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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

日本の危機管理は片手落ち

2011-06-06 | 危機管理と災害
梅雨の風景は、写真家としては嫌いじゃないんですけどね。
(和歌山県旧本宮町武住にて)



 原発、原発、原発、なんでこうなってしまったのか、ニュースは毎日目白押しです。危機管理の甘さを指摘する声に、ひたすら「想定外でした」の言葉が飛び交っています。

 私、いつも不思議でならないことがあります。日本の危機管理を考えた時に、明らかに半分が欠如しているのです。
 日本ならではの考え方から来るものなのか? 日本だけじゃないのか??

 とにかく半分がスパッと抜けている。

 それは、危機の"前"は、「危機が起こらないように」あらゆる手を尽くすが、「危機が起こってしまった"後"」の手がザルのように抜けているということです。
 「危機が起こらなければ済む話だから」、起こらないように全力を尽くすが、起こった後のことは何も考えてない、そもそも全力を尽くしたのに「起こる」とは考えもしなかった(想定外)、という状態です。


 前にいた病院で、医師不足の問題に直面した時も、それを強く意識しました。(原発問題と一緒にするなと怒られそうですが、根っこは同じように思うので、書きます)

 「医者が足りなくなる」
 その問題に対して、「どうしたら医者が足りなくならないで済むか」については皆それなりにエネルギーをかける、が、「実際に足りなくなってしまった場合、町民の健康や生き死にをどうするか」について、本当に、見事なくらい、誰もエネルギーをかけない、考えもしないのです。

 医者がいなくなるという危機が迫っている状況で、私は何度も役場、町長、関係者に、「本当に医者がいなくなってしまった場合、入院患者はどうするのか(受け入れ先はあるのか)、通院患者を遠方の他病院に通わせる方策はとれるのか(町で通院バスなど手配できるのか)、普段もっと遠方からこの病院へ搬送されてくる救急患者がいるのに、それをさらに遠方の病院へ運ぶことについては対策があるか」等々、考えてくれー考えてくれー早急に、と言い続けましたが、先方の言い分はこうです。

「医者がいなくならなければ済む話だから」

 だから、医師招聘に全力を上げているからそれでいいじゃないか、医者がいなくならないようにするんだから、医者がいなくなった時の対策はいらない、というわけです。
 で、同様に、「だから、あなたも辞めないで働き続けてよ、医者がガマンすれば解決する話でしょう」と。

 働き続ける気満々の医者でも、何が起こるか本人にもわからないですよ。常勤医がたった一人しかいない状態になっても、「医者は病気にならない、ぶっ倒れない、事故にもあわない、常にいて診療する」のが前提で、万一の場合を誰も考えようとしない、医者以外の誰もその問題に関わろうとしないのです。
 だから、私は「これでは危機管理が足りない」と言い続けましたが、「あなたの言ってる危機管理ってどういうこと?」と聞かれるばかりで(実際に聞かれた)、誰も理解してくれる人はいませんでした。(それでもずいぶん説明したのだけれど)


 原発のニュースを見ていても、同じことを感じます。
 原発関連の人たちが、事故が起こらないように、起こらないように、エネルギーを注ぎ続けてきた様子は確かに伝わってきています。が、事故が起こってしまった後のことについては、ことごとく「想定外でした」と。

 事故が起こらないように全身全霊を尽くす、のは、あくまで危機管理の半分です。
 事故が起こってしまった「後」についても、即、対応して動けるようにしておくことが、危機管理のもう半分だと、その両方があって初めて完成するのだと、私は思いますが。

 「事故さえ起こらなければ済む話だから」とか、「そういう事故はあってはならない(だから起こらない)」とかいうのは日本ならではの風潮なんですか? とにもかくにも、それはもうやめてほしいと思う次第です。

