日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

愛車のスターレット。

2023-05-04 21:02:05 | 日記

  愛車のスターレットを手塗りで全塗装した。初めて新車を買ったのがこの車だ。これ以前は赤のファミリア、いすゞのジェミニを中古で乗っていいた。ファミリアは特に思い入れのあった車で、今でも手放さないでもう少し乗ったら良かったと思う。パワーも今の車に比べると、全然ないけど、赤のファミリアってその当時は人気があって、自分が買った時はそのあとだったけど、それでも気に入っていた。

  スターレットは、自分が就職して失望の内に退社し、無職を経験して再就職して、結婚前に、初めて買った新車だ。この小さな車で家族で、信州、島根、いろんなところへ旅行に行った。ベビーシートに乗せた子供も大学生になり運転免許を取った。その子供が初めて乗る車になった。もらい事故はあったけど、人に迷惑をかけることもなく、無事にこの車を就職とともに私に返してくれた。

  廃車にしょうかと思ったけど、この車が動かなくなるまで乗ってみようと思う。どこかで、故障したら、ぶつけたりしたら、交換部品もなく修理できなくなるだろう、その時まで乗ることができれば、この車は最後まで乗ることができたと思えるだろう。

  

 


最近、不思議に思うこと。

2023-04-02 17:18:06 | 日記

  YouTubeを見るのだが、ウクライナの戦争でロシアの戦車やヘリコプターが爆発する動画、塹壕にドローンから小さな爆弾を落とす動画、多くの人が死んでいる。爆散する戦車の中には人がいると思うが、その人にも家族がいるだろうし、その人の人生には子供時代もあっただろうと思う。大人になって何をしようかと考えていた時期もあるだろうに、突然に戦争が始まって戦車に乗っていたら死んでしまう。この死に意味があるかと言えば、侵略戦争の一端を担ったことだろうか。とても理不尽な気がする。

  一方で、ベースボールをTVで中継していたが、一人で何千万ドルというような金額をもらっている。どうして、意味もなく死んでいくような人がいる一方で、一人で一生かかっても使いきれないようなお金をもらっている人がいるのだろうと思う。無駄死にと思われるような人が世界にはいる一方で、何十人分かの人生で稼ぐようなお金をもらう人がいる。このことは、ベースボールに限らないけど、この違いは何なんだろうと思う。そんなに人に違いがあるのだろうか。

  自分が置かれた位置は、偶然にここに生まれてきただけで、そこで生活するのも自然なことだ。自分の努力で、金を稼いでいると言うことだと思うが、自分の努力の結果で何十人分の人生で稼ぐお金を得ることがある、言い換えると相当することがあるのだろうか。

  なにかがおかしいと思うのだが、どこがおかしいと言えば良いのか分からない。

  


普遍について

2022-12-05 16:38:22 | 日記

 普遍が何であるのかを考える。普遍とは、例えば薔薇であれば、個体としての薔薇でなくて薔薇全体としての薔薇、といっても薔薇の花の集合でもない。この集合を集合たらしてめている薔薇という概念なのか、名前なのか、性質なのか、議論の分かれるところだが、そういうものが普遍。

 薔薇の集合の名前が薔薇で、薔薇は名前でしかないと考えることもできるのだが、集合の要素はどうやって集めてきたのですか。と訊ねられると集合の名前というのは不足があるように思う。この考えでは、神様がはじめに薔薇と名付けました、という理解になると思う。

 薔薇は性質だとすると、花の中にそういう性質が存在することになる。すると薔薇は、花の中に性質として存在することになるのだが、花の中にある薔薇の性質って何だろう。その花の中で、薔薇以外の性質もあるのだろうかとか。こう考え始めると性質って説明になっているのかと思う。

 薔薇は、概念だと考えると花に概念があるわけではないから、薔薇という概念を人が持っているのだが、その概念を適用する時にどういう花が薔薇だと人は判断しているのだろうか。

 普遍が存在するかしないか、世界に何が存在しているのかを考えると人によって違いがあると思うのだが、普遍が存在しないと言ってしまうと、世の中にあると思われているものの数は結構減ってしまう。

 物しかないと考えると唯物論になるが、そう考え始めると物って普遍じゃないか、個々の物と言っても、個々はどうやって分けているのかと考えると、普遍によってこれは、机とかリンゴとか車とか分けているんじゃないですか。この普遍は物ではないから存在しないし、存在しないのなら個々の物に分けるのは意味がないように思う。

 そうすると、世界には個々の物などなくて、一つの物だけがあるように思う。分け隔てのない物、全てを含む世界、そういう物があるだけ、そこに自分も入っていて世界を覗いているように思う。

