これは加州のシェラネヴァダ山脈(アンドロイド使用ではないが、新画像はフォルダーに取り入れられず、とりあえず現在のシェラを)
北部州の長姉の元へこの2年来初めて訪問し、2週間ほどゆっくり過ごしてきた。お互い未亡人となってしまった今、時には涙をながしながら、積もる話は尽きなかった。木々に囲まれた家で、北国の遅い春を、スェーデン製の50年という年季の入ったストーブで頻繁に暖を取った。庭の林から切り出した薪は10年近く乾燥させてあり、気持ちが良いほど燃えてくれた。7年前に他界した義兄がそれまでに切り出した木々を薪にしたもので、いまだに薪は底を尽いていない。
春分の日を過ぎても、病後から手足が冷たくなりがちの私は、燃える薪を見ながら暖を取るのは、まるで世界一のカウンセラーやそれこそ主と話をするが如くに、心身共に癒されることだった。
北の島は寒いが、それでも木々には花々があふれ、水仙があちらこちらに背筋を伸ばしてその健気な律儀さを見せていた。パティオには牝鹿一家が始終訪問し、さまざまな大中小のキツツキは盛んに専用のワイヤー格子のフィーダーにいれた四角く固めた牛脂肪で穀物を混ぜたスエット・ケーキをついばみにやってくる。寒い朝からハチドリは用意した水蜜を吸いにせわしなくやってくる。森からはフクロウが頻繁にその相方への挨拶に忙しく、白頭ワシも通りを隔てた森から飛来してくる。
窓辺に座ってそうした「森の世間」の様子を目にしていると、心のシワがだんだんに伸ばされていく気もして、「帰ったらあれをしよう、これをしたい」という気持ちが湧いてくる。自然の為す技だろう。帰宅しての孫たち、4歳児と10ヶ月児との遊びが恋しくなり、里心がつき始めれば、滞在の目的は果たされていたと思う。10ヶ月児は私を忘れたろうかと思ったが、再会すれば、私に腕を大きく開き真っ直ぐにやってきた。
北へ飛び立った日、雲海の切れ間に見え隠れする緑の森や湖や白い山脈を目にしては、なんども「そうか、ここにもあそこにも、もういないんだ」と、頭では理解していることを、心がなかなか理解しない自分を持て余した。世界の果てまでずっと飛び続けても、もうこの地上には決して探し出せない人。本当はすぐ私のそばにいる気配を感じても、私のその「時」が来るまでは、目には見えず、その手や頬にも触れられない。
飛行機の窓外の輝く雲が、霞がかってしまいそうな途端、突然906年前に鳥羽天皇に誕生した悲劇の第一皇子・崇徳院 の詠んだ歌が脳裏を駆け巡った。
「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
(現代訳:川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれるが、末にまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと思っている)
確かに夫は大学時代古事記や源氏物語などの古典を読み、特に気に入っていたのは方丈記だったが、久安百首にある崇徳院 の詠んだ歌を記憶のどこからか引っ張り出してきて、それはまるで、私に伝えたかったかのように。亡くなる前に「なんとか私に連絡してちょうだい」という私のたわごとを覚えていてそれを私に伝達したとしたら、とても彼らしい。
「カサブランカ」の映画が好きで、主演のハンフリー・ボガートも気に入っていた人は、その映画でボガート(ボギーと呼ばれた)が口にした、
”Here's looking at you, kid."
和訳すると、「あなたを見ているよ。」は、単に彼は彼女がそこにいてくれてうれしい、彼女がきれいに見える、という意味のいわば戯言を、時折”Here's looking at you, XXX(私の呼び名).” と言ったことがあった。それを私の頭に送ってくれたら、「チャラい!!」と愉快になって私は、突如一人笑い出して、乗務員や乗客は驚かれたかもしれない。
されど地味でも崇徳院の歌は、私にはしっかり受け止められ、希望は捨てまいと再びこれからも邁進してまいろう(どうも古典的になってしまう)、と思ったのは確かである。そして私こそ、見えない貴方に向かって、”Here's looking at you, kid!"と言ってみよう。