稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

富士山と三保松原と松本楓湖

2013年06月23日 | 日記
6月22日(土)。

この日、カンボジアの首都・プノンペンで開かれた世界遺産委員会は、
日本人にとっては忘れられないものとなるかもしれません。

当初、ユネスコの諮問機関は、
「富士山は登録することがふさわしい。ただし三保松原を除外すべきだ」
という勧告をおこなっていたそうです。

富士山と三保松原。

この両者は、日本画やその他、日本の工芸品などでよく使われる
題材です。

両者の一括登録は厳しいものと思われていたのですが、この状況を
逆転させたのが、審議における19人の各国代表の発言だったそうです。

最初に意見を述べたのは、ドイツの代表の方だそうで、
「富士山の登録を支持したい。三保松原を題材にした美術品も多く、
登録から除外すべきでない」と述べ、日本の風情として、
富士山と三保松原は分けることの出来ないものだ、ということに
理解を示し、一括登録を支持したそうです。

マレーシアの代表も、
「富士山以外の構成資産の知名度は高くないが、文化や歴史的な
背景から見て三保松原も不可分な要素だ」と発言されたそうです。


そして、フランス、インドなど多くの国の代表が支持を表明し、
当初は10分程度と予定されていた審議時間も50分に達する
異例の展開となったそうです。

そして、議長のハンマーが鳴り、諮問機関の勧告を覆し、
富士山と三保松原の登録が決定されると拍手と歓声が沸き上がり
喜びにつつまれた、ということです。

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さて、タイトルにもあります富士山と三保松原と松本楓湖ですが、
松本楓湖は、稲敷市寺内出身の日本画家で幕末から明治・大正に
かけて活躍した人物です。

歴史画を得意とし、戦前の日本史の教科書などに挿絵を描いていた
ことで有名な画家ですが、主宰した安雅堂画塾では沢山のお弟子を
育てたことでも知られ、今村紫紅・速水御舟など日本美術院の
綺羅星とも言える画家たちを輩出しています。

稲敷市内で松本楓湖の作品といいますと、逢善寺本堂の天井に
若かりし日の楓湖が描いた「飛天」の図があります。
この作品を描いた時の楓湖はまだ16才で、最初の師・沖一峨が
亡くなり、里帰りした時に描いています。

松本楓湖の母親は、逢善寺の裏手、小野川沿いの姫宮集落の生れです。
姫宮というのは、平安時代、この地で亡くなったと伝えられる
淳和天皇の第三皇女を祀った姫宮神社にちなんだ地名ですが、
幼い楓湖も母に連れられその姫宮の地で遊んだことでしょう。

その「姫宮」というところにある松本楓湖の母の実家に、
楓湖が描いた扁額が一点ありました。その辺額は、結婚式や
出産祝いなど、当家の「ハレの日」に飾られたものでした。

下の「富士三保松原図」(当館蔵)がそれです。




この扁額は傷みが激しいのですが、三保松原の松を前景に
遥かな富士の雄姿を描いています。

母の生家のために楓湖が描いたのは、日本第一の吉祥図案
とも言える富士山と三保松原の松だったのですが、もう一つ
うがった見方をすると興味深いお話があります。

三保松原に天女の羽衣伝説があることをご存じの方は多い
かと思いますが、楓湖が描いた扁額の松は、実は逢善寺本堂の
飛天(天女)が降りて来ることを願って描いたのではないか、
という説があります。

それは母の生家の繁栄を願った楓湖の寓意であり、彼一流の
「粋」だったのではないでしょうか。

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今回の富士山と三保松原の世界遺産への一括登録のニュースに接し、
郷土の画家が描いた古い一枚の扁額と、そこに籠められた画家の想い
に心を巡らせました。

富士山・三保松原・羽衣伝説といった日本人に古くから愛された
ものを、世界の人々が価値を共有することになった記念すべき
日に、そんな郷土の画家のエピソードを一つ、知っていただけ
たならば幸いです。