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ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

秋は突然やってきて

2017-10-02 | 国際恋愛・結婚

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今北の島へ飛んできているのは、理由がある。姉の夫が亡くなって一年経ったのだ。早くに秋や冬の来るこの島で、ひとりきりで、一周忌を過ごすのは、寂しかろうと、日本の姉と二人でやってきたのである。子供に恵まれなかった姉夫婦は、この北の島にカリフォルニアから移り住んで40年は経っている。その間日本に少し住んでいたこともある。

主を待つかのような猫と犬

姉と姉の夫は、私がまだ中学生の頃知り合って、結婚した。結婚した当初は、日本に住んでいたが一年ほどで姉を伴ってアメリカに帰国した。なれそめは、姉の働く事務所にある日、彼が訪れ、姉を見初めたのだった。二回、三回と事務所にやってきて、なんだこの人は?やけになれなれしい、と思っていた姉は、とうとう正式にデートの申し出をされた。それが二人の歴史の始まり。

結婚当初母は、それほど諸手を挙げて賛成していた結婚ではなかったので、時折義理の息子のことを「どこの馬の骨だかわからないひと」などとつぶやいていたが、後年私が彼の系図を辿ると、アメリカに独立戦争以前に来ていた家族の出であり、富裕ではなくとも堅実な人たちのようであった。おかあさん、彼はニューハンプシャー州の馬の骨でしたよ。

二人は、お互いにそう健康に恵まれていたのではなく、姉は 若い頃から腰椎椎間板ヘルニアの持病があり、それが悪化して、大きな手術をこれまで三度してきたほど、痛みが人生のコンパニオンである。彼女の夫も、胃潰瘍が持病で、結婚後まもなく大手術をする羽目に陥ったほどであった。つまり夫婦で、体前面(夫)、体裏面(姉)に手術痕が線路になっていたわけだ。

 


姉の夫は、自己の損失を気にかけないほど、他の人々に親切を尽くしてきた人だった。それは私の父親にも似ていて、これを類は類を呼ぶと言うのだろうかと思ったほどである。それでも経理の長けた姉のせいで、ある程度は抑制があったようだ。晩年にいたるまで35年ほどは、メイソン、エルクスロッジの会長などを務め、多くの人に愛されてきた。

国務省の仕事で、ヨーロッパ、南アジア、中東、アフリカへ赴くことが多かったが、テロリストに米大使館が襲われ、人質に取られたことが、南アジアとアフリカで二回あった。そんな冒険の多い人生だったから、リタイアしてから心臓病を患ったのは、信じがたくもあったが、納得もいった。

病を得てからの数年は、誰かを助けに行く以外は、大きなピクチャーウィンドウの傍のお気に入りの椅子に座って、読書三昧、そして森の様子を飽くことなく眺めては、平安な気持ちになっていたようだった。去年短い入院を経て旅立った時は、眠りにはいるかのようだったと聞く。今彼のお気に入りの椅子には、愛犬が毎日座り込み、彼と同じように、外の森を静かに見ている。


 だんだんかつての主に似てきた


デート映画

2017-08-20 | 国際恋愛・結婚

あのベンチを見つけた末娘



後に結婚することになった人とのデートで、最初に観た映画は、印象深いものだ。夫と私の最初の映画は、Close Encounters of The Third Kind(邦題は、未知との遭遇)である。スタートレックにもスターワーズにも、全く興味がなかったのに、この映画は大好きだ。その次に観た映画も大好きな作品。二ール・サイモンのThe Goodbye Girlである。これはChic Flics(女性観客をターゲットにしたロマンチックコメディやドラマ)だが、主演のリチャード・ドライファスがアカデミー主演賞を受賞したくらいよく出来ている映画だと思う。と言うことは、私は彼の演技が好きで、この二作を選んで二人で観に行ったのかもしれない。

とにかくあの頃は映画は、今ほど高くなく学生の身分でも、簡単に観にいけた。勤める大学の敷地の果てに、新しい映画館ができたが、そこは、ゆったりして、綺麗なので、最近よく利用するが、火曜日は一日中ひとり5ドル50セントで入場できる。火曜日が暇であれば、の人に限るが。


