相洲遁世隠居老人

近事茫々。

私の書評; 『なぜ日本は フジタを捨てたのか?』

2018-10-15 13:56:20 | 日記
私の書評;
『なぜ日本は フジタを捨てたのか?』
藤田嗣治と フランク・シャーマン 1945 ~ 1949

富田芳和 静人舎 2018/05/01


世に 藤田嗣治に関する傳記、評論は 自著を含めて數多あれど、フジタが國を棄てて、二度と再び 祖國の土を踏むことのなかった 謎の出國の經緯を解き明かしたものはない。

本書はGHQ軍事占領下の昭和二十四年三月、フジタの米國への出國に便宜を圖った聯合國軍総司令部関係者の遺した資料等を驅使して その謎を解き明かしてゐる。

大戰末期の昭和十九年初夏、東京美術學校(現 東京藝術大學の前身)で 軍部が後押しする戰意高揚の爲の戰爭繪畫作成に協力した畫家の全てを追放すると謂う粛清人事が行はれた。  この粛清事件が 戰後のフジタ追放劇へのプロローグだったと筆者は言う。

事件の黒幕は 肥後熊本藩主の末裔であり、貴族院議員でもあった 細川護立侯爵が後押しする 日本美術報國會會長の横山大觀であり、教授陣の後釜に座ったのは その息のかかった 小林古徑、安田靫彦、安井曾太郎、梅原龍三郎で、孰れも 美校出身者以外からの人選である。

謂はば、國粹派(院展派)による モダニズム派(反官展、反アカデミズム)粛正劇だとも謂へる。

美校での粛正劇が 粛々と行はれてゐた頃、ボヘミアンの王様 藤田嗣治は
 エコール・ド・パリ以來の仲間である 猪熊弦一郎、中村研一、荻須高徳、三岸節子、それに 亀の甲山の敬さん コト 佐藤 敬らを引きつれて 神奈川縣津久井郡小渕村
藤野の藝術家村への引っ越しに余念がない。


戰後になっても、昭和二十年十二月三日付け 朝日新聞のインタビューに;
『・・・同じ戰爭畫を描いたフランスのドラクロワと並べてみて さらに勉強しなければならないと考へてゐます。 ・・・・』と 意氣軒昂な所をみせてゐる。


國粹派による フジタへの個人攻撃の狼煙は 昭和二十一年十月十四日付け朝日新聞  <鐵 箒>への 宮田重雄による「美術家の節操」と題する投稿に始まる。

宮田重雄、懐かしい名前を久方ぶりに耳にする。 本職が何だかはっきりしないが、この慶應醫學部出身の畫家(?)は 戰時中は陸軍軍醫として從軍、戰後はNHKの
ラヂオ人氣番組「二十の扉」の常連として世間に名を知られた、今風に謂へば、
”タレント”である。

三井の大番頭”鈍翁”コト益田 孝の孫で、同じ慶應義塾出身の益田義信と共に 戰前の巴黎に遊學、梅原龍三郎に師事する『國畫會』の構成メンバーである。

フジタは これに對し 果敢に反論するが、これが いわば國粹派の走狗が仕掛けた罠に嵌ることになる。

この追放劇、まるで最近の相撲界での貴乃花親方追放劇に似て、アートの世界も次元を同じくする魑魅魍魎ぶりを連想させられる。

決定的なのは、盟友だと信じてゐた亀の甲山の敬さんコト佐藤 敬と猪熊弦一郎が主宰する新制作協會への入會を断られた事であらう。

筆者は 佐藤敬自傳「遙かなる時間の抽象」を引用しながら <決 別> の一項を設けて 簡潔に その經緯を語ってゐる;

戦前のパリ時代、戦争画、藤野への疎開とずっとフジタの盟友だった佐藤 敬と
猪熊弦一郎は、新制作協会の総会でフジタの入会が否決されたことを正式にフジタに
伝えに行った。