コメント (6)
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自分の死を遠くにおくなかれ

2011-04-20 | 危機管理と災害

 まだ解剖学教室にいた頃、お葬式やお通夜の場に行って、ご遺体をお預かりしてくるのが仕事でした。そのご遺体の服を脱がせ、化学薬品で防腐処置を施すのも仕事でした。私が尊敬している技官さんは、もう何十年もその仕事に携わっている老齢の方で、その手際には何一つ無駄がなく、ほとんど額から光を発するようにご遺体を見るまなざしは、「この人に看取られて死にたい」と思わせるほどのものだったのをよく覚えています。教室にはご遺体が何十体も並んでいました。そこで1年間にわたり人体について教えるのも仕事でした。周囲にはいくつもの標本(実際の人体の一部です)が並んでいて、それはただ眺めるものではなく、その一つ一つが何を示すための標本なのか、どこを見なければならないか、この標本がどういう経緯で(故人のいきさつで)ここに並ぶことになったのか、この標本があくまで人の意志の結果であること、等を、学生さんたちにこと細かに解説し、理解させるのも仕事でした。学生さんたちの実習が終われば、ご遺族と一緒に火葬場に行って、骨を拾うのも仕事でした。
 現在は、生きている患者さんたちを治すのが仕事ですが、臨終を迎えるために入院される方もたくさんいます。そういう方々を看取り、ご家族に死を受け入れてもらい、一緒に葬儀屋さんを見送るのも仕事です。
 救急車で搬入されてくる方が生きているとは限りません。そういう方について、警察の人と一緒に検死するのも仕事です。

 ご遺体というと、多くの人は視覚的なイメージを想像するでしょうが、医療関係者は死んだ人の匂いもわかります。沖縄や八重山で洞窟などに入ると、洞窟に満ちた人骨の匂いにむっとむせて大変なことがあります。トルコのカッパドキアに旅行に行った時も、向こうの人というのは、聖堂の壁や床下に直接遺体を埋葬するんですね、たくさんの観光客がごった返す洞窟教会で、私とダンナの二人だけは遺体の匂いにくらくらして、早々に出て来たことがあります。埋葬されていた部分は掘って空になってるんですが、たぶんまだ他にも埋まってるんだろうなと。
 もちろん感触も知っている。人間の形をしたものでないのも、たくさん知っている。
 だから食事の時に遺体の話なんかされたら、私は味がしなくなって飲み込めなくなります。現実の遺体を知っている人間は、興味本位に話をしたりしません。興味を持つ以前に、現実の方が上回っていますから、もうたくさんなのです。

 こう書いているだけで、猟奇的な興味で読む人もいるでしょう。

 だから、どんなに真摯に「死」と向き合う理由でインターネット上に遺体の写真や映像が出回ったとしても、そこには必ず興味本意で、それが「生きていた人」であることも考えずに群がる人が現れるのは必至で、それも、現実の「死」を知らないからこそ興味津々で群がる人々であって、私はそこに嫌悪を感じるのです。映像を見ていたら、たまたま遺体を見てしまった、キャー、というのは良いのです(それは逆に、良い経験をしたかもしれません) が、わざわざ遺体の写真や映像を探して徘徊する人々に嫌悪を禁じ得ません。そして、「他人」の「死」のみをわざわざ取り上げて、それで現実を知ったような気になっている人々にも嫌悪です。

 本当は、「死」というのはその人本人に一番近いところにあって、近いというか、その人自身がすでに内在しているもの、一つのコインの表(生)と裏(死)のようなもの、その人が日刻々と(死に)向かっているもので、その心臓(もしくは脳)が止まるだけで即、死、なのに(とても身近でとても簡単なことなのに)、自分自身の死をまったく思い描けず、自分の死を遠い所に置いて、実感できないからと他人の死を求める、そういう、自分の死についてまったくわかっていない人々に、私は嫌悪を感じているのかもしれません。


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危機察知能力と生存本能

2011-04-11 | 危機管理と災害
 「人が津波に飲み込まれる映像」で私のブログに来る人は、結局4000人を越えました。検索して、探して、求めて、来る方々なのでした。