子供達にも、そんな思い出に残る映画デートがある。長女は、Shallow Hal (愛しのローズマリー)だと言った。これには笑いこけた。長女夫婦らしい。三男はWalk The Line (ウォーク・ザ・ライン)で、まとも。息子たちはこの映画から、皆ジョニー・キャッシュのファンになったが、彼はこの映画の二年前に亡くなっている。長男はディズ二ーのUp! (カールじいさんの空飛ぶ家)で、彼女も気に入り、クリスマスのプレゼントに彼女は長男にUp!のお手製のスクラップブックをあげた。あのソーダボトルのキャップのピンも入手して、結婚披露宴の時、背広につけていたくらい、気に入っていた。この映画は、誰でも苦痛なく観ることができると思う。


当時ハワイの大学生だった次男と妻は、なんとデートで映画には行っていなかった。そりゃあ、外へ出れば、魅惑的なビーチだったから、無理はない。結婚して初めて二人で行った映画は、Skyfall(007スカイフォール)だと言う。そして末娘は、Where The Wild Things Are (かいじゅうたちのいるところ)。ご存知のように、モーリス・センダックの多くの作品はアメリカの子供達に好かれ、愛されている。私はこのWhere The Wild Things Areの怪獣のコスチュームを依頼されて制作したことがあり、フェイクファーを扱うのに苦労したのを思い出す。


映画の筋はともかく(主人公のトム・ハンセンの。。。いや、ここでは言わないほうがいいだろう)500 Days of Summer (500日のサマー)に使われたベンチを偶然見つけた末娘夫婦は、なんとなくそのベンチに思いいれがあるらしい。その映画が二人の最初のデート映画だと思っていたが、封切られた時、娘はイスラエルに行っていたので、見逃していると言う。この映画は、ダイアローグを楽しむタイプの映画である。


私は見終わって憂鬱になる映画も、たまにはいいが、Simpleton(阿呆)なので、ああ、面白かった、センスのいい映画だった、と幸福になる物が好きである。ハッピーエンディングを好むのは、現実でしっかりと悲しいことは見ているからだろうな。さて、貴方の思い出のデート映画は?


 

あのベンチに座る末娘の夫

 


国際結婚事情

2017-08-16 | 国際恋愛・結婚


アメリカの洗濯洗剤のCMで、妻が日本人、夫が白人が夫婦という設定のコマーシャルが, おそらく十年ほど前のことか、あった。これを見た時、そういう時代になったんだ、と少々感慨を覚えた。私が1976年に学生で来米した時だって、そういうカップルはいらしたし、第一、姉二人は1967年と1968年にそれぞれアメリカ人と結婚している。 1970年代になっても、日本の方からは、よくご両親がお許しになりましたね、とか、アメリカの方からは、言葉も文化も違うから、たいへんなことでしょう、などと言われるのが、よくあったことだったと思う。

最初に結婚した姉の場合、まず両親は反対したが、そのうちに母は、父に「それでは、この子が今以上に幸せと感じる相手との縁談をお世話できるの?」と聞くと、父はしばらく考えていたが、結局折れた。次の結婚の時は、もはや両親は、娘の意志が固く、相手が誠実であると見えたので、結婚式の計画に進んで加わった。太平洋は、ひとっ飛びなんだと思いつつ。私の時は、夫が日本語で両親あての手紙を最初にしたためた。父は「まず学業を終えることだ。」と言い、夫はそれからすぐ卒業したので、二人は結婚したのだ。

実は私の叔母も、フレンチカナダ(つまりケベック)生まれで、後にアメリカ市民となった人と結婚していた。戦後処理で滞日していた彼は、津田塾の学生だった叔母を見初め、結婚し、しばらく東京都練馬区にあったグラントハイツで子供が三人生まれるまで住んでいた。1960年代中頃に一家はアメリカ東部へ移住した。 そういう環境にあったから、かはわからないが、アメリカ人やアメリカの生活は、さほど珍しくはなく、ただ日本人じゃないだけだ程度の感覚で育った。ちなみにこの叔母と叔父は叔父の職業柄アーリントン国立墓地にそろって眠っている。

