海堂尊 『奏鳴曲 北里と鷗外』 A Sonata by Two Doctors
文藝春秋社 二○二二年二月二十五日 第一刷發行
出版早々、友人より紹介ありて 早速 圖書館に豫約を入れたものが 半年たってやっと順番が回って來た。
四六判 450 頁、原稿用紙に換筭すると ざっと 1,000 枚の大作である。
遅讀の僕には 貸出期限の二週間で讀みこなすのにちと難しい量である。
著者は 該書に引き続き;
よみがえる天才7 「北里柴三郎」 を 3月10日に
よみがえる天才8 「森鷗外」 を 4月10日に 夫々 上梓してゐる。
(よみがえる天才シリイズ 孰れもちくまプリマア新書)
即ち 私は その順序を全く逆に讀んだ事になる。
序章 「妖怪石黒、大いに騙(かた)る」に始まる。
石黒忠悳(ただのり)の名前は 夫々1ヶ月遅れで上梓された よみがえる天才「北里柴三郎」「森鷗外」にも度々出て來るが、特に「妖怪」として描かれてはゐない。
しかし、幕府醫學處出身の蘭法・皇漢醫でありながら、帝國陸軍軍醫部に寄生し、既に 獨逸醫學全盛の中 第五代陸軍軍醫総監、陸軍省醫務局長と最高位を極める。
しかも その間、森林太郎が獨逸留學二年目の明治十八(1885)年には 一旦 失脚して内務省衛生局次長に左遷されながら 奇跡の復活を遂げ(筆者の表現)、留學最後の年には陸軍軍醫監(陸軍軍醫少將相當官)として長期出張で獨逸に押しかけ、小間遣ひに使い、歸國の船旅にまで付き合はされてゐる。
まあ、鷗外・森林太郎にとってみれば 疫病神みたいな存在である。
「騙」は 音は「ヘン」であり、訓は「かたる・だます」である。
終章がまた「妖怪石黒、最後に嗤う」で終はってゐる。
明治二十三(1890)年には陸軍軍醫監に昇進し、明治二十七/二十八(1894/1895)年の日清戰爭を陸軍省醫務局長として大本營陸軍部の野戰衛生長官をつとめ、その功で明治二十八年 男爵位を得る。
しかし戰塲での脚氣惨害の現塲を知る高島鞆之助が陸軍大臣に就任すると、明治三十 (1897)年には醫務局長を引責辭任したものの 其の儘 軍醫総監(陸軍軍醫中將相當官)として現役に留まり、豫備役に編入されたのが 四年後の明治三十四(1907)年, 後備役編入がそれから更に六年後の明治四十(1907)年、退官が なんと それから更に五年後の明治四十五・大正元年(1912)の事である。 前代・後代未聞の 粘り腰である。
その間、元老・山縣有朋や児玉源太郎に上手く取り入って生き殘った、まさに『妖怪』そのものである。
そして、退官後は 勅選の貴族院議員となり、大正九(1920)年には「伯爵」位を授かってゐる。
筆者、いや 北里柴三郎は「へちま」と呼んだとある。今 寫眞で見るとまさに「へちま」そのものの 妖怪顔である。
我々 國民學校世代が憶へてゐるのは 息子の農政家・石黒忠篤で 農林官僚から 鈴木貫太郎終戰内閣の農商務大臣を勤め、戰後 公職追放解除後は緑風會所属の參議院議員を務めた。
父石黒忠悳死去に際し、遺言により爵位を返上したと謂はれるが、息子の石黒忠篤は 父親の背中を見て育っており これを反面教師として爵位返上を決めたものだとみる。
石黒忠篤の妻は 穂積陳重の次女であり、次男孝次郎は京都大學法學部から三井物産。
戰後、オリエント出土品を中心とした古美術商となり、セレブ専用の古美術レストラン・クレッセントを創業。(孝次郎逝って久しく先年 コロナ禍で閉店、廢業)
偖て、「奏鳴曲」に戻って、後出しの『北里柴三郎』ならびに『森鷗外』が 所謂「史傳」であるとすれば「奏鳴曲」は 何であらうか?
