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『記紀』の神名表記について』

2014-05-13 20:31:38 | 例会・催事のお知らせ
『記紀』の「神名表記」について

『記紀』に出てくる神々の名前は解読が難しく、通常使用しない特殊な漢字表記に読むことすら難解である。
しかも同時代に編纂され、献上された『古事記』『日本書紀』の漢字使用に大きな違いがある。
『古事記と日本書紀』は太安万侶・稗田阿礼が編纂制作。わが国で最も古い書物と言えば、『古事記と日本書紀』である。
『古事記』の編算(へんさん)は西暦六八一年頃、天皇家の歴史を伝えるために、天武天皇の願いで作られた。
その資料に神話・伝説や『帝紀』『旧辞』などを編纂し、舎人(とねり)・稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させた。阿礼は聡明で多くの事柄を一度見るだけで覚えて暗誦することが出来たという。
その後、編纂の作業は西暦六八六年に天武天皇の崩御で中断、三〇年後に再開され、学者であった太安万侶(おおのやすまろ)が筆記し編纂されて、元明天皇に献上された。近年奈良市の郊外から遺骨と墓標誌銘が出土された。
『日本書紀』については、日本初の正史として西暦六八一年、天武天皇の命によって編纂が始まった。作成には川島皇子の他六名の皇族ら官人、学者が参画し、後に紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、太安万侶も加わったと思われている。その後、四十年の歳月を経て養老四年(720)に完成され舎人皇子が元正天皇に献上された。『日本書記』については誰がどのように作成したかは記述はなく、時の権力者藤原不比等が関与したのではと思われている。
二つの古書の違いについては過去から様々な論議や推測がされているが、その意味には多くの謎が残されていている。
『古事記』は天皇家の私史として、神話の天地開闢から推古天まで、出雲編と氏族の詳しく述べられ、和文体を併用した漢文体で、全三巻で構成されている。
『日本書記』は対外的に正史として、天地開闢から持統天皇まで、漢文で全三十巻系図一巻で作成されている。
日本正史として六国史『日本書記』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が明記され、『古事記』『日本書記』は互いに比定しながら、欠落部分を補完しつつ日本の起源を探る基本古書となっている。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和54年(1979)太安万侶の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。
その事によって「古事記」と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で7世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は7世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。
『古事記』については偽書説が一部の学者から提起されたが、近年、『古事記』実在の裏付けと、その記述の真価が認められ、再認識されている。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本系統とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(1669~1736)伏見大社の神職に生まれ、徳川吉信宗に国学の学校の創設を嘆願した。
賀茂真淵(1697~1769)賀茂新宮の禰宜の家に生まれ、荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣長(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前44巻を著した。平田篤胤(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、『記紀』で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記され、『記紀』に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。

① 『古事記』本文・天地開闢編。
天地初發之時於高天原成神名天之御中主神(訓高下天云阿麻下效此)次高御産巣日次神産巣日神此三柱神者並獨神成坐而穏身也次國雉如浮脂而久羅下那州多陁用弊流之時(流字以上十字以音)如葦牙因萠騰之物成神名字摩志阿斯訶備比古遅神(此神名以音)次天之常立神(訓常許訓立云登云々多知)此二柱神亦並獨神成坐而穏身也
上件五柱神者別天神
次成神名国之常立神(訓常立亦如上)次豊雲上野神此二神亦獨神成坐而穏身也次成神名宇此地迹上神次妹湏比智迹去神(此二神名以音)次角杙神次妹活杙神(二柱)次意富斗能地神次妹大斗乃弁神(此二神名以音)次於母陁流神次妹阿夜上訶志古泥神(此二神名皆以音)訶志古泥神(此二神名皆以音)次伊耶那岐神次妹伊耶那美神(此二神名亦以音如上)上件自国之常立神以下伊耶那美以前并稱神代七代(上二神獨神各云一代次雙十神各合二神云一代他)