私が留学したのは、外国や外国人に対する憧れからではなくて、強いて言えば、勉強し終えて帰国後、考古学の研究をしたい(実にオタクな人であった。。。)もんだ、というゴールがあったからである。高校卒業時に「滅多やたらに結婚すべきではない」などと、級友の卒業アルバムに書きまくって得意気でさえあった愚か~な私。アメリカ人と恋愛・結婚するなどとは、夢にも思わなかった。

話は変って。夫と時々TV番組の話をするが、Dancing With The StarsやBachelorやAmerica's Got Talentではない。早寝早起き(早起きすれば、夜ぐっすり眠れるだろうと)の私は、Jimmy Kimmel Showも見ないし、ましてThe Late Show with Stephen Colbertが始まる頃には、深い睡眠中である。ではなんのTV番組か、と言うと、子供時代見たアメリカの番組である。

昔は日本では殆どのドラマやコメディや、バラエティショウはアメリカからのだった。私はアンディ・ウィリアムスショウに育てられたようなものだし、姉たちはエド・サリバンショウだった。Surfside Sixや77 Sunset StripやらHawaiian Eye、New Breedなど、毎日そうした番組があったのだ。 Sugarfootは小学校に上がるか上がらないかの頃から大好きだった。主演のウィル・ハッチンス(Will Hutchins)は1930年生まれというから、その頃21,22で、素敵なお兄ちゃんに思えたのだ。

せんだって「それでSugarfootはねえ、。。。」と話し始めると、同い年のくせに、夫はそんな番組見たことないと言う。あの時代アメリカだって今のように、たくさんテレビ局があったわけではなく、三大ネットワークと公共放送局のPBS以外なかったはず。でも知らない、と言う。貴方は一体どこの国で生まれたの? 私は特にテレビっ子ではなかったが、ちょっと、Sugarfoot知らないなんて。思い出した。邦題は、あまちゃん野郎。う~ん、これは。。。Sugarfootは元来sweetheartで、”優しい人”のほうが、ドラマに似合うと思う。あまちゃん野郎、なんて言うと、にやけている人しか想像できない。

とにかく、文化はなにもテレビ番組に限らず、様々なエリアについてであるから、日本人らしい考え方、物の言い方、振る舞いの仕方も文化の一つであろう結婚して36年、お互いに異なりに異なったバックグラウンドと感じたことはあまりない。意見の相違はあっても大抵話すことでお互いを理解できてきた。話す、と言っても私達の場合は英語と日本語である。そうである、夫は日本語の読み書きはともかく勉強したので話せる。両方が両方の言葉を使って喋ると、お互いの理解は進む。これは便利なことである。そして日本語を知らない子供達の前で、クリスマスの頃はおおいに役立った。現在は息子二人は日本に二年間行ったので、日本語をぺらぺら喋るし、一人は納豆まで好きになっている。これは困る。クリスマスの話は、こそこそする以外できなくなった。

以前小規模な海軍基地のある町に住んだことがあり、そこに勤務する海軍人と結婚している3,4人の日本人妻たちにお会いしたことがある。まだまだお若い綺麗な方々だったが、英語は得意じゃないし、面倒なのよね、とおっしゃった。どうやって意思疎通を図るのか疑問だったが、なんとなく通じる、と皆さんおっしゃる。ふーん、愛があれば、っていうことかな。すると、そのうちの一人は少し暗いお顔だった方が、もうすぐ夫と別れるのだと言った。「今朝なんて、お手洗い掃除に夫の歯ブラシを使ってやった」と言う。そ、そんな!あっちがなに言っているのかわからないし、あっちだってこっちが何を言ってるのかぜんぜんわかってないのよ、と言う。まだ乳飲み子と言える男の子を抱える若い若いお母さん。離婚したら日本に帰るとおっしゃっていたが、その後どうなされたことか。たいへんな思いをされていなければよいが。

敗戦後連合軍がやってきて、当時日本女性は多くはアメリカの兵隊さんと知り合った。結婚できずに生まれた子供をどうしていいかわからなかった女性も少なくない、というよりも、結婚して渡米した日本女性のほうが数少なかった時代と聞く。私の母はしばらく大磯の澤田美喜さんのエリザベスサンダースホームを援助していたことがあり、その時代のホームは行き所のない多くの混血児を引き取って育って、時には米人夫婦の養子縁組もあったと母に聞いた。お正月には立派な筆跡の年賀状が澤田さんから届いたりしていたが、もう今は昔の話。