編集子は奥附けに態態「この作品は史實をもとにしたフィクッションです。」と注記し、 筆者の海堂尊は鷗外の随筆「歴史其儘と歴史離れ」を引用しながら謎めいた事を言ってゐる。
「歴史其儘と歴史離れ」は 歴史小説について 大正四年一月「心の花」第十九巻第一號に掲載された 森鷗外の僅か五枚の小論攷であるが、現代語に直せば ズバリ「歴史其儘」とは「non-fiction」であり、「歴史離れ」とは「fiction」そのものである。
小説「山椒大夫」の執筆背景に假託して書かれたもので、私流に勝手に解釋すると、「奏鳴曲」は『小説、fiction』 であり、「北里柴三郎」「森鷗外」は『史傳、non-fiction」だと謂う事である。
冒頭の第1章 阿蘇の大鷲で 明治五年熊本御巡幸の折、北里柴三郎が 西郷隆盛の前で睦仁天皇と相撲を取ったと謂う塲面が出てくるが、果たして fact であらうか?
この『小説』を簡潔に総括すると;
先ず
森林太郎は 内にあっては 生母峰子に頭が上がらず 完全にその支配下にあり、外にあっては上司である疫病神・石黒忠悳に決して逆らはず、逆らへない茶坊主的存在に過ぎなかったのではないかと謂う姿が浮かび上がって來る。 巨人像が音を立てて崩れた思ひがしなひでもない。
この點は 我が人生にも多少重なる部分があり 同情を禁じ得ない。
林太郎の結婚相手は 大學入學前から周囲の關係者、即ち林太郎の生母・峰子、大伯父・西周、赤松良則海軍少將、林紀(つな)陸軍軍醫監の間で、赤松良則の長女・登志子と謂う事で話が固まってをり、陸軍軍醫部の廊下トンビ 石黒忠悳も當然その事を承知してゐた。
林太郎としては これへの反發もあってか、伯林で知り合ったエリスを日本に連れ歸って寄り添うつもりでゐた。
ところが、留學最後の年、一旦失脚した石黒忠悳軍醫監が奇跡の復活遂げて、一年間の豫定で獨逸出張にやって來る。 外國語が全く話せない上司に小間使いに使はれて、留學最後の一年間は散々な目にあった。 おまけに歸國の船旅にまで付き合はされ まさに 疫病神そのものである。 しかし一方、留學2年目で 疫病神が内務省衛生局に左遷された時、その置き土産の様に一等軍醫(陸軍軍醫大尉相當)に昇進した事、そして、奇跡の復活を遂げて 林太郎の希望通り 1年間の留學延長が認められた事は
まさに 福の神でもあった。
疫病神との40日間の船旅。 お陰で エリスと一緒の船での歸國を諦め、別の船を手配してエリス一人 日本に向かはせる。
日本に着いて、森家の女どもの猛反對にあう。 なかでも生母峰子の氣も狂わんばかりの猛反對には抗しきれず、あっさりと親友・賀古鶴所の取りなしを受け入れて エリスを獨逸へ送り返してしまう。
母親が強く勸める陸軍軍醫部で絶對支配を誇る順天堂閥と縁深い男爵令嬢を娶ったものの、これが家事一切を實家から連れてきた老女に任せきり。 本人は 漢詩を朗々と吟ずる女丈夫。 おまけに この老女が 森惣領家の一切を差配するとあっては 姑・峰子としては我慢ならず、初孫・於菟が誕生すると直ぐ 實家へ追い返してしまう。
この時も 惣領である林太郎は 爲す術なく生母の言いなりで、唯々 世間には 「矢張り 器量が 惡かったから!」と 言い譯にならない言い譯をして糊塗してしまう。
そこへいくと ドンネル北里柴三郎は 出來が違う。
本宅は 「乕(とら)」と謂う文字通りの女丈夫の虎ならぬ 乕に守らせ 三男三女を設け、獨逸留學中には下宿屋の未亡人と合意の上で空閨を充たし、歸國後は土筆ヶ岡養生園を金蔓にして 新橋だ向島だと 庶子、庶生は 其の數知れず。
森林太郎には その面での器用さはなく完敗だ。
北里柴三郎の幸運は 歸朝後 内務省の休職期限超過で失職した處を 新任の後藤新平醫務局長に拾われ、福澤諭吉先生と謂う 福の神に助けられた事である。