 ちなみに自分は震災当日はほとんどニュースを見ることができませんでしたので、北海道に帰ってきてから、当時のテレビニュースをYouTubeでまとめて見たのでした。その中から、人が人を助けている映像(それで人が助かっているもの)と深く教訓になるであろうと思った映像をあえて引用したつもりでした。が、それがこんなことをあぶり出すことになるとは。

 人の死は、ちっとも凄くなんかないです。
 興奮するようなものでもないです。刺激的でもない。
 誰かの興味を満たすためにあるのでもない。
 親族でも親しくもない、その人柄も人生も何一つ知らない人間が、よそから囃し立てるものでもない、何も知らないのに身勝手な同情も無用です。

 現実の人の死に深く関わった人間ほど、「凄い」とか「怖い」とは懸け離れた感情に襲われます。凄いとか怖いとか言えるのは、関係ない所にいる外野の感情でしかありません。
 
 だから「見たい」とか「凄い」とか言うのは現実の死から遠い所にいる人の考え方であって、現実の死を知っている人は、そういう感情に嫌悪感を感じます。

********

 死体の映像や写真を見せなければ現実が伝わらない、というのも、私は嘘だと思いますね。

 メチャクチャに潰れた家や車(誰がどう見ても、この中で生きてはいられないだろうという)の映像や写真で現実が伝わらないというのであれば、遺体の映像や写真を見せまくったところで、やはり現実は伝わらないと思います。なぜなら、それは被写体がどれほどの何であろうと、映像も写真もやっぱり「媒体」でしかないからです。媒体を見て現実を感じ取ることの出来ない人が、感じ取れないからもっと媒体を見せろと要求をしても、やっぱり媒体を見ているにすぎないということです。

 そんなに現実を知りたければ、現地に行ってその空気を肌に受け、異臭を嗅ぎ、遺体に触れてその感触(生きている人とどう違うのか)を体験してくればいいと思います。

********

 それから、人の死ぬ場面や遺体を見ない限り、危険さがわからない、ピンとこない、だからメディアは遺体を隠さないで真実を伝えろ、危険さが伝わらないじゃないか、というのも、生物としてかなり危険な状況だと、私なんかは思うわけです。

 というのは、例えばカラスにはカラスの死体を見せることが一番の撃退方法になるように、生物として同族の死体(または生きているにしてはあり得ない状況の身体の一部)を見せることは、知能と社会性を発達させた生物にとって、最大の恐怖と最大の危機警告を与えることになるわけで、人間も同様なわけですが、そのマックスの危機状況を目にするまで、ピンとこない、危機がわからない、津波や地震がそんなに怖いものなのかどうか伝わってこない、というのは、あまりにも危機察知能力というか、危機回避能力というか、危機に対して生物が本来持っているはずの生存本能とでも言うべきものが、欠落しているとしか言いようがないのです。

 テレビで津波の映像を見ただけでご飯も喉を通らなくなり、眠れなくなったという人は、生物としてちゃんと敏感に反応しているわけで、身体はすぐにでも逃げ出す臨戦態勢になっているということですから(身体は食べなくて済むよう、眠ったりしないよう、きっちり反応しているわけで)、生存本能が高いと言えるかもしれません。

 なので、遺体の映像を見るまで危機感が分からないという人は、メディアが真実を隠しているわけじゃなくて、単にご自分の危機察知本能がマヒしているだけではないでしょうか。

********

 最後に、たまたま、先日話題になったYahoo知恵袋で興味深い質問と回答を見つけたので引用しておきます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?page=2&qid=1358960658