 でも、実際の世界はあくせくと、個人の資産を増やすことや、何らかの力や尊敬を集めることに必死になっている。そうすると、普遍と呼ばれるようなもので世界を区切ることに皆が必死なわけで、そういう概念というか、想像物が存在していると疑わずに暮らしているように思う。

 


信じる、信じない。

2021-09-19 10:37:44 | 日記

    旧約聖書を読んでいるのだが、多く民族皆殺しのシーンがある。女、子供問わずに神の命令で殺してしまう。大洪水の際にも、箱舟に乗り込んだノアの一族、一組の生物の他は皆殺しになる。

    神が全能なら、皆殺しにしなければならない行為を、何故、放置し悪事をさせるのだろうか。神が全能なら注意すれば悪人も自主的に言うことをきくと思うのだが。自主的にきいてもらう事は、神では説得にならない強制となってしまう論理的不可能になるということなのだろうか、説得ということが出来ないのだろうか。

 皆殺しにされた民族は、先にイスラエルの土地に住んでいたからとか、理由があって殺されてしまうのだが、それは死なないといけない悪事なのだろうか。乳呑み子を含めて罪があるのだろうか。旧約聖書を信じている民族なら罪を認めるのかもしれないが、一方的に殺される側は違う信仰を持っているんだけど議論の余地なく罪ありとされる。乳呑み子は、同じ民族ということが殺されねばならない罪なのだろうか。全能なら助けることも出来ると思うけど助からない。

    罪ということは、旧約聖書を信じているかいないかで評価が全く変わる。旧約聖書に書いてあることが正しいと信じるかは、結局それを読んだ人の判断なのだ。信じると信じない、異なる判断と一方の判断は、決して交わらない。信じる側は、信じないという選択枝を許すことが出来ない。信じないを許すこと=信じないことになるからだ。だから、信じる人が皆殺しをしない理由(行為の是非を疑うこと)がない。信じない人は、信じる人の存在を許すことが出来る。信じることを信じていないから。だから、議論にならない。信じない民族が旧約聖書の中で皆殺しに会っても、良い悪いの議論にはならない。一方には、神の前に良いという結論しかないからだ。

    旧約聖書が誤りだとは思わない。当時のイスラエルの人々の文化が反映しているのだろうと思う。現在、皆殺しを神が命じたと信じる人が現れたら、どうやって説得すれば神が命じていないと理解してもらえるだろうか。神が選んだ人以外は皆殺しすることが神の命令であることを反証する方法は論理的にはないだろう。神学的に異端と言っても、信じている人をいかんとも出来ないだろう。旧約聖書の時代も、必死に何とか皆殺しを止めさせようと努力、説得しようとした人もいるかもしれないけど、そういう人は石打の刑にされたのかもしれない。この旧約聖書の時代に、「汝の敵を愛せよ。」という人がいたかもしれないが処刑され、歴史に残らなかったのかもしれない。

    旧約聖書の世界には、敵という概念が存在する。敵と味方、善と悪、二元論的なものの見方をしているのだけど、神の愛の前で、敵っているのだろうか。汝の敵を愛せ。と言う神と同じ神と思えないのだが。

    人間の不幸の始まりは、敵という概念を生み出したことだろうと思う。いつ、敵が生まれたのかは分からないが、洋の東西を問わず敵はあって、漫画の世界でも敵が必要で鬼だと退治されてしまう。子どもの頃から、ずっと敵がいるわけだから、二元論の考えはなじんでいるのだろう。

    この概念を壊す事が出来れば、世界は変わると思うのだけど。

    


過去

2021-09-04 13:09:36 | 日記

   家には出来上がったガンプラが幾つかある。私が作ったものに子が作ったものだ。子が描いた絵や、子に描いてあげた絵とか、そういう家の記憶のような物が幾つもある。子は家を出て1人暮らしをしている。もう、一緒に暮らすことはない、この家に泊まることも数えるくらいになるだろう。

   時々思うのだが、過ぎ去った過去はあるのだろうか。過ぎ去った瞬間があったことは確かだと思うのだが、もうそこに戻れないことは確かなのだが、どこかにないのだろうかと思う。

    天国や極楽浄土があるとは思えないのだが、過ぎ去った時間というのは、その間は実在していた。私も、私の子もいつかこの世界を去ることになるのだが、その瞬間に存在していたことは、時間が経とうとも変わらない。この事実性というのだろうか、一度、起きた出来事は変わらない。

    皆が忘れ去ろうとも、出来事は変わらない。私と子の時間、それはどこかにあった。過ぎ去る時間も、忘却も、起こった出来事を変えることはない。楽しい時間があったこと、このことは変わらない。