「特別な天つ神と神世七代」(読み下し)
天地初めて発けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、みな独神(独り神)と成りまして、身を隠したまひき。次に国雉く浮ける脂の如くして、海月なす漂へる時、葦牙の如く萠え騰がる物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神、次に天之常立神。この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき。上の伴の五柱の神は別天つ神。次に成りし神の名は、国之常立神、次に豊雲野神。この二柱の神も独神成りまして、身を隠したまひき。次に成りし神の名は、宇比地邇神。次に角杙神、次に妹活杙神。次に意富斗能他神、次妹大斗乃弁神、次に於母陀流神、次に妹阿夜訶志古泥神。次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神、上の件の国之常立神より下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。
※妹は夫婦の妻を表す。
② 伊邪那岐命と伊邪那美命
於是天神諸命以詔伊耶岐命伊耶那美二神神修理固成是多陁用獘流之國賜天沼矛而言依賜也故二神立(訓立云多~志)天浮橋而指下其沼矛以晝者塩許~呂~迹(此七字以音)畫鳴(訓鳴云那志也)而引上時自其矛垂落塩之累積成嶋是淤能其呂嶋(自淤以下四字以音)於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿於是問其妹伊耶美命日汝身者如何成荅白吾身者成~不成合處一在尒伊耶岐命詔我身者成~而成餘一處在故以此吾身成餘處刺塞汝身不成合處而以爲生成国土生奈何(訓生云字牟下効此)伊耶那美命荅日燃善尒伊耶那岐命詔然者吾与汝行廽逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比(此七字以音)如此之期之詔汝者自右廽逢我者自左廽逢約意以廽時伊耶那美命先言阿那迹夜志愛上袁登古袁(此十字以音下効此)後伊耶那岐命言阿那迹夜志愛上袁登賣袁各言竟之後告其妹日女人先言不良雖然久美度迹(此四字以音)興而生子水蛭子此子者入葦舩而流去次生淡嶋是亦不入子之例於
淤能碁呂島(読み下し)
ここに天つ神諸の命もちて、伊邪耶岐命・伊邪耶美命二柱の神に「このただよへる国う修め理り固め成せ」と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の未より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここにその妹伊邪那岐命に問ひて、「汝が身が如何にか成れる」と日りたまへば、「吾が身は成り成りて、成り合はざる処一処あり」と答えたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処あり、かれ、この吾が身の成り余れり処を持ちて、汝が身の成り合はざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むもとかに」とのりたまえば、伊邪耶美命、「然善けむ」と答へたまひき。ここに伊邪耶岐命詔りたまはく、「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ」とのりたまひき。かく期りてすなわち、「汝は右より廻り逢へ。我が左より廻り逢はむ」と詔りたまふ、約り竟へて廻る時、伊邪耶美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げて、「女人先に言へるは良からず」と日りたまひき。然れどもくみどに興して、子水蛭子を生みき。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも子の例に入らず。
◎アンダーラインは神名で、本文の小文字で(訓・音)の箇所は和漢の音訓の読み分けを表している。

『古事記』と『日本書紀』の神々の表記の違い。
『古事記』
★別天つ神「天之御中主神」*(アメノミナカヌシカミ)*「高御産巣日神」(タカミムスヒカミ)*「神産巣日神」(カミムスヒカミ)*「宇摩志阿斯訶備比古遅神」(ウマシアシカビヒジノカミ)*「天之常立神」(アメノトコタチノカミ)
★神世七代「国之常立神」(クニノトコタチノカミ)*「豊雲野神」(トヨクモノカミ)
*「宇比地邇神」(ウヒジニノカミ)*「角杙神」(ツノクヒノカミ)*「妹活杙神」(イモイククヒノカミ)*「意富斗能地神」(オホトノチノカミ)*「妹大斗乃弁神」(イモオホトノベンノカミ)*「於母陀流神」(オモダルノカミ)*「妹阿夜訶志古泥神」(イモアヤカシコネノカミ)*「伊邪那岐神」(イザナギノカミ)*「伊邪那美神」(イザナミノカミ)
『日本書紀』
★「国常立尊」(クニトコタチミコト)*国狭槌尊(クニノサツチノミコト)*豊斟淳尊(トヨクムヌノミコト)
★国常立尊(クニノトコタチノミコト)別名・国底立尊(くにそこタチノミコト)*国狭槌尊(クニノキツチノミコト)別名・国狭立尊(クニノキタチノミコト)*豊国主尊(トヨクニヌシミコト)別名・豊組野尊(トヨクムノミコト)*豊香節野尊(トヨカブノノミコト)別名・浮経野豊買尊(ウカヨノトヨカウノミコト)*豊国野尊(とよくにのミコト)*葉木国野尊(ハコククニノミコト)別名・見野尊(ミノノミコト)
★可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカヒコジニミコト)*国底立尊(クニソコタチミコト)
★天御中主尊(アメノミナカクシノミコト)*高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)*皇産尊
★埿土煮尊(ウイジニノミコト)*炊土煮尊(スイジノミコト)*大戸之道尊(オオトノジミコト)
*大苫辺尊(オオトマベノミコト)*面足尊(オモダルノミコト)*惶根尊(カシコネノミコト)
★青橿城根命(アオカシネノミコト)
★天鏡尊(アマノカガミノミコト)*天万尊(アマノヨロズノミコト)沫蘯尊(アワナギノミコト)
★伊奘諾尊(イザナギノミコト)伊奘冉尊(イザナミノミコト)

●『古事記』『日本書紀』の漢字は異なり同時代に編纂され類似点のもあるが漢字表記も異なり、神々の現れ方が違い、『日本書紀』の物語では伊邪那実命は死に黄泉の国も、出雲の編は出てこないが、言われる『古事記』は皇家の史的な意味合いの云々については別にして『古事記』と『日本書紀』のに並列に何の意味が有ったのか謎は残る。
神名表記には音・訓入り混ぜて使われている。また『古事記』は和風表記で記され、『日本書紀』は漢風表記で記されている。



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