和歌山県、奈良県、三重県にまたがる山中で、昭和30年代以前の、まだ車道ができる前の、人が自分の足で歩き回っていた頃の道を調べていると、古い集落はぎょっとするような高い峰の上に開けていたりします。
奈良県十津川村の県道735号沿いも、車でただ通っているだけだと、所々にしか家がなくて寂しい、山ばかりが迫る谷深い道です。でも、集落は実はたくさんあるのですね。県道から一々細い車道に入り、ひえーと思うような高度を登っていくと、家々がある所に辿り着くのです。普通に皆さんが暮らしている所から見下ろすと、それまで通ってきた県道は、はるか眼下の崖の下に・・・。
でもこれ、昔の・・本来の街道が、山の上を通っていたからなんですね。昔は、峰から峰を結んで、人々はもっと高度の高い場所を行き来していたわけです。家々も田んぼもちゃんと、メインルートを囲んであるのです。わざわざ崖の下に、それも日当りの悪い、大水の度に地形の変わるような不安定な場所に、下りてこなくてもいいのです。
だけど高度経済成長期に、車が通る道は、沢に沿ってくねくねとつくられました。山の上を越えていくような道路はつくれなかったからです。
車道の方が、集落から離れたはるか崖下に遠ざかっていったのですね。
その結果、現在の私たちが車から見ると、ぎゃー、と思うような高度に家々が・・・(@@;
「なんでまたあんな所に家をつくったんだろう」とか、「十津川村はとんでもない所に人が住んでいる」とか言われてしまう所以ですね。
本当は、もともとは、とんでもない所じゃなくて、メインルート沿いだったんですけどね。
さてそんな、十津川村の県道735号の枝道を1つ1つ入って、集落を確かめながら遡上していると、谷の対岸にある集落に上がってびっくり仰天しました。くねくねした山道がぱっと開けた瞬間、集落の中をつっきる道が、桜、桜、桜だったからです。それも見事なしだれ桜!
そこに住んでいる個人の方が植えたものだと一目でわかります。そして、集落の他の家も一緒になって桜を大切にしようとしている意思が見えます。他の家々の敷地にも、若いしだれ桜が、新しく植えられているからです。
ここは市原という集落。
興味のある方はぜひ地図を開いてみてほしいのですが、市原は、(熊野古道小辺路で有名になった)果無山脈への街道の登り口の一つにあたります。大正時代までは、上湯川上流の集落の人々は果無山脈を越えて、熊野萩へ(現在の「道の駅奥熊野古道ほんぐう」のある辺り。昔から熊野川の川運の要所でした)買い物(!)に来ていたのです。1泊2日で行き来したそうです。(ここでもやっぱり、川沿いにくねくね遠回りするのではなく、峰の上をまっすぐ目的地に向かって越えていきますね)
北海道に戻ってから調べると、十津川村では有名なしだれ桜の名所だそうですね。七郎さんという方が植えていらっしゃるそうです。過去の人が作った名所ではなく、現在の人が今も手をかけ作り続けている現在進行形の名所、いかがでしょうか。
周囲山しかない中に、それも県道(上の方にある沢沿い)からちょっと離れて、ポツンと市原の集落がある様子が見てとれると思います。
また紀伊半島真ん中へもお越し下さい。何処も、地域医療は大変ですね。
こちらこそご無沙汰しております。ご返信が非常に遅くなってしまって申し訳ありません。もう桜は終わってしまった頃ですね、藤の花はそろそろいかがでしょうか?
野迫川、高野、花園、富貴街道、大塔諸々取材に行きたい所はたくさんあるのですが、なかなか足が届きません。でも毎月紀伊半島に行っているので、まただんだんに北の方にシフトしていきたいと思います。今後ともぜひどうぞよろしくお願いいたします。