それにしても、今こうして、いわゆる国際結婚と称する結婚をしている人々がたくさんいるが、また離婚もつきものであろう。文化や言葉が異なっても、気性があい、お互いを思いやっていけることは可能であるが、どこかでネジの回転が狂ってしまうことも人間だから、ある。同じ文化や言語を分かっていても、ネジの回転は狂う。どこの国の人が伴侶になっても、意思疎通を計る(たとえ言葉がハンデでも)努力、二人で協力していくこと、そして、相手を変えようとしないことが、共白髪の秘訣かもしれない。同一言葉は意外にそう重要でないのかもしれない。それにしても、Sugarfootを見ていなかったなんて。。。



Part 2 次男のこと

2017-08-05 | 国際恋愛・結婚

Trolleholm(トロールホルム)城はトロール–ボンデイ伯爵が城主であるが、実際には、会社組織の団体が半分を所有している。城自体は堅実な北欧人気質を感じさせ、無駄な装飾や大袈裟な建築物ではない。大きさも圧倒されるようなものではないが、敷地内には昔あった伯爵専用の騎馬隊馬小屋などがあり、それらの建物と城は広大な庭ごと、堀で囲まれている。敷地の近くでは、昔からの自給自足で畜産や菜園もずっと続けている。伯爵は、一年の大半をパリやロンドンで過ごす実業家と聞く。


 


の城の中には一階に小さな図書室と別に、建物中央に、吹き抜け天井の大きな図書室が、まるで城の心臓のように設えてある。ほとんどの部屋には自由に入れ、私達はまず一階の小さな図書室で驚いた。そこには14世紀や15世紀の貴重な古書が書棚にずらりと並んでいたからである。手に取って読むこともできるのだ。おおきな図書室は、二階の廊下を歩いていた夫と私が、偶然二階部分の図書室へのドアを“発見”した。それは数多くあるドアの一つで、向こう側から、誰かが感嘆の声をあげていたのを耳にしたからである。


 


天井までの書棚にぎっしり、それもとても貴重な中世からの本までも収められている。なるほどこう言う生活を王侯貴族はしていたのだ、と思うと、目の当たりにする図書館にも匹敵する膨大な蔵書に感銘を受けた。

 

この城の大広間では親族および近しい友人を招いてのフォーマルな昼食会が開かれた。主賓席の中央に座する新郎新婦は、蝋燭の光を跳ね返すように、幸せに満ちた笑顔をしていた。結婚式の招待状を受け取った方々の中には、息子がヨーロッパのお姫様と結婚するのだと誤解したお人もいた。いえいえ、気高く、輝くような笑みを持つ彼女はお姫様ではなく、父親は実業家で、ドイツ人の母とスエーデン人の父を持ち、母親はフィンランド人で、看護士である。市井の人々である。


 


食事が済むと次はホールに改造した元騎馬兵団の馬小屋での別の披露宴が、カジュアルに催された。これは主に学友や集う教会の人々のためであり、簡単なサンドウィッチやソフトドリンクが用意され、そこでウェディングケーキを切ったのである。そして新婦の父親と友人が、衣装まで着込んで、ミュージカルのInto The Woods からのAgonyを歌ったり、あちらの長男がギターを弾いて姉の幸せを願う歌を歌って、しんみりと心を打たれたり、また、うちの長男がホロリとするスピーチをしたり、多くの人々と共に楽しい宵を過ごした。こうしたことへの準備計画がいかに大変であるか容易に想像がつき、完璧につつがなくこなされたことへの、新婦の両親はじめ家族への賞賛と感謝は絶えなかった。


 


結婚式の前夜、花嫁の父に尋ねた。ナタリーは、うちの次男の一体どこに惹かれて、結婚を承諾したのでしょうか? 彼は、笑って、あの子は気が強く、どんな男の子にも負けない、と肩肘を張っていて、決して簡単にイエスと言う娘ではなかったのに、あなたの息子さんに会ってからは、角が取れたかのように、柔軟で素直になったのですよ。それは彼が穏やかに理路整然と物事を説明するので、圧倒されたんでしょう。私たちは心からこの結婚を喜んでいます。

 