私立傳染病研究所は 福澤諭吉先生の理解で あっさりと(内務省)國立傳染病研究所に移管されたものの、再度 文部省・帝國大學醫科大學への移管のゴタゴタの黒幕が 陸軍軍醫総監・陸軍省醫務局長森林太郎であったとは ちと 信じられない話である。 著者の海堂尊は確たる證據を摑んでゐるのであらうか? 願わくば fiction であって欲しい。
「森鷗外」の中で 著者は 森林太郎と北里柴三郎の仲を 不倶戴天の敵だとか 疫病神だとか天敵だとか表現してゐるが、本文には そのような記述は一切見當たらない。
大學の年次は北里柴三郎が二年遅れであるが、年齢は九歳年長であり、弟分・森林太郎のロベルト・コッホ研究所入りを先輩らしく かいがいしく世話した經緯が美談の如く語られてゐる。
平野庸太郎(つねたろう)は奥洲伊達(現福島縣)で幕府代官處手代と謂うから最下級役人の子として生まれが、両親を早くに亡くし、幼にして越後國三島郡片貝村(現新潟縣小千谷市)の貧農石黒家の養子となり 元服して石黒忠悳と名前を替へた。 「悳」は「徳」の古字である。
二十歳で江戸の「醫學處」にもぐり込み松本良順の知遇を得る。 明治政府で 大學東校の句讀師としてしぶとく生き殘るも失脚。 軍醫寮に拾はれて保身術の達人となる。
獨逸醫學全盛の中 學術的業績がなく、事務方を歩きながら 同じく足輕出身で劣等感を持つ 天保九年生まれで七歳年長の山縣狂介とは氣脈を通じるところがあったと謂う。
日清・日露の両大戰で 戰死者以上の脚氣死亡者を出した陸軍白米食の元兇は この近代醫學知識のない石黒忠悳であり、その主張の裏付けとなったのが 陸軍軍醫森林太郎の 「陸軍兵食論」であったわけであるから、森林太郎の責任は 重かつ大である。
文久二(1862)年生まれの鷗外・森林太郎は 大正十一(1922)年七月 六十歳で死去。
嘉永五(1853)年生まれの北里柴三郎は 昭和六(1931)年六月 七十八歳で歿。
最後まで生き殘ったのは弘化二(1845)年生まれの石黒忠悳で 昭和十六(1941)年六月 大東亞戰爭開戰を知らずに 九十六歳の天壽を全うする。 前年六月、長男の忠篤が第二次近衞内閣に農林大臣として入閣と謂う晴れ姿を見ての大往生であるから 思い残す事はなかったであらう。
誰が勝って 誰が負けたかではなくて、今の日本で 森林太郎の名前を知らぬ人がゐても、森鷗外の名前を知らぬ人はゐまい。
百年に一回の頻度で コロナ禍が世界を席巻する毎に ロウベルト・コッホの名前と共に 北里柴三郎の再來を庶民は渇望する。 肥後熊本のモッコス北里柴三郎の名前は永遠である。
現代の日本人で 奥洲伊達郡出身の 石黒忠悳の名前を知ってゐる人が果たして何人ゐるであらおうか?
北里柴三郎は 本貫の肥後國阿蘇郡小國郷北里村も 孰れも「きたざと」と訛る。
獨逸留學に際し、「キタザト」と呼んで貰うために、総ての書類を『Kitasato』と獨逸語式に綴った。 これが 日本を含めた英語圏で「キタサト」と發音されて廣まってしまう。
現在問題となっている ザポリイジャ原發について、ZDF は 當然の事ながら獨逸語式に “Saporischja" で報道してゐる。 一方 BBC は ”Zaporizhzhia” F-2 は
”Zaporijjia”、TVE 西班牙では ”Zaporiyia” と ゲルマン語圏は「S」ノルマン・ラテン語圏は「Z」と 各國夫々自國語で報道してゐる。
日本のマスコミ各社は ザポリヰジャ か ザポロヂエ と 魯西亞語と烏克蘭語の間をウロチョロしてゐる。
學校法人北里研究所は「The Kitasato Institute」であり 北里大學は「Kitasato University」であり どこかで「Kitazato」に書き換え損ねたと謂う事になる。
本書にも「きたさと」と間違ってルビがふられてゐる。
2022/09/04 初稿