稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

沼田・吉祥院の調査をしました!

2013年10月13日 | 日記
10月12日(土)。

この日は沼田の吉祥院の寺院調査を行いました。

吉祥院は、天台宗のお寺です。

江戸時代には、天台宗の学問所の一つだった不動院の
末寺筆頭でした。

不動院との関係性を示す遺構として、
「天海の隠れ井戸」と呼ばれるものがあります。


上の写真の一番左がそれですが、今は往時とは
だいぶ変わってしまったようです。

今回も現在お寺に残る仏像やお経、古文書などの調査を
おこない、そして、「新発見」が二つほどありました。

何れも吉祥院が所蔵する古文書からです。


まず、一つ目は、
慶長7年(1602)の検地帳を確認したことです。


上の写真がそれですが、
「慶長七年壬寅十一月廿日/
 常陸国信太郡沼田村御縄打水帳/
 畑方三冊/
 沼田村吉祥院」
 と書かれているのが分かるかと思います。

 この帳面の最後には、
 「小林守右衛門/鵜沢伊右衛門」といった
 検地役人と、
 「案内者 弥右衛門/省 新六」という名が
 見られ、弥右衛門と新六という地元の者が案内
 をし、慶長7年11月23日に調査を終えた
 ことがうかがえます。



 「御縄打水帳」というのは、「検地」という
 田畑などの耕作地に縄を打ち、広さを測り、
 上・中・下などの等級をつけて、耕作地から
 獲れる収穫量を調査した際に、それを記録した
 書き付けのことで、「検地帳」や単に「水帳」
 などと言ったりもします。

「検地」で有名なのは、豊臣秀吉がおこなった
「太閤検地」ですが、稲敷市域では佐竹氏の
 秋田移封後の慶長7年(1602)7月頃から
 徳川幕府の役人によっておこなわれたものが
 多いようです。
 
 余談ですが、稲敷市でこれまで確認されている
 もっとも古い検地は…
 慶長4年(1599)8月におこなわれた、
 下総国矢作藩の領内検地だそうで、橋向、
 押砂、曲淵、飯島、石納、野間谷原、上須田の
 7ヶ村のものだそうです。

 「検地帳」は、農村の基本台帳ともいえる
 史料ですので、これが新たに見つかった意義は
 大きいといえるでしょう。


二つ目は、

「月出里(すだち)」の地名に関することですが、
これまでは江戸時代頃までは「月出」と書いて
(すだち)と呼び、
明治時代頃から「月出里」と表記するようになったのでは、
とされていたのですが、

天明8年(1783)と寛政12年(1800)の古文書に、
「月出里」
と明記されているのが確認され、江戸時代の中頃には、
「月出」と「月出里」の両方の表記を使用していた
ことが分かりました。


「天明八年申三月 荒田改反別書出帳 常州信太郡月出里村」


「寛政十二年庚申霜月日 御水帳写田中組 月出里村」


ただし、「月出」と「月出里」の標記の違いや使い分けに
ついては、まだ詳しいことは分かりません。


もう一つ、「月出里」の地名に関して、
聞かれることがあるのは、
「月出里」の「里」が、古代における
「国・郡・里」制と関係性があるのではないか?
ということです。

つまりは、古代の「里」の遺称地でないのか?
ということですが…

「里」という単位は、後に「郷」という行政単位に
置き換わるので、遺称地として残りにくいだろうとは思います…
が、これもハッキリしたことは分かりません。

今回見つかったのは江戸時代の文書ですから、
古代のことまでは分かりませんが、
「月出里(スダチ)」の地名がいつ頃までさかのぼれるのか、
興味はつきませんね。


今回の発見もそうですが、江戸崎町史や新利根村史、
桜川村史考、東町史など…
旧町村の町村史で分からなかった、見つからなかった
「新発見」を
稲敷市の資料館は、合併以後いくつも見出しています!!!

これらは、外部からの一時的な調査ではなく、
地域の資料館、地域の人々、協力者の方々による
地域に密着した丹念な調査の成果であるといえます。

さすがに、国宝や重要文化財、日本史を書き換えるような
「大発見」はありませんが、
今現在の私たちにつながりうる
「ふるさと」の移り変わりを示す貴重な史料です。

今後も可能な限り市内の調査を継続していきたいと
考えていますので、是非、市民の皆様のご理解と
ご協力、ご支援の程を宜しくお願い致します。




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