「これは不謹慎なのでしょうか?正常な精神状態のみなさん教えて下さい。東日本大震災で町は崩壊し、津波により沢山の被害が出てしまいましたが、 そこへ他府県から観光ツアーを組むのはどうなのでしょうか?」という質問に対するもので、ためになる回答もたくさんあったのですが、この方の回答が「外の人間」と「当事者」の違いを最も的確に表現していると思いましたので、(後から削除されてしまっても悲しいので)引用掲載させていただきます。

nori9347さん、回答日時:2011/3/30 11:20:59
 「あなたの家が火事で焼けてしまいました。全焼です。
 
あなたは突然のことに呆然としながらも家の片づけをしています。



 そこにあなたの家の目の前に、○○家復興支援火事場見学ツアーと書かれた大型バスが横付けされ、中からにこやかに微笑を浮かべた人がたくさん降りてどやどやとあなたの家を取り囲みます。バスガイドが火事の原因について解説を始めます。火事の時にに何をしてたか、どう思ったかなど思い出したくもない事を繰り返し繰り返し無遠慮に聞かれます。
 
参加者の中には、あーもうこの家は駄目だな、復興するのに数十年はかかる。俺だったら死ぬな。などと気の滅入ることを大声で話す人がいます。

 

あなたが仮住まいにしている場所にもツアーの人たちは訪れます。

 心の底から可愛そうにという顔をして、中には一度もあったことさえも無いのにあなたの手を握って、長いこと号泣するおばちゃんまでいます。それにあなたはずっと手を握って付き合わなくてはなりません。疲れているし、しなければならないこともたくさんあるのに。その知らんおばちゃんとの握手は、感動秘話って事で全国放送されてしまいます。

 そして無理の無い範囲の募金ということで、一人500円を差し出します。それをあなたは一人一人にお礼を言いながら受け取らなくてはいけません。一人でも邪険にすると、せっかく好意で募金したのになんだと怒られます。



 ざっくりこんなツアーがあなたの家に来たらどうですか。」
(以上、Yahoo知恵袋の当該ページから引用)
コメント (2)
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人が津波に飲み込まれる映像・・のこと

2011-04-04 | 危機管理と災害

 一昨日、「人が津波に飲み込まれる映像」というタイトルで記事を書きました。翌日、自分のブログの編集ページを見て目ん玉が飛出ました。
 この大して人も来ないマイナーな私のブログに、たった一夜にして何百人という人が殺到していたからです。
 そして、そのほぼ100%が、「津波 人 流される映像」「津波 人 死ぬ映像」というキーワードで、ここに来ていました。
 テレビがわざわざカットした「人が流される場面」「人が死ぬ場面」を、インターネットのモニターの前で、血眼になって探している人々がいるのです。

 そして今日、来訪者は前日よりもさらに何百人も増えていました。その全てが、「津波 人 流される映像」「津波 人 死ぬ映像」での検索でした。
 それでもう一度だけ、書くことにしました。

 そんなに、人が死ぬ所が見たいですか?

 特に、「人 死ぬ映像」で探して来られた多くの方々、ご自分がモニターの前で何をやっているのか、ちょっと止まって自覚していただきたい。

**********

 感覚としては、火事場の野次馬と近いものがあるのだろうなあと思います。自分の家なり、友人や親戚の家が燃えるのは嫌だけれど、知らない人の家が燃えているのは見たい。
 「えーっこんなに燃えてる、すごーい! えっ人も亡くなったんだって、こわーい! すごいものを見ちゃった!!」 他人事だからそう言えるのです。

 人の亡くなる映像は現実のことを映していますから、映画よりもガツンと来るでしょう。また、その「死」は自分の関係ある所には迫らないから、実際に自分に死が迫る極限の恐怖を味わなくて済みます。日常生活を保った状態で、適度な刺激を得られるでしょう。
 でも、インターネットのモニターの前という安全圏から、誰かの死の瞬間を見ようと探している人がいるということに、私は強い嫌悪を覚えます。

 少し前に、「人が死ぬ所が見たくて」複数の殺人を犯した殺人犯がいました(史上稀な早さで死刑執行されました) 心根は、その犯人とどこか違いますか?
 殺人なんてとんでもない。自分が手を下すのはイヤ。もしくは、目の前で現実に死ぬ所までは見たくない。現実の自分の身には体験したくない。
 でも、自分が手を下すのではなくて、現実の目の前じゃなくて映像というクッションを置くのなら見たい、というのは、見ようによっては殺人犯よりタチが悪いかもしれないです。
 