え?そんな息子、私は育てたのだろうか?覚えがないが、とても頑固な息子であったのは知っている。ただ、キリスト教会の宣教師として、十九歳から二年間をブラジル伝道に費やして帰還してからは、かなり成長し、人の痛みの分かる者になった様な気はする。

 

この二人は五年後の昨年の暮れ、初めて親になった。今年の夏至祭で、小さな娘は初花冠をかぶったが、マイストングの周りでダンスをする人々の輪に息子に抱かれて入る前に眠ってしまった。

 

忘れていたが、この城には三人というか、二人と一匹の犬の幽霊が出るので有名である。そういえば。。。地下にある使用人用の、誰もいない食堂を撮影しようとシャッターを切ったら、写ったのは靄だった。もう一度取ると今度は取れたが、その映像、あっという間にカメラから消えてしまった。シャイなのかもしれない。何れにしても悪霊ではないようだ。


次男のこと

2017-08-05 | 国際恋愛・結婚

夏至のスエーデン・スコーネ地方の小麦畑の上に広がる空は、カリフォルニアの紺碧な空と異なって、遠慮がちな、優しい、優しい薄い青だった。ちろちろと白い小波をたてているエーレスンド海峡が、青い小麦畑の果てに見える。ここ南スエーデンの小さな村に住む家族の一人娘が、村の広場へ、花冠をかぶり、自分で仕立てた木綿の夏らしい、でも控えめなドレスに身を包んで、婚約者と手をつないで村の広場へ歩いて行った。

 

広場の中央には、綺麗に草や葉で飾られたマイストング(メイポール、五月の柱)が立てられ、その周りを村の人々に混じって、婚約者や友人や家族と共に踊った。彼女の笑顔は、ことのほか明るく、その笑い声は陽気に弾けた。ミッドサマー(夏至祭)はクリスマスの次に大事な祝日よ、と夏至祭につきもののストベリーショートケーキを切り分けながら、ナタリーは、アメリカからの彼女の新しい家族になる私たちに、楽しそうに言った。その傍らで、彼女と翌日結婚する息子は、柔らかな微笑みを浮かべていた。

 

翌日コペンハーゲンで彼女と婚約者は、両家族の見守る中、厳かに結婚した。午後には、村から少し離れた城で披露宴があり、せわしなかったが、誰もが高揚とした幸せな気分で、あの長いオーレスン橋を渡って、スエーデン側に戻って行った。あちらもこちらも子供は五人、同じ年頃で、うちはすでに長女と三男が結婚していたが、あっという間に打ち解けあって、ゲームの話などもしていたほどだ。ナタリーには四人の兄弟がいて、生まれた時から彼女は父親の目に入れても痛くないほどのお気に入りであるのは、すぐわかった。

 

ナタリーと次男はハワイの大学で知り合った。三男も彼の妻もその大学へ行っていたので、すでに四人は“仲間”である。同じ教会へ四人は毎日曜日集い、勉学に励み、三男以外は、揃って一緒に卒業した。あの年ナタリーの家族も私の家族も忙しい夏を迎えたものだ。五月にはハワイの卒業式に行き、六月はコペンハーゲン空港でナタリー家族が、私達夫婦と子供五人と義理息子と義理娘、そして日本の親族をも迎えに来てくれたのだ。


遡る一年前、次男は夏休みで大学からスエーデンに帰省しているナタリーにプロポーズする計画で長男とヨーロッパへ発った。長男は応援団な役割で。ナタリーの家族は、非常に親しみやすく、親切で楽しい人たちで、次男のプロポーズは計画通り運んだ。長男は、テキストで、逐一実況中継のように私達に連絡してくれた。彼女の父親は、息子達と意気投合し、母親も包容力のある人で、翌年に決めた結婚式が本当に待ち遠しいものになった。


その年のクリスマス休暇に次男はハワイから、ナタリーを連れてカリフォルニアに帰省した。スエーデン人には珍しく、彼女は小柄で、金髪のピキシーカットがとてもチャーミングで愛らしく、スエーデン人は、英語が達者だが、彼女の英語はアクセントもなく、話してみて、聡明な、気さくな、そんな素敵なお嬢さんと見受けた。彼女を嫌いな人などいるだろうか?

 

この続きはまた明日。