戰に勝ち 九シーズンぶりに優勝。 神宮から三田まで 提燈行列。
銀座に塲所をかえて、亞土チャンと二人、その夜 飲み明かす。
日吉での一年間を共に過ごした後、文學部美學美術史科の彼は三田へ、僕は小金井キャンパスへと 別れ別れになった。
在學中から東宝映画に出たり、卒業後は 麻生れいこ と 五木寛之原作の映畫
『變奏曲』に主演したりと活躍してゐたが、昭和三十七年に渡佛。
版畫家として 數多くの作品を遺すも 平成七年一月一日 五十八歳で早世。
昭和十一年十二月二十三日生まれの彼とは、生まれたのも 僅かに三日ちがいである。
さて、話を 美子の事に戻そう。
戰後の美子は、古典歌劇への拘りを捨て、創作オペラから民謡まで幅廣く こなしたようである。
昭和二十七(1952)年 敬が 巴黎へ去って後、かなり 自由奔放に生きたらしいことが 義妹の筆で 遠慮勝ちに書いてある。
美子が敬の訃を電話で知らされたのは昭和五十三(1978)年五月のことで、二十六年間の 永い別居生活の後の事である。 享年七十一歳。
敬は 老齢の老母の たっての願いで 見舞いのため一時歸國中であったが、急性心不全で先立つことになる。
亞土も 巴黎から驅けつけるが、葬儀の手配一切は 老衰の床から立ち上がった 氣丈な 猛女・祥子が采配を振るったと謂う。
祥子は執念のように昭和五十七(1982)年の暮れまで生き延びて、結局 嫁の美子より半年も長生きをする事になる。
葬儀一切は 孫の 亞土 と 眞弓が執り行った。
晩年の美子は、引退は 滿八十歳を迎へる 昭和五十八(1983)年五月の誕生日、
唱ひ納めは創作オペラ『安達ヶ原の鬼女』だと決めて突っ走りはじめる。
昭和五十六(1981)年秋、亞土を訪ねる名目で巴黎に渡り、ピエール・カルダン小劇塲と
翌年九月の 創作オペラ『虎月傳』公演を取り決めて歸る。
美子が倒れたのは 昭和五十七(1982)年六月三日のことで、横濱青少年センター・ホールで上演する『虎月傳』のリハーサルが終はろうとする時である。
救急車で 昭和大學藤が丘病院へ運び込まれる。
息を引き取ったのは 七月四日。 享年七十九歳。
密葬は七月六日 通い慣れた 鶴見のカトリック教會で。
フローレンス・佐藤美子の音樂葬は 七月十六日 東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行はれた。
佐藤 亞土の 訃を知ったのは 平成七(1995)年正月。 享年五十八歳。 若死にである。
僕は 北米に出張中の事で、葬儀には參列出來なかった。
フロリダの宿舎で 阪神淡路大震災のニュースを知ったので、その前後の事はよく憶へてゐる。
後に トリニトロンの發明者として ソニーの社業發展に おおいに貢献した
宮岡千里も、
東京工業大學の學長を勤めた 内藤喜之も いまは亡い。
2018/11/06 初稿