戦時中、疎開先で苦難を共にし、夢を語り合った画家仲間から、フジタは拒絶された。
フジタは死ぬまで彼らを許さなかった。  佐藤はそのことを自伝に書き残している。

「その後の藤田さんの新制作に対する風当たりは相当なもので、特に私達二人
(猪熊弦一郎と佐藤)は段々疎遠になりました。 私個人はこの結果を心から残念に
思って、藤田さんとの交友を取り戻すために、あれこれ気をつかってみましたがうまくいきません。
  数年前(注;昭43 1968)藤田さんがスイスの病院でなくなられ、ランスの本寺院で葬儀がおこなわれましたが、私は息子の亜土と共に参列し心より哀悼の意を表しました。  荻須高徳さん夫妻も悲しそうな表情で来葬していました。  噂では私達の出席は
ないだろうと云われていたのです。」


佐藤敬・美子ご夫妻の長男 亞土クンが 野口國民學校二年生の 阿部静子先生のクラスに編入して來たのは、昭和十九年春。
丁度、ご夫妻が フジタら エコール・ド・フランスの仲間と共に 藤野へ疎開するのを機に、妹 眞弓チャンと共に ご両親のもとを離れて 別府のお祖母ちゃんの所へ引っ越して來た。

すぐに仲良くなり、亀の井ホテル別館のご自宅にお伺ひしたり 我が家に遊びに來たりと 親しくお付き合いさせてもらった。

中學進學の時、鶴見・東寺尾のご両親のもとへ。  湘南高校から 昭和三十一年春、
三田山上での入學式に偶然 邂逅、久闊を叙す。 六年間の時間の空白も、クオーターの彼(母親がフレンチ・ハーフ)を見間違える事はない。

  この年、衆樹、中田を擁した慶應は 秋の慶早戰に勝ち 九シーズンぶりに優勝。 神宮から三田まで 提燈行列。
銀座に塲所をかえて、亞土チャンと二人、その夜 飲み明かす。

日吉での一年間を共に過ごした後、文學部美學美術史科の彼は三田へ、僕は小金井キャンパスへと 別れ別れになった。

  在學中から東宝映画に出たり、卒業後は 麻生れいこ と 五木寛之原作の映畫
『變奏曲』に主演したりと活躍してゐたが、昭和三十七年に渡佛。 

版畫家として 數多くの作品を遺すも 平成七年一月一日 五十八歳で早世。
昭和十一年十二月二十三日生まれの彼とは、生まれたのも 僅かに三日ちがいである。



昭和二十四年三月十日、紆余曲折の後、フジタは 日本の美術界に『畫家たちはけんかはしないでください。 自分の繪を描いてください。 國際水準の繪を目指してください。』との言葉を殘して羽田空港からPANAM機で飛び立った。

  聯合國軍軍事占領下での日本人の日本からの出國は 當然 GHQの後押しなくしては不可能であり、その大きな役割を果たしたのが 
副題にあるフランク・エドワード・シャーマン氏(Frank Edward Sherman)である。

遅れて 君代夫人も紐 育に呼び寄せるが、ここも 決して居心地の良い塲所ではなかったようで、一年にも満たない滞在で 終の棲家となる佛蘭西へ渡る。

以後 決して祖國の土を踏む事なく、Leonard Foujita として  八十一年の波亂の生涯を異國の地で逐える。

浪曲好きで 廣澤虎造の熱烈なファンだと謂うのは意外な一面であるが、
仲々 渡米の目途がたたず、二度まで 京都に長期滞在して祇園に、太秦に、清水坂の
陶藝工房と、遊興三昧の日々を送ったのは、老獪な畫壇政治家どもへの討ち入り前夜の
大石内藏助の心境の發露だったのであろうか?

2018/10/15初稿


名前の表記揺れについて(Wikipediaから引用)

藤田は名前の表記ゆれが多い画家である。まず「嗣治」の名前であるが、一般に
「つぐはる」と読まれるが前述のように「つぐじ」と読む場合もある。
これについては、元々次男だったこともあり「つぐじ」と読んでいたが、父から「画家として名を成したら「つぐはる」と読め」といわれ、パリで成功したあと藤田は「つぐはる」と名乗るようになったと言う逸話が知られる。

しかし、10代の頃から親友への手紙に「つぐはる」と記した例や、藤田の戦後のアメリカ・フランス行きを支援したGHQの印刷・出版担当官フランク・エドワード・シャーマン宛の手紙に「つぐじ」と署名するなど例外もあり、藤田がどういう意図をもって使い分けていたかは判然としない。

作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。フランス語としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。

フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。
今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代夫人の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそもレオナルド・ダ・ヴィンチへの尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である。



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