**********

 そんなに人の死を見たければ、まずは自分のおじいちゃん、おばあちゃんをしっかり看取りなさい。おじいちゃん、おばあちゃん、場合によっては家族や友人など大事な人が亡くなっていく場に逃げずに立ち会い、その目にしっかり焼き付けることです。

 今回の津波で大事な人を失った人々は、誰が流される場面が映っていようと、ヘドが出ると思います。
コメント (2)
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今回の地震で自分の身の回りで気になったこと

2011-03-14 | 危機管理と災害
 これは書いておかなければと思うものを2点。

 まず、驚いたことに続々と、海外の方から安否を気遣うメールが届きました。先日の論文のやりとりをしたアメリカの研究者から、以前、知床でたまたまヒッチハイクしていたのを乗せたことのあるだけのスペイン領カナリー諸島のおにいちゃんまで、「あなたと家族は無事か?」「日本のために祈っているので頑張ってほしい」とメールが届き、さらには、たぶんアメリカからだと思うのですが、誰だかわからない人から「明日、地元でチャリティーオークションをやって赤十字に送るから。心から祈っている」とメールが来ました。
 世界の素早い反応にびっくりするとともに、そうやってすかさず個人が行動する外国人の素早さを、見習わなくてはと思いました。海外の個人の人々からこんなに心配されていることを知って、本当にありがたいと思いました。

 もう一つ。
 那智勝浦町で見た様子がどうしても気になっています。
 地震当日夜は、時間が経ってから高知に2m60cmもの津波が来たことを受けて、「避難勧告」がより強い「避難指示」に切り替わりました。那智勝浦町は湾の奥で、防波堤などない港の奥に水平に近く商店や住宅街が広がっています。
 が、私が見た限りでは、ごく普段通りに人々はそこらにいて、夜遅くも、朝早くも、裏通りの普通に家々が並ぶ玄関先で人々が立ち話する声が聞こえ、そこらじゅうに普段通りに車が路駐されて、誰も逃げる様子はありませんでした。翌朝病院に行くと、普段通り待合室が賑わっていて、さすがに「これでいいのだろうか?」という気持ちになりました。緊張感や危機感のない町の様子でした。
 まだ東北地方では、異常な頻度の余震が続いており、連動して他の地域でも地震が起こる可能性がある時で(案の定、長野~新潟に地震が拡散しました)、いつ何のきっかけでこちらに大津波が来るとも限らない・・・と、私はかなり緊張していたのですが。(私は鉄筋コンクリート建ての3階に荷物を運び上げていました) しかもこの地方は、南海地震で今まで繰り返し大きな被害を受けている地域なのです。
 私が見なかっただけで、実際に危機感を持って対策をとっていた人はいたかもしれないと、那智勝浦町について書いているブログを検索してみたら、「津波なんて潮位が上下するだけ」「国道から海までの間は、みんな普通に暮らしているというのに、国道に出たら通行止めしている。手当が出るからだろうか。公務員は災害だと言って稼いで、税金泥棒だ」というような内容のブログくらいしか引っかかってこなくて、暗い気持ちになりました。
 まあ、こんな記事も引っかかってきましたので、もともとそういう所なのかもしれません。
http://hyuuga.iza.ne.jp/blog/entry/1481549/

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現況

2011-03-13 | 危機管理と災害
 死者1000人以上と言葉で聞かされても、数が多すぎてにわかには実感が湧きません。
 私は先ほど、南紀から北海道に帰宅することができました。那智勝浦町~新宮市は、大津波警報のために一部国道が通行止めになって交通が混乱した他、数々の店舗が早々に閉店して閑散と暗くなっていましたが、住んでいる人々は逃げる風もなく、普通に家にいて普通に歩き回っていました。病院は海抜約2メートルなので(港町なので、海抜を示す看板が、そこかしこに立っている)少々緊張しました。
 ダンナは災害時救急が専門の医者なので、出動要請を受けて岩手県に行きました。救助活動は稼働しているようです。

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